本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)

2011年05月04日 | 通説・俗説・虚説を斬る!
 前回は鈴木眞哉氏が著書の中で何ら理由を示さず拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』を「落第組」と決め付けたことを書きました。今回は鈴木氏が自ら掲げた「満たさなければならない5つの条件」を拙著がいかに満たしているかを論証することにより、鈴木氏の論を斬ってみたいと思います。
 ★ 前回の記事:鈴木眞哉氏『戦国@常識・非常識」大論争!』を斬る!

 まず、鈴木氏の主張をご紹介します。
1.光秀が事件を起こした動機には触れても、黒幕とされる人物や集団が、どのようにして光秀に接触したかの説明がない。
2.実行時期の見通しはどうだったのか、実行に至るまでの機密漏洩の防止策をどう立てていたのかの説明がない。
3.仮に光秀が謀反に同意したとしても、部隊指揮官となる重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない。
4.黒幕といわれる人物や集団は、事件の前も後も、光秀の謀反を具体的に支援していないが、その点についての説明がない。
5.決定的なこととして、謀略説には、裏付け史料がまったくない。
 これに一つでも触れれば失格ということですが、これまでに取り上げた謀略説は、一つ、二つではなく、たいていは五つ全部に抵触してしまうものが多かったといえます。


 以下の説明は拙著をお読みになっていることを前提として書きますが、まだお読みでない方は以下のページであらすじだけでも頭に入れて読まれるとよいと思います。
 ★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』あらすじ
 また、あわせてこの本の出版にかけた私の思いも以下のページでご理解しておいていただけると幸いです。
 ★ 『本能寺の変 四二七年目の真実』出版のお知らせ
 なお、以下の文中に出てくる拙著の目次はプレジデント社の拙著のページから見ることもできます。
 ★ プレジデント社の拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』のページ

【条件1】
 まず、拙著の目次をご覧ください。大きく三部構成にしていますが、動機について書いたのが第2部「謀反を決意した真の動機」、そして事件の顛末を解き明かしたのが第3部「本能寺の変は、こう仕組まれた」です。つまり、拙著の3分の1はプロセス解明に当てております。従来の諸説(通説となっている怨恨説・野望説も含めて)が「動機しか論じていない」という欠陥を持っていることは拙著でも指摘しており、その欠陥を埋めたことにこそ拙著の価値があります。誰が見ても従来の諸説とは明らかに一線を画しています。拙著を普通にお読みになれば、この基本的なことへの認識はすぐに得られると思います。
 さて、問題の箇所「黒幕と光秀の接触説明」ですが、まずお断りしておきますが拙著には黒幕はおりません。あくまでも光秀の主体的犯行です。ただし、光秀は徳川家康を味方に引き入れていたと書いております。このことは、第9章「信長が導いた謀反同盟」を普通に読めば、すぐにご理解いただけると思います。
 そして、その章の153頁から163頁にかけての10頁を費やして、安土で行われた光秀と家康との談合の説明を行っています。
 したがって、鈴木氏のいう「どのようにして光秀に接触したのかの説明がない」という指摘は明らかに拙著については適合しません。
 なお、鈴木氏が拙著批判の参考とした藤本氏の著書には、拙著に「光秀と家康が二人だけで談合した」と書いてあるように記されていますが、拙著にはさらに二人の重要人物が参加したと書いてあり、これが大きなキーとなっています。この重要な記述は拙著を普通に読めば頭に残る話であり、「藤本氏は拙著をまともには読んでいないのでは?」という私の疑問の一因となっています。

【条件2】
 この条件は「信長が上洛する日を直前まで誰も知らなかったのだから、事前に謀反を謀議したとすると機密維持ができなかったはず」とする藤本氏・鈴木氏の論理の核になっています。これに反論することは「本能寺の変は(動機も定かでない)光秀が偶発的に起こした事件」とする藤本・鈴木説そのものに反論することになります。かなり長文になりそうなので、これについては次回のお楽しみとして、今回は残りの条件についての反証を書くことにします。

【条件3】
 重臣たちへの説得を問題にしていますが、これは光秀の謀反の動機を理解すればたちどころに答が出ます。鈴木氏がこのような条件を持ち出したのは、鈴木氏は通説となっている怨恨か野望を動機と考えているからだと思います。確かに、主君の私情から発した謀反であれば重臣たちに反発が出るのは当然です。
 拙著では第2部「謀反を決意した真の動機」68頁から120頁までの約50頁をかけて動機が「土岐一族を滅亡から救済」することであったと述べています。つまり、光秀の一族郎党を救うための謀反ですので、重臣たちの思いは鈴木氏の考えているものとは全く違っていたことになります。
 その一端を示すものとして93頁で『元親記』に「光秀重臣の斎藤利三が長宗我部氏の滅亡を心配して光秀の謀反を差し急いだ」という記述があることも書きました。つまり重臣が謀反を積極的に推進する姿勢であったわけです。
 以上のように拙著には書いてありますので鈴木氏の言う「重臣たちへの説得をどうしたのかの説明がない」という指摘は適合しません。

【条件4】
 拙著では本能寺の変勃発後の家康の行動が光秀支援活動であったことを第10章「家康の謎の策動」164頁から188頁までの二十数頁を費やして説明しています。鈴木氏の言う「光秀の謀反を具体的に支援していないが、その点についての説明がない」という指摘は明らかに拙著には適合していません。

【条件5】
 「謀略説には裏付け史料がまったくない」という指摘ですが、拙著を謀略説にくくっていることへの反論はさておき、拙著に裏付け史料が全く書かれていないかの如き指摘は根本から誤っていることを、まず申し上げておきます。これは拙著を普通にお読みいただいた方ならどなたでも納得されていることだと思いますが「しつこいぐらいに裏付け史料を書いている」のです。拙著に一貫したこの姿勢こそ従来の研究書と一線を画すものです。
 ただし、鈴木氏がいう裏付け史料が光秀と家康との同盟契約書のようなものを云うのであれば、それを見付けるのは難しいでしょう。鈴木氏が大事にする機密漏洩防止策としても、そのような文書は残さないでしょう。
 そうであるが故に傍証的な史料や史実から蓋然性(確からしさの度合)を高める積み上げが必要になります。このこと自体を否定してしまうと歴史の事件の真相解明そのものを否定することになります。蓋然性がどの程度あるか、ということを議論すべきです。これは現代の犯罪についても全く同様であり、裁判とはこの蓋然性を審議する場といえます。私が自分の活動を「歴史捜査」と名付けている由縁でもあります。
 こういったレベルでの反論を藤本氏も鈴木氏も一切してくれなかったことが残念でなりません。何も具体的な証拠を示さず、ただただ「信長はそうしなかったはずだ!」といったご自身の見解を述べるだけで、全く先につながる議論にはなっていないのです。
 さて、拙著では条件4に書いた第10章においても『茶屋由緒記』『伊賀者由緒ならびに御陣御供書付』『伊賀者由緒記』『三河物語』『家忠日記』『日本王国記』『多聞院日記』の記述を裏付けとして用いて蓋然性を高めています。したがって、鈴木氏のいう「裏付け史料がまったくない」という指摘は明らかに拙著には適合していません。

 以上、4つの条件についての私の主張は拙著を普通に読んでいただければおわかりいただけることです。
 拙著を謀略説にくくってしまったことも問題ですが、拙著に対して「これまでに取り上げた謀略説は、一つ、二つではなく、たいていは五つ全部に抵触してしまうものが多かったといえます」という指摘は事実に反しています。私は鈴木氏が拙著を読まずに藤本氏の意見を鵜呑みにして拙著の評価を決めたとみていますが、その蓋然性がこれで極めて高まったと思います。
 加えて、「落第組」という烙印を押すというのはいかがなものでしょうか。鈴木氏は歴史研究のアマチュアを自認しているようで、プロの研究家や作家からの礼を失する対応に憤りを覚えていらっしゃることが著書に書かれています。拙著への対応は今や堂々とプロになったという鈴木氏の自信のあらわれでしょうか?
>>>続き
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ】
 1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
 2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
 3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
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 5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
 6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
 7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(完結編)


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