銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

私は笠松敦子さんの対照例として、フェリス卒ICU経由・医学書院勤務だった友を思い出しているのだった

2024-04-14 21:20:22 | 政治

副題1、『フェリスから、国際キリスト教大学に、1962年に入学したAAAAさんのことを本日初めて、ブログの主役として、登場させよう』

 前報を、2,3日公開し続けて新しいものを書きたくないのです。それは、反町のアパートのことが忙しくて、ブログを書いている時間がないからです。しかし、・・・・・これは書いておくべきかなあ・・・・・と、思う、発想がわいてしまいました。それでね。書きましょう。大好きな友達のことです。一般の人には誰のことかわからない様にしたいので、AAAAさんという仮名をつけます。

 しかし、教員免状をとるために留年して、医学書院へ入社したフェリス女学院卒業で、ICUに来て、私=旧姓・礒部千恵子と親しかった(それは、一年の時の、英語漬けの日々、27人しかいないクラスが同じ)といえば、ICU1962年入学の人には誰のことかはわかると思います。それで、いいのです。

 これは、悪口ではなくて、私からの謝罪ですから。57年も前のことへの謝罪です。しかも、彼女に対して謝罪をすることは、彼女を傷つける可能性がある謝罪です。

 したがって、言いたくない話でした。しかし、立花隆の最終局面を、考えると、如何しても秋山豊寛氏に触れないといけなくなり、したがって、この謝罪が、出てくるのでした。

 つまり、秋山豊寛氏と彼女が結婚をするだろうと、だれもが思っていたのに、秋山豊寛氏が、何か、わからない理由で彼女と結婚をしなかったのです。そのことを聞いたのが彼女からだったか、他の人だったかを思い出せないのですが、私はその時、私がそれほど、大物だからなのか?と、考えました。しかし、私と彼女が友達であり、私が政治的大物であるがゆえに、秋山豊寛氏が彼女を避けたのかもしれないとは、彼女には、とても言えませんでした。私がそれほど、大物であるとはだれも信じない時代だったでしょう。し、彼女が、あれこれ、泣き言を言わないからこそ、非常につらかったからでもあります。

 ここで、秋山豊寛氏について説明をしないといけません。と、思ったのですが、幸いなことに、ウィキペディアが出ていました。一時期、ほとんど情報が外へ出てきていなかったのです。それは、彼が、私を弾圧する役目を担っているからではないかと、考えました。しかし、これは、まだ、検証が、済んでいない問題なので、強く主張をしないで先へすすみます。

 ところで、ふと心配になったのですが、皆様は、前報

巷房で出会い、話が合ったMr中村=光文社の名前を出した途端、私の仕事の邪魔をしないでと怒鳴ったMrs笠松=元筑摩書房

2024-04-13 19:49:13 | 政治

 を、読むことができましたか? これが、人気記事として出てこないのが不思議です。重要な文章ほど、秘匿される可能性があるからです。で、それを、お読みいただいていないと、本日の文章も、ちょっと、意味が通じないところがあります。で、その心配はあるものの、それを乗り越えて、本日の文章の続きを書きましょう。

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副題2、『秋山豊寛氏のことを、周辺は、ほうかんと、呼んでいた』

 秋山豊寛氏のことを、わたくしたちは、「ほうかん、ほうかん」と、呼んでいたので、豊寛氏と、敬称をつけるのは、気が進まないのですが、一般社会人から見れば、私よりも有名人でしょうから、ここでは、敬称をつけておきます。

 ところで、実は、彼は性格は悪いのです。(苦笑)それは、他の人も見抜いているほどです。ソ連で、宇宙飛行士を、選ぶときに、彼は、不合格だったのですが、通訳の米原氏(きっと、米原いたる氏のお子さんです)が、強く推したので、選ばれたのだそうです。が、米原氏の推薦理由が、

性格が悪く、頑固でひねくれもので宇宙飛行士には最適だから」だったそうです(笑)秋山氏の性格が本当にそうだったかは置いといて、ロシア人はそういうタイプの人間が好みなんだとか。

 この黄土色の部分は、https://utukushiki-aun.com/about-toyohiro-akiyama#google_vignette

から、採録させてもらいました。で、私から言うと、実は、【ほうかん】は、本当に性格が悪いのです。とても、狷介でひねくれものです。AAAAさんは、彼と結婚をしなくて、正解でした。しかし、自分が捨てられたのではないかと、一時期、思って、傷ついたと思うので、それは、本当に申し訳なく思います。何度も言いますが、私が大物ゆえに 【ほうかん】は、あなたと結婚をすることを避けたのですよ。あなたは、ほうかんに比べれば、ずっと、まっすぐな人です。だから、私との友情を切らないでしょう。したがって、それを、推察したほうかんは、あなたから、自分がCIAと、近しいことが世間に漏れ出ることを恐れて、あなたを避けたのです。

 皆様は、もしかすると・・・・・ソ連の宇宙船に乗って宇宙飛行をしたのだから、まさか、CIAとは、関係がないでしょう・・・・・と、おっしゃるかしら。そこは、違いますと、申し上げておきましょう。プーチンも、金正恩も、またイランでさえ、CIAが入っているそうです。イランがゴラン高原に向けて、ミサイルをぶっ放したのは、アメリカが、ネタニエル・イスラエル大統領に、ガザ地区攻撃をやめさせる手段かもしれないのです。だから、昔よく言われていた冷戦構造などというのは、全く無意味になっているのです。CIAは、習近平さえ利用しているのですよ。NHKニュースを信じていると、ただ、ただ騙され続けている日本人になってしまいます。NHKニュースは、まず、疑ってかかってください。

 今の政治構造は、鎌倉エージェント=CIAに、従順だと、有名人になれるが、批判をすると、右翼だとかテロリストだと規定をされて、自由を失うという構造になっているのです。

 私が大物たるゆえんは、だれをも引き付ける人間的な魅力があることです。後、誠実で、考え方が深いという点です。自分で善悪の規範を持っていて、それを、揺るがせることがありません。はっきり言ってしまうと、私は、大きな石なのです。動かないし、つぶれない。かつ、キュリー夫人が、微量を発見したラジウムみたいに、自ら発光し、自ら熱を出しているのです。非常に少量ですよ。だけど、感じる力のある人には、わかるオーラなのです。

 私は壇上に立って、歌を歌ったことは数多くあるが、演説をしたことはないです。見かけ上は専業主婦でしかない。だが、私の様な人間は現代社会には、珍しいのです。しかも、ずるい人たち、特に損得勘定で、右往左往する人たちにとっては、とても、怖い存在です。だから、CIAは、私を大物扱いするのです。

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副題3、『秋山豊寛は、いつも袖口、襟ぐりが、真っ黒に汚れた英国製だと思われる、綿ギャバジン(厚手)のコートを着ていた。父親が、英国留学中に買って、英国内では、一度も洗濯をしなかったので、あの汚れがもう落ちないのだろう・・・・と、私は、思っている。

 もし、父親の留学先が、1945年以前の、ロンドンだったら、当時のロンドンは、大気汚染がひどかったので、その汚れも加味しているのかもしれない。

 というわけで、秋山ほうかんは、そのコートを利用して、ひそかに、自分が東大教授の息子であるということを、(英国をよく知っている人物には知らせ、)貴種りゅうる譚を、駆使していたのだった。

 鎌倉市内における伊藤玄二郎の手法とよく似ている。ところで、本日、詳しく書かれたWikipediaを、読むと、彼が「玉川学園の、小中校に通っていた時期に、父親が失職し」と書いてある。私は東大に勤務していたので(事務職ではない)東大教授になるのが、どれほど、大変なのか、よく知っている。で、秋山ほうかんが、それ以前は東大教授の息子として、周辺から、ちやほやされていたのにもかかわらず、急にその地位が失われたのが彼に複雑にして、狷介な性格を作ったとも思っている。

 ところで、彼は、常に、AAAAさんをsteady なgirl friendとしてキャンパス内で、連れ歩いていた。それは、いわゆるトロリーワイフの、典型だったと、思っている。本当の愛情ではなかったのだ。

 トロリーワイフとは、日本語で言うと逆玉結婚ということ。AAAAさんと、秋山ほうかんの、実家の家柄、父親の職業等を比較して、ほうかんが劣っていたとは、思えない。だが、容姿の面で、AAAAさんは優れていた。彼女を連れ歩くことは、男の勲章だと、彼本人も思うし、他人も、そう感じていると、思われた。

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副題4、『通学バスの中で、【ほうかん】と、私の間で、起きたことが、新左翼の本質を私に知らせてくれた。』

 あれはいつのことだったでしょうか? 時期については、今も不明です。1965年には、寮に入っています。ので、下校用のバスは使わないはずですが、満員の下校用のバスの中で、起きた出来事でした。もしかしたら、ICUの助手になる予定だったのをお断りした後で、急遽、遅い就活を始めていて、そのために、下校用バスに乗っていたのかもしれません。そうだったら、1965年の11月以降のこととなります。

 そして、中学の同期生、成岡康司君が早稲田の自治会長、革〇の委員長になった後です。彼は週刊朝日の記事となりました。この記事は、同じく同期生で、成岡君とも同じ政経学部を卒業した飯田隆君が、すでに、朝日新聞社に、入社していました。この記事のことですが、どうして知ったかが思い出せません。寮へは、外部からの電話は入らない仕組みになっているので、夏休みの同窓会で、知ったのかもしれません。で、他愛ない母校愛で、作ったとしたら、とても、他愛ない記事となるのですが、実は、これが、根幹的流れとなって、私へのCIAの弾圧が生まれるのです。

 バスの中に戻ります。しつこく、しつこく、秋山ほうかんが攻めてきます。小ばかにしているのです。小ばかにしているのだったら、私に、質問をするという形で、相手にしなければいいのに、そこが、私が大物であるとベイカーさんから、すでに聞いているのでしょう。いじめたいという意欲満々で、攻めてきます。それで、いい加減うんざりして、「わたくしはね。早稲田の革〇の委員長成夫家訓と、同級生だったのよ。横浜の付属で」と、言いました。すると【ほうかん】は、やっと沈黙しました。ほうかんは、ICUの新聞会委員長で、ICUでは、政治的に威張っている方ですが、いかんせん、早稲田とICUでは学生数が違います。20倍ぐらいいるでしょう。もしかすると、30倍です。だから、社会への影響力が違います。

 で、彼はやっと黙りました。ここで、日本でいう三すくみの法則が成り立ちます。秋山ほうかんは、早稲田の学生会委員長には、負ける。その委員長である成岡君は、入学式総代、卒業式総代だった、私には、成績という意味では負ける。私は、表に現れた政治性という意味では、【ほうかん】に負ける。で、一件落着の筈でした。しかし、こと、CIAが絡むとそうではないのです。まったく違った図式が表れます。

 私は、CIAから見れば、恐るべき大物です。一方で、秋山ほうかんは、ベイカーさんから見れば、言うことを利かせられる小物です。しかし、それでも、成岡康司君よりは、大物です。CIAに近いという意味でね。で、彼か、ベイカーさんのどちらかが、成夫家訓をひそかにリクルートをして、自陣営に引き込んだと、見ています。成岡君は頭がいいですから、そういう複雑な二重性をこなせます。

 で、今は、たぶん、アメリカ大使館内に住んで、戦後二番目の、おおものCIAエージェントとして、瀬島龍三の仕事を引き継いでいるとみています。一方秋山ほうかんは、有機農業に取り組んで、一種の宗教家になっています。ネットもやっていないというのは、嘘の様な気がしますが? おくさん京子さんとは別居して、農業に取り組んでいるということですから、政治の世界では、成岡君には負けているという実態です。でも、それを悔しいとか、悲しいとかは思っていないでしょう。

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副題5、『わたくしは、結婚問題いらい、AAAAさんとの接触を断っているわけだが、笠松敦子さんに、光文社の、中村さんと話が合うと、言っただけで、「私の仕事を邪魔しないで」と電話内で、叫ばれたときは、すぐAAAAさんを思い出し、「比較して、なんて下等なんだ。笠松敦子は」と、考えた。しかし、すぐ電話をAAAAさんにかけて、「かくかくしかじかだったのよ。笠松敦子さんて、ひどい人間だったわ」などと、愚痴を言ったりはしない。私はいったん決めたことは守るのだった。

 ところで、AAAAさんとはICU美術部で、一緒だった。【館野ひろおちゃん(竹本油脂のトップ)】と、【葉っぱちゃん】という私が創作した愛称で、この世界に、登場してもらっている元オックスフォード大学出版会に勤務しているこれまた才気と美貌をあわせもち、家柄もよい女性、+あんずちゃん、は、みんな美術部で、一緒だった。実は美術、特に現代アートの世界には、お金が、回ってこないので、一般の日本人は、東山魁夷とか、平山郁夫以外、きにもとめないというかたちだ。

 すみません。午前三時になったので、途中ですが、止めます。

 ただ医学書院の方が、日本人に対して貢献度が高いです。社員数も筑摩の三倍以上です。売上高は、絶対的に、医学書院の方が上です。筑摩は、利益だけを額として書いているが、それも、単位が、ゼロ三つ違いますよね。

 そして、AAAAさんは、1967年度の入社試験一番でした。彼女から聞いたわけでは無いのですよ。東大に努めていた時に、今の場所の三つ前の医学書院の社屋に遊びに行って、それを知りました。

 ところで、光文社の中村さんと画廊・巷房で、現代美術論で、話があったといっても、私の方に、光文社が、美術本を出していないという知識はありますよ。美術系の雑誌類も出していないです。そんな会社に、私が何をお願いしますか? 本屋の、平台に、私の光文社刊のエッセー本を置いたって、売れないではないですか? むめいなんだもの。それぐらいわかっていますよ。馬鹿にしすぎです。下手に出ているといい気になって威張りまくっていますね。それって、下品だ。下等だ。

 でもね。私の五冊目のエッセー本【黄色いさくらんぼ】=2008年刊=は、500冊程度、銀座で献呈しただけですが、10年くらいアマゾンで、1万8000円で流通していました。その後値段は下がったものの、先月まで、乗っていました。定価は、1680円とつけているのにです。カラー印刷頁はないです。私は命を懸けて、血がしたたり落ちる思いで、文章を書いているのですよ。それほど、文章に迫力があるのですよ。ミスター笠松殿、注文を出して、原稿枚数を決めて、お金を払う文章とは、まったく違うのです。あなた、私の文章を一行も読んだことがないのでしょう。せめて、之と前の章ぐらい読んでください。

 1980年代、北久里浜にいる時から、画廊巡りを続けているのです。謙遜して、・・・・・美大出ではないので・・・・・、といつも言っていますが、膨大な知識は積み重ねています。

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