作雨作晴


日々の記憶..... 哲学研究者、赤尾秀一の日記。

 

概念論としての桐壺の更衣考

2008年03月12日 | 哲学一般

これまでの従来の概念観によれば、概念とは、個別具体的な事物についての経験から、その共通点を帰納して作られた単なる「観念」としてとらえられてきた。そうした「概念観」の欠陥は、ふつうの単なる帰納法科学にすぎない生物学や人類学のレベルならとにかく、それを超えた自己運動する生命などを科学の対象にできないことである。

概念とはそのようなものではなく、たとえば光源氏の母、桐壺の更衣の胎内に観念的に宿り、自己内矛盾によって一つの種のように豊かに展開し成長する物語の生命としての存在が「概念」である。この事物に内在する矛盾を認識し、その自己運動を必然性として認識しようとすること、それが事物を概念的に把握するということにほかならない。こうした概念観が重要であるのは、本来の科学とは事物の内在的な運動の必然性を認識し、それを論証することだからである。だから、この科学は、弁証法科学もしくは演繹法科学とも呼びうるが、この概念のもっとも普遍的な運動法則を展開したものがヘーゲルの論理学である。科学としてこの論理学の意義と重要性もここにある。

源氏物語も、橡川一朗氏の提唱するような民主主義の教科書としてではなく、概念論の検証として、弁証法の検証として読むことはできないだろうか。

源氏物語は光源氏の母、桐壺の更衣の描写から始まる。

源氏物語(1)光源氏の母、桐壺の更衣(桐壺考)

 


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