銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

線路に咲いた一本の百合・・・・・腸詰屋・鎌倉が行った、私に対するいじめと、その後の展開△△

2016-02-14 14:04:03 | 政治

 このブログですが、15日の夜8時に、二回目の誤変換直しと、推敲を行いました。で、恒例の△じるしを、二つ総タイトル横につけておきます。

 ところで、まず、下の写真の説明をさせてくださいませ。

 これは、多分ですが、2001年ごろの写真です。結構ふくよかで明かるいでしょう。そして手がきれいでしょう。手は、私にとって、一日中使う道具であって、最も大切なものです。このころは指の腹の方が、アンテナ風にとんがっていました。美に対する感覚が優れていた時期です。

 まったく化粧をしない人である、私ですが、これに、ファウンデーションをぬり、しかも、三ミリぐらいアイラインを引いたりすれば、もっとみられるレベルになるかなあ? 

 お店としての場所は、外人記者クラブのレストランです。そこで、元そこの理事長であった石塚雅彦さんの会員資格を使って、12人ぐらいが、一緒にお食事をしているところです。渡辺幸子さんに、ただ、100号の絵を出品したというだけの理由で、手ひどくいじめられる前までは、平和そのものであって、誰の事をも、信頼しきった顔で、写っています。それは一緒に絵を展示する同窓会展の、事前の打ち合わせ会での、事でした。時期的には、その幸子さんのいじめと言うおお騒動以前なのです。だからこそ、おばちゃん風です。構えていないのです。警戒心、皆無なのです。特にICUの同窓生に対しては、そうでしたね。基督教精神に基づいているお仲間だという認識があって、和気あいあいで、会話を交わしていた時期です。

 国画会の人々に対しては、『どうもおかしいなあ』と、思う事は、すでにあったと思いますが、事、ICUに関しては、疑いは、微塵も抱いてはいませんでした。

 こちらの方は、さらに、その後であって、2011年を過ぎたころ(65歳ぐらいのとき)でしょう。上と比べると、数々のいじめに出会っているので、痩せてきているし、暗い表情になっていますね。だが、こちらでも化粧を、一切していないので、もっと、お化粧をすれば、美人(?)に見えるはずです。(苦笑)

 この二つの写真の間で、もっと、もっと、輝いていた時期に、場所としては、鎌倉小町通りに、あった時期の腸詰屋の主人から、思いがけないひどい仕打ちを受けるのでした。 しかし、当時の写真が無いので、この間ですと言う事で、お許しをいただきたいです。

副題1、『電車の遅延現象の多発、の、起点となった私の文章』

 下の*****罫線二本内に挟まれた文章は、私が2002年に書いた文章です。その頃は、ブログはやっておらず、これは、相手の名前・顔・住所を知っている知人あてに送っているメルマガ用の文章です。ですから、政治的なにおいが、有りません。そして、このころは、まだ、私は、芸術一本やりの時期であって、感性が鋭い時期でした。小さなエピソードにも意義を見つける時代でした。

 私の文章の特徴は、そのテーマの見つけ方と、そのテーマのお料理の仕方に在ると、おもっております。で、ほぼ毎日書くわけですが、中には、それほど、よい文章ができない日もあるわけです。しかし、文章を読むことにたけた人間なら、『これは、出来が良い』と、考えてくださる文章もあるはずで、この一文など、そういうものでしょう。

 しかし、だからこそ、鎌倉エージェントの、特に、井上ひさしには、目を付けられ、『ここを突っ込んでやったら、彼女に対する脅かしの役に立つ』と、考えられた文章の一つでも、あるのです。で、JR東日本の各路線に、遅延現象が多発することになった、初因である文章だと、みなしております。

 ほかにも禁煙ファッショの起動点は、この文章であるとか、

 2014年のノーベル賞が青色ダイオ-ドの関係者に下ったのは、この文章が、初因であるとか

 八幡宮様の大銀杏が倒壊したのは、アメリカキササゲを伐採なさったことに初因があって、それを生み出した文章は、こちらであるとか 4つぐらい見つけてあります。ただ、本日は、以下の文章だけを、再公開させていただきましょう。

 この一文は、2002年にメルマガで配信をして、2004年に、【れすとらん・ろしなんて】と言うエッセイ集にまとめ上げ、600冊ほど、出版して、ほとんどを贈呈として、配本をしたものです。お金持ちの知人たちが、1万円のお祝い金をくださったと、言うほどに、面白くできていると、思います。その一万円のお祝い金ですが、一人や二人ではなかったのですよ。相当な数だったのです。

 ところで、こんなに無難な本(その中には、政治的な、テーマは、一切入っていない)のに、制作中にも、フリーズしたり、出版後も、この鎌倉エージェントたちに種々様々な嫌がらせを受けました。

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副題2、『鎌倉腸詰屋って、大発展をしているみたいですが、その理由は何なのだ?』

 副題1の中で言っている、出版後のいじめですが、前田祝一氏と、腸詰屋が、連動して、いじめを行ってきたのもあります。非常に印象が濃くて、10年後の今でも、その時の腸詰屋の主人の顔は、忘れられません。さきほど、BSプレミアムで、中国名園紀行と言う、短い番組があって、頤和園が出てきました。その中で、西太后が、ちらっと、写ったのですが、あの顔にやや似ています。が、それに入る前に、腸詰屋そのものについて、いろいろ、説明をしたり、論考をしたりしないといけません。鎌倉に住んでいる人、および、鎌倉を観光地として、眺めていて、その盛衰を考えている人、または、お店をやっている人は、皆さん、驚いていると、思いますよ。『腸詰屋って、どこに秘密があるんだ。あんなに一気に発展をするなんて』と思って。彼は、鎌倉エージェントに「愛いやつ、愛いやつ」と、認められているから、あれほど、急激に発展ができたのですよ。それを今から丁寧に、書いていきます。

 私が、逗子にアトリエを作って、海外へ、留学する自由を確保し、そのために、ずっと、昼夜分かたず、そこで、暮らしていたのは、1998年の末から、2003年の、9月までの事です。その2003年の五月に、その年同じ年の一月から始まっていた背中の激痛を、当時は鍼灸医として開業をしていた主人に完治してもらって『おや、おや、私は、この人に大恩義をこうむったわ。では、結局のところ、神様から、<<<<<この男性の主婦をやりなさい。そういう形で、生きていきなさい>>>>と言われているのかしら』と言う天啓を受けて、自宅へ帰って、夜は、自宅で過ごし、昼間だけ、アトリエへ通っていた時期です。

 で、その前に、私が逗子へ行きっぱなしになっていた時期に、鎌倉小町通りに、ARKAMAK(アルカマクと読む。鎌倉をローマ字化して、反対に並べたもの=現在の腸詰屋の前身)と言うカフェが開いていました。その頃の私は、結構なレベルで、輝いていたのですよ。だからこそ、電車の中で、誰に話しかけても、最高の会話がもたらされた時期だったのです。それが、エッセイ集へ結実して行きます。

 その理由ですが、実は四回ほど海外へ行っています。旅行ではなくてです。版画の修行のための長期滞在でです。二週間程度の、旅行を加えると、すでに、合計六か国へ行っている時期でした。イタリアだけが団体旅行でしたが、他は、すべて個人旅行です。

 ともかく、2002年の夏まで、ニューヨークの知人たち(主に外人である)と密接な関係を持っていて、かつ気分的にも、ひどく前向きで、世界中に通用するアーチストになる予定と気分を持っていました。でね。派手ではないが、一種のオーラに満ちてはいたのですよ。それを、腸詰屋の主人にも後日言われることとなるのですが、・・・・・

 それもあって、かつ明るい人そのものなので、毎朝、腸詰屋の主人とあいさつを交わす間柄になっていました。彼は英語ができると言う事だったし、私も、いわゆるアメリカナイズした、オープンマインド型人間なので、毎朝のあいさつは、結構、力のこもったものだったと、思います。お互いに、強い印象を抱き合っていたでしょう。

 私は朝の8時台に、家を出ます。9時から、アトリエで、仕事をしたいという気分でした。当時は、主人も鎌倉の大町と言うところに診療所を構えていましたので、二人そろって、出勤ですが、私の方が早く家を出ることもありました。主人はケミスト(化学専攻)で、日産自動車の研究所で、ノックスガスの除去をした人間ですが、57歳の時に一念発起して東洋医学を学んだのです。

 当時は、アルカマクと言っていた、今の腸詰屋も、出勤は早い人でした。鎌倉小町通りで、間口を広くオープンにしているお店は、最近では、たくさんできましたが、今から15年前・当時は、少なかったので、前面の、四分の三を開口部にしていて、そこで、作業をしている、主人の姿はひどく目立っていて、お互いに、すぐあいさつを交わす間柄になりました。

 で、私は、ARKAMAKについて、2編ぐらい、エッセイを書いています。それですが、昔のAOLは、マイクロソフトのシステムを通していない形式だったので、パソコンが壊れると同時に、失せてしまっていますが、多分たわいが無い内容のエッセイだったはずです。でも、それを読んだ友人には、「あなたは、人間観察が鋭いわね」と言われています。彼の日本人離れしたオープン・マインドが、どこから来ているかなどについての考察です。

 さて、そういう風に仲良くなったわけなのですし、お商売をやって居る人だからと、思って、「今度、本を作ったから買って。全部自分で作り上げるのよ。表紙も挿絵も、文章も」と頼んでおりました。そして、イエスと、言われていました。

 私もまだ、二冊目だったので、いわゆる本格的な出版社へ、発展をして行くことを疑わない部分もあったし、費用対効果と言う事を、慶応大学卒のK君と言う小学生時代の同級生に、教えられていたので、できれば買ってほしいと、思っていたのです。その頃、自宅の電話が盗聴をされているなどとは、夢にも思わなかったので、友人マダムKY他にもそれを報告をしました。それから先に、ものすごく、きつい、裏切りに出会うのですが、その裏切りこそ、電話盗聴で、知った、伊藤玄二郎たちが仕組んだことだったのです。結構、大掛かりなだまし討ちでした。2004年当時としては、すこぶるつきの謀略というものでしたね。だから、すぐさま二は、何も文章を、書いては、いません。これは、ずっと後で、もっと、スパイラル状に、いろいろな説明が終わってから、書くべきだと、考えておりました。

 この時点で、すべての連絡が、盗聴をされて居て、こちらを攻撃する材料として、使われていたのでした。まったくの人権侵害の例ですが、それを行っているCIAと言うものがどういうものであるのかを、鎌倉腸詰屋を材料にしてこれから、語りたいと、思います。

 腸詰屋の主人には、今、言っているこの2004年にも、面と向かってリアルな世界で、かつ直接的なレベルで、裏切られるのですが、2014年か、2015年にも、今度は、「この店を・・・・・二度目の・・・・・移転します」というビラと言う形で、間接的な形で、裏切られます。しかし、この後者の裏切りは、彼の方は、100%、関与して居なくて、ただ、単に、例の悪辣な連中が、そういうビラだけを、閉店後の、店先に、張ったのかもしれません。悪辣な連中とは、警察の別働隊と言うことです。

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副題3、『アルカマクは、一回移転をしている。それと、腸詰屋と、名前を変えた出店も駅近くに、している。が、だからこそ、「移転をします」と、言うビラが、対私ひっかけとして、役に立つと、考えられていたのだろう。それを張ったのが、だれなのか?・・・・・ともかく、私は、この後者の騙しには、乗らなかった。ので、いつの間にか、そのビラは、消滅しているが・・・・・』

 今(=2016年2月14日の夜10時)、前田家の二階の天井灯が煌々とまたついていますが、はっきり言って、前田家と、安野家の為に、わが家の土地は盗まれ、わが家の崖は崩されています。こんな事、普通の場所だったら、絶対に許されないことですが、ここは、20軒しかなくて、しかも、いわゆるタコ部屋的な、閉鎖地区なので、私が訴訟を起こさなかったので、1985年に起きたそれは、まったく賠償されることもなくて、放っておかれ、彼らは、更に、平気な面で、さらに恐ろしい事をやって来て居ます。

 彼らにしてみれば、どんな悪事を、私に対して、どういう風に、行っても、「彼女が、死ねば、それで、一切チャラになって、消えるさ」と、うそぶいている事でしょう。

 しかも、安野家は、その後も、水をタイミングよく、未婚のお嬢さんの携帯を利用して、私にぶっかけようとしたり、すさまじい攻撃を繰り返している最中です。あれが、ブロックだったら即死と言うところでしょう。

 その時に、利用をされたA家は奥さんの方の実家が、田園調布に在るそうで、だから、さすがに東京育ちのインテリなので、『こんなところに住んでいて、しかも、前田家と、安野家に、悪利用をされてしまったら、後は、立つ瀬がないのだ。救いはないのだ。川崎さんを殺したって、寝ざめは悪いだけでしょう。自分たちが、良心の奥底に、どろどろした黒いマグマを抱えるだけですね』と、はっきり悟ったらしくて、引っ越していきました。賢いです。だから、今は、実名表記をしないで、置いてあげているのです。

 しかし、そういう時期の事情を何にも知らず、しかも、私の犠牲が無ければ、新築もできなかったであろう(と言うのは、道幅が、50cm以下に危うくなるところだったのだ)渡辺賢司家と、白井・小野寺(夫婦別姓である)家が、前田家の言うなりになって、激しい攻撃をしてくるのは、許せません。だから、徹底的に、文章化し、彼らの汚さを、書き続ける所存ではあります。「静かにして居なさい。何も知らないくせに」と何度も警告をしているのに、悪い方向へ、動くからです。

 また、小野寺夫人が、或る時、「こんなところ・・・・・」と言う言い方をしたので、彼女も、ここを別に好きでもないのだと、思いますよ。テレビ朝日の【渡辺篤史の、たてもの探訪】と言う番組に登場していて、ご主人は、その中で、「ここには、好ましい自然があるので、家を建てた」と言っていますが、ものすごいレベルで、前田家とか、安野家に悪利用をされていますので、将来ともに、安泰でもないと思います。この番組の白井・小野寺夫妻が登場する回ですが、すでに、見ることができなくなっていて、ただ単に、プチサイズの写真が見られる段階に変化しています。だが、私はわざと、そういう時期まで、この件を書くことを抑えて置いたのですよ。気高い(苦笑)ので、直接的な復讐めいたことはしないのです。ただ、分析し、文章化することは致します。それは、そのまま、勤務し続ければ、必ず、東大の教授にはなれるだろうと言われた私の特質だから、仕方がありませんよ。哲学的考察は大好きで、息をするがごとく、いつも、ものを考えている人間だから、仕方がありませんね。しかも、朝刊を取る、夕刊を取る。また、郵便物を取る、すべての日常生活の有りとあらゆる場面で、無残にも無断で壊された崖は見るし、わが家だけ、無残にもコンクリート打ちをされている、アジサイ畑を見るわけですから、毎日、前田清子さんと、安野智紗夫人の、めちゃくちゃにはた迷惑だった1980年当時の、大声の、井戸端会議を思い出さずには、いられないわけです。

 特に旭化成のデータ流用疑惑とか新国立競技場と関係があると、推察しているので、将来とも、お隣の、白井小野寺夫妻については、書いていくことは増えるでしょう。

 しかし、ここでは、アルカマクが、移転をした問題へ、戻ります。今、小町通りが、終わるあたりに、初めてのコンビニとして、ローソンができました。その場所こそ、アルカマクが存在して居た場所です。大家さんは、アルカマク(=腸詰屋)の主人を嫌っているという話です。腸詰屋の主人には、表向きに他人に見せている顔とは、別の顔があるでしょう。で、大家さんは、家を改築するにあたって、アルカマクには、もう、貸したくなかったらしくて、ローソンと契約したわけで、仕方がない腸詰屋は、今度はさらに鶴岡八幡宮に近い場所に移動をしました。ここも、昔からの住人が、建てた貸し店を借りるという形式ですが、以前の場所と比較すると、圧倒的に立地条件が悪い場所です。どういうことかと言うと、歩道が狭すぎるのです。

 腸詰屋は、温めたソーセージを売ることを、眼目にしています。非常に狭い歩道に面して、ホットプレートが置いてあるので、買う人は必ず、歩道に立ち止まることとなります。急傾斜になっている幅の狭い歩道の、少しある側溝の蓋めいた水平の部分に、ソーセージを買うお客が立ち止まるので、八幡宮へ向かうお客が、車道へ、はみ出して、歩くこととなります。これに懲りるお客は、やがて若宮大路の方を使う様になるのではないかな? で、小町通り商店街は、腸詰屋のせいで、売り上げが落ちる?

 私は、このブログのどこかで、この<<<<<歩道が狭い事>>>>>については触れています。改善策を提案しています。それは、腸詰屋の対面である北側の八幡宮の土地を、少し、車道へ、提供してもらって、南側の歩道を広くしたらいいという事です。そこに八幡宮様固有の、お堀めいた川があるのです。しかし、都会の川は暗渠になっているところは多いのですよ。そして、道路として使われているところは多いのです。だから、ここも、そうなさればいいと、提案しています。そうなると、北側に、1.5~2m幅の歩道をとっても、南側に、2~2.5mの歩道を新たに、拠出することができます。

 そういう提案はしていますが、その際に、アルカマクとか、腸詰屋と言う名前は、注意深く出していないと、思います。今、リンク先を探し出せませんが、あの店が、移転したばかりだったので、遠慮をしたのでした。本日バリバリと、その実名を出して語るのは、前田家が、二階の天井灯を、煌々と点けているからですよ。一度目のいじめは、彼と、アルカマクの主人が結託をした、政治的な災いだったので、どうしても、連想で、思い出すわけですね。

 しかし、歩道の幅について書いた際は、前田家の二階の天井灯を、こうこうと照らすという恫喝用・作業は、まだ、行われては、いなかったので、私は、アルカマクも、腸詰屋も、実名は、出していません。

 しかし、本日、腸詰屋の、実名を、出すのは、シャルリーエブド事件から、ドイツ格安航空機のアルプス激突事件、リビアでの博物館襲撃事件などと、外国で、IS国を使った大事件が起きて居て、大勢の無辜の人が死んで居ます。日本でも、川柳を窓に貼っていた保見が逮捕された周南事件で、五人殺された事に始まって、平野姓の五人が殺された洲本事件、寝屋川の中一児童二人が、山田浩二に殺されたとされる事件、ペルー人の若者が殺したとされる熊谷事件6人など、すさまじい人数の無辜の人間が死んでいます。

 それらは、すべて、前田祝一・清子夫妻の行動と連動をしていて、すべてが、鎌倉エージェントたちを助けるために行われたと言う事が、私には、明々白々なのです。ただし、この種の真実は、NHKが、発表するわけもないので、日本人総体は、はっきりとは、知っていないことなのですが・・・・・神様は、知っていて、彼ら夫婦に協力をしている鶴岡八幡宮様に、お叱りの、みしるしを与えておられます。

 特に、周南事件の犯人とされている保見が、第一審で、死刑になったとされる、その夕方、30年間に始めてみた、唐桟の着物で、おしゃれして外出(碁会所にでも行くのかな?)前田祝一氏を見たのは、決定的でしたね。

 でね。腸詰屋は、こういう因果関係を、詳しくは、知らないと、思います。だが、私には明瞭です。その二人の協力が、最初に行われた2004年にも、すでに、将来の禍根は、目に見えておりました。だから、いま堂々と、腸詰屋の実名をさらすのですし、この章以降は、腸詰屋に関しては、すべて、実名で書くこととなるでしょう。

 私は、ものすごく慎重だし、相手の立場を思う人なのですよ。安野家や、前田家が過去になした悪などについても、25年以上の長きにわたって、黙っていて上げているぐらいです。決して過剰にはならない様にと、気を使い切っております。アルカマク(=腸詰屋)だって、2004年にすでに、ひどい事をやってきているのに、移転直後には、名前は出さないで、この歩道の混雑ぶりを描いている次第です。

 しかし、私の文章は常に研究をされていて、ここが利用しどころだと、例の鎌倉エージェントは、考えたのでしょう。で、閉店後の腸詰屋の窓に、「近々、(二度目と言う事でしょうね。新らしい店の店先に貼ってあるのだから)移転をします。すぐ西側です」と言うビラを貼りださせたのです。それを張ったのが腸詰屋の主人自身なのか、それとも警察なのかは、判りません。ここいら辺は、ミステリー中のミステリーたるゆえんです。

 そこは、普段なら、私は、通らないところなのですが、東京へ行った帰りに夜の10時より前に鎌倉駅にたどり着くと、バスを使うことがあるのです。たった二底流書だけ乗るので、さして、得でもないのですが、まあ、帰宅してからパソコンを打ちましょうなどと思っているときは、ほんの少しのエネルギーでも、温存をしたくて、バスに乗るのです。で、その、大船行きの江ノ電バスの【八幡宮前】で、降りるのですが、降りると、すぐ目の前が、腸詰屋なのです。だから、狭い歩道を通って、その窓を自然に見るという形ですので、ビラを、東京に出た度に、警察が張っていた可能性もあります。で、もし、私がそれを信じて、「腸詰屋って、また、移転をするらしいです」と言うブログを書きでもしたら、『嘘を言って、営業妨害をした』と言う事で、このブログを閉鎖でもしてやろうとする、前田祝一氏一味に、一献、差し上げてしまう事になったでしょう。

 しかしね。そういうひっかけは、何度も過去に、繰りかえされているので、すぐさま成り行きや意図が、読めますので、何も文章は、書きませんでした。そのうち、そのビラは、自然に張られなくなりました。そして、貼っていない状態で、すでに、一年以上が過ぎています。

 で、そこまで書いてから、12年前の、もっと直接的で、彼が、態度や言葉を使って行ったひどい裏切りについて、述べたいのですが、すでに、字数が尽きた上に、ドイツ、列車事故も途中ですので、「腸詰屋の、10年前の裏切りについては、後日に、書きます」という形で、終わらせておきましょう。

 ただね。腸詰屋・鎌倉店と言う・・・・若者向けに、暖めたソーセージを売っているお店が、・・・・・実はべっちょべちょに、CIAの味方であると言う事は、ここで、言明をしておきたいと、おもっております。べとべとに取り込まれています。若者が、給料が低くて、年功序列制度も無くなってしまい、未来に希望が持てなくなったのは、日本が実質的には、アメリカの、被植民地国家であるからです。しかし、そういうことを隠す為に、日本人エージェントと言うのが居て、言論弾圧を、実際に行っています。それは、彼らが潰したいと狙う相手をノイローゼにさせて、精神病院へ収容してしまおうという手法で行われています。

 腸詰屋鎌倉店の主人と言うのは、そういう弾圧の、最先端にいて、具体的に、言論弾圧用の動きを、私に対して、やっていた存在だと、言わせていただきましょう。もしあの移転をしますというビラが、彼本人に了承のもとに、彼が、関与しているモノだったら、現在も、現役で、弾圧者役を果たしていると、言えますね。だから、彼の商売は、すこぶる付きで、矛盾に満ちているモノなのです。若者からお金を吸い上げて居ながら、おおもとで、若者を裏切っている・・・・・。

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副題4、『本日、初めて、腸詰屋・軽井沢(本社)のホーム頁に入ってみたが?』

 私はね。方針変換をして、第一次いじめについては、書かないと、決めてからは、余裕が出たので、本日初めて、腸詰屋・軽井沢店のホーム頁に入ってみました。

 そこで、初めて分かったことがあるのですが、腸詰屋、鎌倉店とは、ロゴとか製品は、軽井沢店と、同じものを使っているみたいですが、協力店なのですね。ほかの言葉でいうと、フランチャイズ店と言うのかな?

 アルカマク時代には、彼が、どこのソーセージを使っていたかは、知りませんが、フランチャイズに、しろ、何にしろ、彼が、アルカマクと言う、ただ、一店舗のカフェを経営していた頃に比較をすると、今は大発展です。で、使用人がいないとだめですが、弟、それから自分の、又はおとうとの細君、そして、自分の子供、と、兄弟の子供たち(=甥、姪)などを総動員して、店舗運営をしていると、見ています。由比ガ浜店もあったらしいので、四店舗時代もあったわけです。だけど、今年初めて軽井沢の散策をして、腸詰屋が、軽井沢にも、数店舗あることを知り、本日まで、彼がそちらも運営をしているのかと、誤解をしておりました。

 本日やっと、腸詰屋本社のホーム頁に入って、それは、誤解だったと判ったわけですが、彼が、この17年間の間に、急速に伸びたのは、上に言っている、CIA陣営に、私をいじめることによって、参入したことも大きい事だったでしょう。伊藤玄二郎は、鎌倉商工会議所の会頭などに彼を紹介し、ロータリークラブ等へも推薦したでしょうし、

 今の豊島屋の社長とか、山内静夫さんにも紹介をした筈です。それが、彼自身の決断と言うよりも、鎌倉エージェント側の、御礼の意味合いがあったと、思います。で、すこぶる自信を得たというところでしょう。しかし、由比ガ浜店を閉鎖したみたいですね。拡張主義ばかりでも、破たんは来ます。

 それ以外にも別の理由で、破たんがくる様な、気がしています。たとえば、腸詰屋本社と、喧嘩するとか。と言うのも、芝居っ気たっぷり過ぎて、しかも、善人ぶりすぎるからです。しかし、実際には、善人ではない。それを知っている存在は大勢いると、思いますよ。

 弟さんとそっくりですが、目が、白目と黒目の区別のない目ですね。なんだろう。細いというのとは、ちょっと違う何かがある。それは、なんだろう。それは、本日初めて覗いてみた、腸詰屋軽井沢店(=ぐんらくと言う会社)の、ホーム頁で、店長をしている人たちの顔とは、まったく違うものなのです。

 それからね。お客さんの方を、分析する話に入りますが、一回目はおいしいと、思うでしょう。ただし、座って食べられない形で、地ビール小瓶一本と、ソーセージ一本で、千円です。「高いなあ」と、言っている人がいます。食べログでも「気に入らないのは、削除する」と言っているから、もっと、多数の「高いなあ」と言うコメントは、寄せられているはずですね。

 ただし、レストランで座って、食べて、1600円払うよりも、立ち食いでいいから、千円で済ませたいという、節約志向のお客様が多いので、はやっているのかもしれません。現在でも、みんな、お金を倹約しようというムードに満ちています。でもね、鎌倉へ往復二時間で、二千円の交通費を支払って、滞在時間は、5,6時間かかるプチ旅行に来ていると仮定してその間、若者がソーセージ一本で、おなかが満たされるわけでもないです。そうなると、もう一回食事をとる。それは、合計2500円以上になるので、普通の、若者たちにとっては、切ない出費にあたると思います。したがって、一度目はともかく、二度目以降の、リピーターは、少ないはずです。軽井沢店は違うでしょう。軽井沢は、見えを張ろうとしているお客が多いだろうし、お金を使うという覚悟で来ているお客が多いでしょうからね。鎌倉は、今は、倹約志向のお客に満ちている観光地なのです。

 2004年に起きたいじめの詳細を書いていないので、私の方が、いじわる気に見えますが、本当に手痛い目の合わされているから、そういう風に言わせてもらいます。

 では、本日のブログ(下に置いてある。ドイツ列車事故の3)が、完成する前の間、この*****罫線二本の間の、エッセイ『線路に咲いた一本の百合』を、ご覧いただいておきたく存じます。アルカマク(=現在の腸詰屋)の想い出に入って行ったのは、このエッセイが第二章として入っている本に対して、手ひどいいじめを行われたからでした。裏に鎌倉エージェントたちが隠れていた、複雑な形のいじめです。

2016年2月14日(日) 雨宮舜 (本名 川崎 千恵子)

 なお、このブログの2010年より数え始めた延べ訪問回数は、


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@2 線路に咲いた一本の百合 

  鎌倉駅のホームで午後二時頃疲れ切ってしゃがんでいました。これは子供達が非常に嫌がる姿勢です。「お母さん、う・ん・こ・ず・わ・りだけはしないでね。みっともないから」と言われています。皆さん、ごめんなさいね。うんこ座りなどと言う汚い言葉を使って。でも私は若い人に大変興味が有りますし、渋谷などで気力の無い若者がこう言う座り方をしているのを、こう言う風に呼ぶのかと思い、面白い言い方だと、昔、感心をした事が有るのです。確かに格好が悪いのですが、私はもう、気張るところだけ気張るつもりで、後は、全くリラックスして、構わない方です。その日も二次間近くお昼も食べないで、鎌倉市内を用事で歩き回ったので、疲れ切っていたのです。ベンチに座りたいのですが秋の良い天気の日で観光客が一杯で、ベンチはどれも空いておらず、仕方なく、ホームの端っこでうんこ座りをしていたのでした。 

  するとベンチから、上品な老婦人が立ってこちらに向かって歩いて来ました。「あれ、ベンチに座りなさい」と席を譲ってくれるのかなと思ったらさに在らずで、彼女は線路を指して「ほらご覧になって。あそこに百合が咲いていますよ」と言いました。私がそちらを見ると、本当にびっくりした事に、砂利の中から細い茎がすっきりと立って、その上に、カサブランカか、山百合の白い大輪の花が付いています。『こんなところにどうして百合が咲いているの』と思うほどの見事な花で、本当は「まあ、綺麗」と感動するところでしょうが、反対に、私は大変下品な事を口走ってしまいました。「ああ、あの百合は、きっと慰霊の為に咲いているんですよ。だってここは以前、飛び込み自殺が有った所ですから」と。

  すると老婦人はひどく驚いて「まあ、いつですの? 今日ですの?」と聞いて来たので、慌てて「いいえ、二年ぐらい前ですけど。それに人が実際に飛び込んだのは反対側だったんですが、遺体が、丁度あの百合の辺りに担架に乗せられて置いてあって、シートが掛けられていました」とも、更に詳しく当時の情況を言ってしまったのです。でもすぐ『ああ、まずい事を言ってしまったな』とは思いました。だってこの老婦人は本当に美しい物に感動して、それを分かち合いたくて、私に話し掛けて来たのです。それなのに、まったくもって夢の無い私の受け答えでしたからね。丁度、電車が入って来たので、私は恥じ入って、彼女とは 違うドアから車内に入りました。彼女とはだいぶ離れた席に座ったのに、彼女が又、近寄って来てくれたのです。

  「電車にお乗りに成ったのですね。それは、絵のキャンヴァスですか?」と私は問われました。・・・・・そうです。私は今、大変絵を描きたくて、12号のキャンヴァスを毎日、4枚ずつ買っては、電車に乗るのです。今日は画材店だけでも、二軒お互いに離れているところに行ったので、それも疲れ切っている原因でした。・・・・・で、私が夫人に対して頷くと「私も絵を描いているのですよ。薔薇を描いているのです」と言われました。更に「一人に成ったものですから」とも言われました。私はすぐ、「あ、絵を描くのはとても良いんですよ。以前やはり、未亡人の方が絵で、生きがいを見出したと仰いましたから」と答えると「私、大正九年の生まれなのですよ」と言われました。私より二十二才も年上で八十三才である事が察せられました。でも、姿勢がしゃんとしていて、普通のイメージで言う老人と言う感じは、全く見受けられませんでした。 

 そこから逗子までのたった五分と言う短い時間に、何と『抽象絵画とは何か』の論議にまで、二人の会話は発展をしたのです。彼女の甥子さんお二人は抽象画の作家で、お一人はT美大の教授だそうです。しかし、彼女が「私は、抽象は解からないので」と言われるので「抽象は別に解ろうとする必要は無くて、ただ、作家(銀座では最近、画家もこう言うらしいのですが)が割と、決断力が有って、勇気も有るケースが抽象画の分野には多い」とか、何とか私が言いました。だから「抽象画って、見ると大抵は、さっぱりした感覚を感じる物なのです。それに共感をするか、しないかの差です。それだけの絵画です」とも言いました。彼女がこの際、納得をしてくれたかどうかは解りませんが、私は根本的なポイントにまで達して、話が出来たので、話し相手としての彼女の能力の高さと言うか、品格の高さに内心ひどく驚きました。

 とても素敵なおばあちゃまでした。もう少し彼女が若かったら「一緒にお茶でも飲みましょう」と駅を降りた時に、誘ったかも知れないのですが、年が二十二も上で、しかも、非常にハイソサイエティの感じを与えられたものですから、私は腰が引けたのです。それで電車を降りる時に彼女に向かって軽く会釈をして、ホームの階段は別々に上がったのです。

 その時に私の考えた事は、「最近のご老人は本当に明るいなあ。特に横須賀線で会うご老人は、モダンで、スマートで、そして素直で、まるで外国で会う人たちみたいだ」と言う事です。さて改札にまで達すると、なんとさっきの老婦人が私を待っていて呉れました。そして私に向かって丁寧に「これからスズキヤ(高級なスーパー)に行きますので、ここでお別れいたしましょうね」と別れの挨拶をしてくれたのです。ひどくびっくりしました。そして、横に進む彼女を見ると、耳には多分、本物のパールのイヤリング、首には、プラチナのネックレス、眼鏡はそれこそ、日本橋の高島屋か三越のあつらえと見えるもので、更に言えば、上半身にはチョコレート色のアンゴラの上等なカーディガン、下半身には、かっちりした上等なウールで出来たスカートと、一部の隙も無い素晴らしいおしゃれなのです。そう言う女性から、ちゃんと尊敬をされたらしい私は、一瞬唖然としました。

 だってその日の私の服装と来たら『引き比べて余りにもこれは』と言っても良いほど奇妙きてれつなんですから。お友達が以前「あなたの服装って、アーティストらしく、崩した点が素敵よ」と言ってくださった事が有るけれど、今日のは、まるで、ティーン・エージャーみたいな、六十一才の女性が着るにしては、はずれもはずれた服装でした。スカートは赤紫のベロアの民族衣装(フォークダンス用でパッチワークとかレースが付いているもの)で、膨らんでいるし(古い形である)上は同じく赤紫のTシャツ(これはつい、2,3日前、鎌倉小町通りで、2900円で買った物)です。その襟ぐりが大き過ぎるので(つまり、胸の豊満な人用なので)、私はその下に重ね着として白いブラウスを着ているのです。本当にちぐはぐで、自分としては全く自信が無い服装です。でも、誰にも知った人には会わない筈のアトリエに行くだけですから「こんな格好でも構いやしない」と堂々と古い服を着ていたのですが、これは、今出遭ったようなハイソサイエティの婦人にはほとんど全く同感できない服装でしょう。まあ、はっきり言えば、馬鹿にされるか無視されるタイプの服装です。それなのに、あれほどの丁寧な扱いを受けるなんて、不思議極まりない事でした。

  でもね、ここで、ふっと思った事は、読者の皆様のおかげだと言う事です。この共通メールのサロンで私の精神は鍛えられていて、しかも人を信頼する事を覚えています。それできっと顔が以前よりも良く成っているのです。どこか「この人なら、話し掛けてみたい」と思うような顔をしているのです。毎日ではないのです。でも、無心で何かを考えている時に「この人なら、百合の花の事を話し掛けても、きっと私の思いを分かち合えるだろう」と思われたのです。それは本当に、読者の皆様へ、感謝の思いを新たにする出来事でした。

2002年10月26日

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