銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

芥川賞を巡る私の、集英社前で、警察に待ち構えられた、という特殊な体験・・・その1 瀬島龍三、益山重夫、塩見和子、湯川有紀子、安野智紗、大原光孝、川名昭宣

2018-01-08 03:23:44 | 政治

副題0、『前報は、歌舞伎そのものに、特化して語っている話だが、歌舞伎にまつわる諸エピソードの中には、無論のこと、政治が関連しているものも多い。本日は、そのうちの歌舞伎座、1階席にまつわる政治について語ろう』

・・・・・と言っても、その1として、本日内では、エピソードの全体像は描出できず、途中で終わっていますが、歌舞伎座の、一階席から、俳句界の芥川賞(蛇笏賞かな?)と言われるものを思い出していて、その後に、本物の芥川賞に関する重要なエピソードに入って行っています。文藝春秋社の編集者が、私の息子へ手出しをして来たというエピソードなど、初出の話でしょう。

 2016年7月の初旬に、妹が、他殺と言う憂き目で亡くなりました。それいらい、私は、このブログの書き方を抜群に深めて書いております。ディレンマが、含まれている形での、攻撃ばかり受けてはいますが、語り始めています。最近書いている実家の法事にまつわる話(後注1)など、その典型的例です。ただし、同時並行的に、体重が7キロぐらい落ちています。死に物狂いの戦いです。

 しかし、戦い?は、2003年ごろから、始まっていて、私は外部には、それを語らないものの、内心では、それを悟ってはいたのです。それは、2003年の三月ごろに、私が芥川賞を狙う行動を開始したのですが、それに関して、警察が総体を上げて、阻止してきたからです。

 どうしてそういう事が始まったかと言うと、例の地籍変更届・・・・・(後注2に、そのリンク先を纏めたいが、未だに、本文が、途中までしか進行をしていない。世間には秘匿をされている大事件の一つだと、思う)・・・・・の際に、急死した、益山重夫氏の親友が、瀬島龍三と言う、戦後最大のCIAエージェントであり、彼は、警察庁をも、自由自在に支配をできる人間だからです。

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副題1、『私は、1999年からパソコンを使い始めた。その時点から、ハッキングを受けていたと、今では、確信をしている。だから、20年間にわたってハッキングを受けていたわけだ。で、57歳という遅い時期に使い始めたパソコンだったが、若いころ、IBMの電子タイプライターを、使っていた身だから、入力スピードは速くて、当初から、文章は、楽に書けたので、AOLのシステムを使って、メルマガを配信し始めた。

 ::::::::::ここで、挿入に入るが、私の事情はすべて、世界政治と関連をしているので、個人的な、事情も、誇りと自信を持って語るのだが、このAOLのシステムが、当初は、マイクロソフトのシステムを経由していないという事があって、それが、重要なのだ。私にとっては、当時の、文章のほとんどが、失われてしまったのは残念ではあるが、

 クリントン夫人の、大統領候補時に、大きな攻撃点となっていた、私的メルアドの、利用問題は、ほとんど、単純に、AOLシステムに慣れていたから、それを使ったまでであって、悪意はなかったと、思っている。ただし、クリントン夫人を攻撃する団体があって、それを、私は、CIAだろうと、みていたが、トランプ陣営だったらしいので、それには、驚いている。ともかくにして、2008年ごろまでは、AOLのシステムの方が、マイクロソフトより、単純で使いやすかったのである。:::::::::という挿入を入れて元へ戻る。

 このメルマガなのだけれど、メルアドをつかんでいないお友達には、プリントアウトをして送っていた。毎晩、コンビニで、3000円から、4000円を使って、コピーを取り、それを、また、郵送料を掛けて送るのだった。私は・・・・・後で、モノとしては、残らないもの・・・・・に大金をかけて生きてきたのだった。それ故に、今、こういう活動をしていることに関して、自信を持っている。内面が、充実しているからだとして。

 このメルマガだけど、心理学と、芸術に特化した、ほとんど、問題のないものだった。そして、評判が高かった。友人から、「芥川賞が発表されるので、読んでいるが、全然面白くないですね。あなたの文章の方がよほど面白い」とも、言われていた。エンタメを狙っていない、ただ、のエッセイなのだが、それでも抜群に面白いと、言われていた。複数の人、特に日本社会のなかでの、エリートから褒められていた。それもあって、また、大昔の中学時代から、「文章が上手で、表現力がある」と言われてきたこともあって、メルマガと、同時にマイクロソフトワードを使って、まとまった長い文章も書き始めた。

 その際に、どういう方向で、どういう形でまとめるかという事に関して、私は美術界に籍を置いているわけだから、音楽と、文章に関しては、団体に属することを避けようと考えた。美術界に関しては、国展に出品をしていて、女流展にも出品をしていて、毎日展、上野の森大賞展、神奈川県展(山下町で開催される方)などの、コンクールにも入選していて、もし、宛名を書けるのなら、5000人を相手に、個展の案内状を出せますね・・・・・というほどに、活発に動いてたので、それなりの時間とエネルギーが必要であり、それ以外の、分野には、美術界で学んだシステムを応用して、人的コネクションなしで、突破しようと考えていたのだった。だから、同人誌などに所属することは無論避けたいと、願っていた。同人誌と言うのが美術界における団体展に当たると、思う。

 で、非常に有名な芥川賞が、それを取れれば、効率的であるとは、考えた。赤瀬川原平さんが、雑誌【太陽】の特集号の中で、当時は表参道で、オフィスを開いていた、有名な手相観の、〇〇雅水さんに、「あなたは大丈夫ですよ」と、苦境時代に励まされたという記事も読んでいたし。私は同じ、雅水さんに、1998年から通い始めて、最初の面談で、「あなたは、芸術家でよかった。これが、専業主婦だけをやって居たら、事件を起こす人になっていますよ」と、言われていた。自分ではまったくもって、それを知らなかったが、いわゆる、みずもしたたるいい女の一種なので、表現方法を、別の方向で、何か持っていないと恋愛に耽溺してしまうタイプらしかった。で、男の人の間に争いを起こさせてしまうタイプだった。この間、NHKETVがお正月特集として、【ねほりん、ぱほりん】の集大成をやっていたが、あの中に出て来る、サークルクラッシャーと言うタイプの女になりかねないタイプなのだった。75歳の今になると、衰えきっていて、歌舞伎座でも、トイレの鏡に映る自分が亡霊みたいに見えるが、だからこそ、正々堂々と語る事ができる、20年前のエピソードである。

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副題2、『芥川賞と言うのは募集をしているものではない。推薦を受けないと、いけないらしい。そういう関門がある。なるほどと、思う。それは、文化庁の在外研修生のシステムに似ているのだろうと、思う。で、推薦を受けるために、凡人にとっては、同人誌で、活躍をする道があるのだと、思う。しかし、上で言っている様に、美術界で、公募団体展に、所属しているという現役生活と、過去(神奈川女流展など)がある。そこにおける嫉妬と、足の引っ張り合いは、多数回経験をしていた。私は、いじめられ易いタイプで、苦労が多いタイプだった。それは、〇〇雅水さんに、実際は女として魅力があるタイプなのだと、聞いてやっと納得をしたが、同じ経験を文章界で、やるのは避けたいと、願っていた。筒井康隆の【大いなる助走】も読んでいたし。

 で、同人誌に所属しないで、芥川賞を狙う道を探った。すると、文学界には、各種の賞があり、それら下部組織の賞を取ると、芥川賞に、推薦される可能性がある事を知った。「これだ!」と、思った。

 ここで、小さいころから「優秀だ、優秀だ」と他者から褒められてきたことが役立った。それに、自分が狙ったことは、その時点までに、45%ぐらいの形だが、達成をして来たことも役に立った。

 で、図書館で、各種の雑誌を取り上げて見たり、書店の平台に、置いてある、各種の文学系の雑誌を手に取ってみた。これらは、お金を出せば買える、一種の同人誌の、趣もあって、新人賞を募集をしていた。新人賞は誰にでも応募ができる形だった。【文学界】(文芸春秋社)、【新潮】(新潮社)、【すばる】(集英社)、【群像】(講談社)、【文藝】(河出書房新社)などが、それにあたると、言う知識を把握した。それらは、毎ねん、三月の末に締め切りを置いており、十月ごろに、入賞者を発表をする。ただし、【文学界】は、オミットしないといけないと考えた。

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副題3、『戦後最大の、CIAエージェント・瀬島龍三は、文芸春秋社と、私が接触をする事を押さえ、抑止するために、すでに、2000年ごろから、私の息子を使い始めていたのだった』

 しかし、上記の文芸誌の中で、文芸春秋社の、【文学界】には、応募はできないなあと、思っておりました。どうしてかと言うと、息子が、当時、文芸春秋社の編集者と、付き合っていて、槍ケ岳に、一緒に上っていたりして居たからなのです。大学の先輩、後輩と言う間柄を利用して、相手様から、申し出でがあり、付き合っていたのです。それは、息子から聞いたのではなくて、是もまた、娘から聞いた話ですが、息子は、その先輩と、当時は、仲良くしていたのでした。ほぼ、18年は前の話で、彼の独身時代の事でしたが。

 私は、その登山体験が終わった後で、だいぶ経過して、そのエピソードを知りました。が、すぐに、瀬島龍三が、文芸春秋社と、私が、接触できない様にするために、そういう手配を施したのだと、判りました。娘にも、息子にも、夫にも何も説明をしませんでしたが、それは、私には、判る事でした。

 どうしてそこまでわかったかと言うと、中央公論社の湯川有紀子さんとの、付き合いから、判断が可能になった事です。

 2016年に入ってから、私とICU同期入学の塩見和子さんが、すでに、1978年に、笹川良一氏が作った日本財団の、古楽器部門の、理事長に就任したことを知りました。それは、地籍変更届(後注2)の際の、益山氏の急死に対しての復讐案だったのです。塩見和子さんは、その前は、クリスティーズの日本支社長だった筈です。もしかするとサザビーだったかもしれませんが、世界に冠たるオークション会社の、日本支社の社長だったのです。で、ストラディバリウスなどの、古楽器を既に、オークションにかけて、居て、笹川良一とは既に、知り合っていた可能性があるのですが、それでもね。世界に冠たる会社の、日本支社・支社長から、まだ、海のモノとも、山のものとも、わかって居ない笹川氏の事業に転身するのは、帰国子女の走りであって、モダンきわまりない美女である、塩見和子の選択としては、おかしいのです。笹川氏は、右翼の大物として有名ですし、競艇で、稼いだ金を持ち込んで、ストラディバリウスを買っているわけなので、笹川財団(今の名前は、日本財団である)の、事業とは、高級なマネーロンダリングの、趣もあるのでした。

 でもね、裏で、瀬島龍三が動いて、塩見和子さんがその言葉に対しては、納得をせざるを得ない人物が、勧誘したと仮定したら、そういう転職もありなのでした。どうして、そういう転職がありかと言うと、笹川良一の懐へ、私が食い込むだろうと、瀬島龍三が想像をしたので、それを阻止するために、そういう手配をしたのでした。

 笹川良一は、旧制高校として、台湾を選んで居ます。または、旧制帝大として、台湾を選んで居ます。私は10年ぐらい前に、台湾へ、観光旅行をして、そこを訪問してみました。植物園かと見まがうほどの立派な大学でした。東大よりもキャンパス内は、美しかったです。そこで、同期だったのが、私の東大勤務時代の上司(=教授)でした。「今(1966~1969年まで)でも、仲良しだ」と、聞いています。瀬島龍三は、CIAエージェントですから、頭を駆使して、自分が勝つことを狙っているわけです。で、私の周辺をすべて、抑えて置こうとしているわけです。

 ところで、この塩見和子さんについては、やまゆり園事件にまで、発展をする動きがあるのですが、それは、ここでは、語らず、また、別章で語ります。ここでは、この塩見和子の例を引いて、中央公論社の、湯川有紀子さんについて語りたいのです。

 湯川さんは、神戸女学院の出身で、旧姓を桝田と言います。湯川姓は、ノーベル賞受賞者、湯川秀樹さんの、一族と結婚をしたので、そうなっていると、推察しています。ともかく美しい人です。中央公論社の、旧ビル内で、二回会い、その後、お手紙をもらっていますが、その当時の接触のすべてに、裏側に、瀬島龍三が居たとは、今では、確信をしています。このエピソードは非常に長くなるので、ここでは、詳細には、敷衍をしません。しかし、1985年にすでに、中央公論社が、文芸誌【海】を廃刊していたと、今、知って、『おや、それも、瀬島龍三の、深謀遠慮だったかな?』と、気が付いてきているほどです。私がICUで、ベイカーさんと言うアメリカ人大学生に、非常に頭がいいのだと発見をされてしまっていますので、瀬島龍三は、私の過去履歴については、詳細に、調べ抜いていると感じて居ます。それは、特に、私が鎌倉に引っ越してきて、8か月後に、すでに、女性としては、地域社会でのエリートである、御成中学の、PTA三役の広報委員長に、専任をされた野でさらに強められて意識でしょう。そのお役目の方は、地盤がないために、部下(平役員)の反乱に出会ってしまい、瞬時に、お役目を辞退したのです。しかし、その選任と辞退の、両方を見ている事で、私が、大物化する事への危惧と、それを阻止しうるという考えの両方が、あったからでしょう。

 鎌倉雪ノ下では、中谷共二氏と言う、カリフォルニア大学出身の帰米二世で、羽田空港の、飛行機用燃料を一手に扱うガソリンスタンドの社長をしていた人物を使って、【アジサイ畑欺罔事件】を、起こして置き、一方では、日本の文化界にも手をまわして、私がブレイクできない様に、用意周到に、準備をしていたのでした。

 私は、このブログの世界で、三年ぐらい前から、「すべては、わかって居るのですよ」と、言い続けています。この副題1の部分も、20年前から、わかって居て、ただ、書き表すチャンスがなかっただけの話です。

 で、こういう過去があるからこそ、文芸春秋社の編集者が、息子にアタックをして来たことの、本当の意味にも、すぐ、思いが到りました。この副題2に書いていることは、相当に、重要な事なので、今、インターネットのシステムを通じて、妨害を受けました。新しい形式の妨害です。

 で、私は、『ふむ、ふむ、【文学界】の新人賞に応募しても、その編集者を動かして、内部で、原稿が紛失するという形で、握り潰されてしまうだろう』と、思ったので、そこへは、応募しない事へ決めました。【群像】にも応募しないことに決めたのですが、それは、後で、語ります。

【新潮】には、2003年の、3月27日に、届けたのですが、一階ロビーに、警察庁の若手、幹部候補生らしい四人組が、タバコをふかすという形で、待ち構えていたので、新人賞を取り扱う部門までは、届かなかったと、今では、判断をしています。この四人組は、千駄ヶ谷の国立能楽堂前で、待って居たこともあるし、神谷町の、青山敦子弁護士事務所前の廊下(中廊下という形での、きれいな、しかし、細い場所)にも表れたので、刑事(ただし、大卒の上級者である。東大卒かもしれない。顔を平気でサラスし、面立ちも、上品であるので)・・・・・又は、警察庁内部での、特殊任務について居るホワイトカラーだと、確信をしている連中です。将来は、警察庁幹部になって行く連中でしょう。

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副題4、『集英社の、新人賞に応募しようとすると、警察が総力を挙げて妨害をして来た。私には、裏側がすべてわかって居るので、非常な怒りを感じたが、ともかく、私の方は誰のものも盗んでおらず、誰を殺してもいないのだから、相手側の様に、公共用地を盗んだり、我が家の土地を盗んだりしては居ないわけなので、堂々としていた、そして、正面突破で、しっかりと、応募作品を届けようとしていたのだった。彼等CIAエージェントは、これ以降、どんどん、その悪辣さを深めていくのだが、ついには、多数の殺人事件を起こすという形(に向かって行く。それから、嘘八百の事件も起こすのだった』

 で、集英社に最も大きな望みをかけたのですが、そこで、大変な目に出会うのです。まず、丸の内郵便局で、2003年の、3月31日にほかのお客の、私製封筒の、送付に、手押しスタンプを使うという形で、延々時間を取って、午前零時までに、発想が間に合わないという形を取られるのです。3月31日と言うのは年度末なので、他のお客さんも、制限以内に、郵便物を出したくて、わざわざ、丸の内郵便局まで、居ている人がいっぱいいて、激怒していましたが、課長らしい上司は、それに耳を傾けず、部下を使って、延々とスタンプを押し続けていましたので、阻止されてしまうのです。その日、ロビーの東側で、白髪の老人と、若い女性が、歴史の勉強をしているのを見ます。

るし、その次に午前六時に、

@@@@@ここが第一の書きかけ中の最先端です。で、この続きですが明日、9日にかきます。非常に重要なところなので、そうさせてくださいませ。

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副題4、『ところで、瀬島龍三が、息子に手出しをしたのは、当時の私が、逗子で、一人暮らしをしていたからである。もし、同居をしていたら、私が委細を察するので、手出しをしなかったと、思うのだけど。ところで、逗子に一人暮らしをした歳月と、そこから得たものを、ここで、語りたい。以前にも書いているが、さらに話を深めて語りたい』

 私は、大物アーチストに成るつもりだったので、毎年の秋に、ニューヨークで版画修行をしようと考えておりました。そのご、河野多恵子さんが、夫として、ニューヨーク在住の、アーチストを選び、毎年三か月ほど、そこに滞在型同居をしていると聞いて、それは、創作者として、理想的な形態だと、思いました。夫側にとっても、妻側にとっても、一年に、三か月程度の同居で、後は、一人暮らしというのは、創作をする人間にとって、理想的な形なのです。

 今の私は、これほどに、重い内容のものを書いているので、夜昼が逆転をしています。昼間夫がそばでテレビを見ている部屋では、とても書けない内容です。別の部屋で、インターネットができるシステムは、構築をしてあるのですが、敵に狙われ切っている私には、それが、使えません。で、夫から罵詈雑言で、今、毎日、ののしられています。こういう夜昼逆転の生活は、彼にとっても、嫌なものでもあるし、私の健康を心配する向きもあるからです。しかし、ワードで、別の部屋で、書いて、このブログへ移動をするという仕組みも又、これほどの、重いものを書いている際は、妨害を受けるのです。で、できません。

 瓜南直子さんが、伴清一郎さんと言う、実質婚の相手が居て、彼女が亡くなった後では、伴さんが、嘆ききって、居ますが、実際には、別居状態だったと、思っています。二人とも創作に従事している場合は、私達夫婦よりも、時間の使い方が、大変でしょうから。

 ところで、私にとって、毎年、秋に海外で、三か月修行をするという形式は、パリへの文化庁在外研修制度で、それが、自分に向いていると、気が付いたから、やりたいことでしたが、当然の事、家族は反対をします。で、逗子に、版画のプレスを置く為に、既に、作っていた、総計24畳分の古いマンションを借りた、アトリエで、夜も暮らすことと決めました。一之瀬智恵子さんを良く批判をしていますが、その別居状態の時期に、私の方は、すでに、子供たちは、27歳と、25歳であり、会社員になって居ましたので、自分が40代で、彼等の方が、10代で、思春期だったころに自分を犠牲にして尽くしたから、ここでは、自由にさせてもらおうと考えていました。一之瀬さんは、お嬢さんがまだ小さいのに、自分を優先しているので駄目だと、言っているのです。

 で、別居状態で、暮らす日々が、2000年の、一月から、2002年の五月まで、有りました。これが、私にとっては、非常に重要な期間だったのです。家族は、鎌倉の山の上に住んでいるので、版画の機械である、鉄の塊であるプレスと言うのが、当然の事、持ちあがらなかったわけです。で、そうしていました。

 しかし、その後、2016年に入って、テレビ東京の特番【ドリームハウス】を見ていると、重い鉄の塊を運ぶ、専門業者が居る事を知りましたが、それは、その施主(設計者でもある)が、専門家であるので手に入る情報であって、私には、プレスの製造会社が、運んでくれるという情報しかなかったのです。

 逗子駅の北側で、ホームが見えるほどの、位置に在る古いマンションで、普段は、借り手が居なくて、選挙時期に、選挙事務所として使われるというほどに、古いマンションを、月、七万五千円で、借りて居ましたが、これが、自分をブラッシュアップするに最適、かつ、最高の時間だったのです。一方、で、鎌倉雪ノ下の方では、私が離婚をするはずだと、見做していて、大騒ぎだったと、聞いています。大原光孝さんからね。そして、安野智紗夫人は、私が電話でタクシーを呼び、必要最低限の、衣類などを鎌倉から、逗子へ運ぼうとする際には、わざと、外へ出て、見下ろしていたものです。これは、河出書房新社に繋がっていくので、重要な事なのですよ。後で触れます。

 ところで、そのマンションのある場所は、逗子市においては、下町の方です。で、下町と言うのが、創作者にとっては、意外にも住みやすい場所だと、認識をしました。近所づきあいが激しいかと、推察していましたが、却って、ないのです。たとえば、北隣は、医院です。そちら様は、私なんかに関心がありません。南側はエステです。そこも、私は、付き合う必要がありません。東は線路で、西は空き家?でしたが、ともかくにして、誰とも付き合う必要がないのでした。で、ここの生活様式の自分に向いている事に、感銘を受けて、ひそかに、戸越銀座辺たりで、二番目というか、オフィスを兼ねた住まいを将来見つけようと、15年前には、考えていたのです。北久里浜のいえを売ったらその代金を当ててとか、母から遺産が入ったらそのお金でと考えておりましたが、実際には、不可能で、歳月が過ぎています。宝くじでも当たったら、可能だとして、宝くじを買い始めたら尾行によって、それが、把握をされたらしくて、福岡のみずほ銀行を舞台として、7億円強奪事件が起きました。あれも、嘘ですよ。犯人が逮捕されたとか、何度も、報道をされていますが、犯人とは、やくざで、警察に協力を求められているので、犯人像を、引き受けているだけでしょう。

 で、最近では、堂々と、銀座で、買っていますが、まったく当たりません。しかし、この間、12月22日(それは売り出しの最終日です)に、数寄屋橋で、国立劇場で前売り券を買おうとして、バス停で、待って居たら、対岸で、当たりくじが頻出するという事で、有名な数寄屋橋のくじ売り場に、行列をしている人々を見つけました。三人ぐらいが、固まって列を作っていて、しかも、長さが、200メートルぐらいあるのですよ。千人近い人々が、必死に待って居るのです。夜の五時でしたが。庶民は切ない生活を送っています。こういう事は、実際に行動してみてわかる事であり、そこから、安倍総理大臣は、戦後最悪の総理大臣だという、私の発言も出てきます。

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副題5、『この逗子での、一人暮らしが、クリエーターとしての、最高のレベルの進歩をもたらしてくれたわけだし、50代での、海外一人暮らしは、その困難さを考えると、体力的には、ぎりぎりセーフの段階だったので、自分では、この行動に、満足をしている。しかし、周辺、特に、雪ノ下と、伊藤玄二郎達一派は、私が、離婚に至ると、考えていて、それを、川名昭宣君に伝えたらしいのだ。そこからスタップ細胞疑惑の、本質が読めて来るのだった』

 ここが、第二の書きかけ中の最先端です。

私が文藝春秋社の【文学界】も、息子に手を出して来た編集者が居る程なので、応募しても駄目だし、河出書房新社の文芸誌【群像】も応募しても、駄目だ・・・・・と、考えた、よすがが、川名君に在るとは、ここで、記録をさせておいてくださいませね。川名君とは、塩見和子と、私と同期(=1962年)ICU入学生です。 

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副題6、「蛇足・・・・・だが、わたくしにとっては、特に大切なこと』

 これから先は、8日の午前11時ごろ書いた部分です。しかし、外出前の、いろいろな雑用に、時間を取られる見込みがあって完成させられず、この文章全体も、非公開としていて、夜のくじになりました。ところが、銀座で、画廊めぐりをしていたところ、下に挙げた長瀬いずみが、個展をしていたのです。しかも、問題の画廊【るたん】でです。なんという勘の鋭さだろうと、我ながら、驚いています。その予定は、全く知らずに、以下の文章を副題4として午前中にかいていたのでした。そして、夜の6時ごろ、それを発見して、今、夜のくじですが、ここ以下の部分を蛇足としてアップする事に、急きょ決めたのです。この手の現象も、わたくしは天のお助けだと考えております。

副題α、『2003年の、3月31日には、丸の内郵便局で多大な、妨害を受けた。その次の日、4月1日の早朝6時の事だが、京橋(または、神保町)の、集英社前に、パトカーが二台、待機していた。こういう事も、今までは、読者に向かっては、意味不明のエピソードのひとつとして書くほかはなかったのだが、地籍変更届の仕組みを、60パーセント程度書いた今では、悪の仕組みが、説明しやすい。したがって、伊藤玄二郎に与(くみ)する人は、バンバンとその悪人ぶりを書く。

 杉本某、横須賀市副市長と、その妻、正子夫人が。一種のわいろとして、広い土地(2000~3000坪)を支配しているとか、について書くのも仕方がない事なのだ。正子夫人と仲良しである大沼嘉津江さんが、ご近所様から馬鹿にされていることを書くのも仕方がない事であり、その理由の一つとして、実兄に当たる島田章三さんに、大金が横須賀市から注入をされていることがあるのを書くのも仕方がない事であり、章三さんの妻である鮎子さんを冠として、グループ展を開く、画廊るたんの、中島三枝子さんが、当時国画会の、準会員だった、長瀬いづみと組んでひどい事をしてきたら、警察が異様な事件を起こすたびに画廊るたんと、中島三枝子さんについて書くのも仕方がない事なのだ。

 今でも、貴ノ岩騒動と言う、95%が警察のでっち上げによる事件が起きているので、過去ブログに、実名で、登場した人物について、さらに深めて書く、大勢は整っている。特に私の目の前で、ビル全体が使う、共同トイレのカギを掛けたギャルリーユマニテが、保坂航子(初期の名前を涼子と名乗っていた)の個展を開いてあげる限り、山口みつ子さんが他殺であり、野見山暁次さんが、その真相のカギを握っていると書くのも仕方がない事なのだった。いや、だからこそ野見山さんは、文化勲章を受けたのだし。山口みつ子さん・殺人・事件の真相を、私が知っているからこそ、野見山さんを持ち上げて、私を黙らせ様としているのだから。

 無論のこと、鎌倉雪ノ下についても同じである。父親が、慶応大学の教授で、ご本人も、栄光学園・慶応大学・三菱重工と言うエリートコースを歩んできたミスター冨澤が、ある土曜日に、バスの中で、気が付いた私が後ろから声を掛けたら、「しっ」と唇に手を当てて、まるで、犬でも追い払う様に黙らせた挙句にバスを降りてから、「先ほどは失礼をいたしました」というでもなく、逃げる様に走って先を行った時から、私の方は、準備ができているわけだから、早速に、『機会が訪れたらあれを書きましょう』と、待ち構えているわけだった。だって、冨澤氏が、そういう態度を取ったのも前田夫妻、又は、安野夫妻等からの、教唆によるものであろうから、機会が訪れたら全部を書くのは、当たり前のことなのだ。で、見事に機会が訪れた。それは、

@@@@@@ここが、第四の書きかけ中の最先端です。

妙本寺のお嫁さんの、母である、遠藤夫人(今は、浄明寺という地域に住んでいると言われている。昔は我が家の西隣に住んでいた)が、どれほどに、骨惜しみの人間であり、庭ゴミを、毎日我が家に掃き落としていたとか、それを、たまりかねて注意したら、否定をして来て、しかも、それに輪をかけたことに、旦那に脅かされたとか、書くわけだった。普通ではない事だから。もしかしたらあの時点から安野夫人などから、我が家を、「馬鹿にして、も、いい」と聞かされていたのかもしれない。ほかにも遠藤夫人が行ってきた我が家側には迷惑な行為と言うのは、いっぱいあります。で、骨惜しみの結果、超肥満体になっています。この前、偶然(または、わざとなのか?)に、不二屋前で、であったら、更に肥満度が増していて、小錦状態でした。またはアフリカゾウと言っていいいかな? この遠藤夫人の無礼さが、もし、安野・前田連合軍からの教唆で行われていたとしたら、メルマガやブログで、それを書いているので、連中は、一応は申し訳ないと、思うのでしょうね。それで、北鎌倉女子学園の、児嶋百代先生か、川合先生を仲人に仕立てて、妙本寺の、お嫁さんに仕向けたのです。ミスター遠藤が、東大卒の、大手銀行(特に三菱銀行ぐらい)勤めレベルだったのかもしれません。だって、妙本寺って、鎌倉いち富裕なご一家です。寺領が、広くて、しかも、JR鎌倉駅に近いです。ですから莫大な、土地使用料が入るお寺です。普通のサラリーマン家庭から、あそこにお嫁さんに入るのでは、家の格が合わないです。でもね、私のブログにそれが、書いてあるから、お嬢さんを、妙本寺へ、お嫁入させるのが、CIAエージェントにとって、勝利に当たるのです。しかも、それを冨澤夫人が、私に告げるのですよ。私は、リアルな世界では、喧嘩をしない主義だから、冨澤夫人に向かっても何も解説をしないし、ミスター冨澤に向かっても何も咎めません。だけど、準備OK

@@@@@ここが第五の書きかけ中の最先端です。

 後で、加筆をします。また、多数のリンクが必要ですが、それも、見つけて、充実をさせておきます。それが終わったら、書いた日付と署名を入れます。

なお、このブログの、2010年より、数え始めた延べ、訪問回数は、4419711です。

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