『本能寺の変 431年目の真実』(明智憲三郎著、文芸社文庫) 24万部突破!!!
【2014年6月25日追記】
今年もNHK大河ドラマで光秀役の春風亭小朝さんがこの言葉「敵は本能寺にあり!」を叫ぶようです。所詮、物語ですから歴史の真実でなくても構わないのですが、この番組を見る側が真実だと誤解しないようにくれぐれもご注意下さい。
なぜ、これが真実ではないと言い切れるかというと、初めてこの言葉を書いた江戸時代の物語『明智軍記』の記載内容に決定的な誤り(嘘といってよいでしょう)があるからです。詳しくは以下に転載の2013年3月13日記事をご覧ください。
なお、放送日は7月13日とのことです。
>>> 大河ドラマ.net 本能寺の変を語る上で外せない『本能寺の変 431年目の真実』ネタバレあり
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>>> 「本能寺の変 431年目の真実」読者書評
>>> 「本能寺の変の真実」決定版出版のお知らせ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』プロローグ
>>> 『本能寺の変 431年目の真実』目次
>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
【2010年3月13日記事】
「敵は本能寺にあり!」
この言葉は明智光秀が織田信長を討つために軍勢を京都へ向かうよう命令したときの言葉として余りにも有名なものです。本能寺の変が登場するテレビ番組では欠かせないクライマックスのひとつではないでしょうか。
でも、実際の光秀はこの言葉を言っていません。
この言葉は江戸時代に書かれた軍記物という物語が創作したものにすぎないのです。
最初に書いたのは『明智軍記』です。本能寺の変から100年もたって書かれた本です。それ以前に書かれた有名な軍記物である『甫庵信長記』『甫庵太閤記』『川角太閤記』のいずれにも書かれていませんので、間違いないと思います。
『明智軍記』はいろいろな光秀伝説を創作しました。この書は研究界では出鱈目(でたらめ)とされているにもかかわらず、この書に書かれていることを研究者でも史実と混同している人がいるので厄介です。光秀が信長に仕える以前は朝倉義景に仕えていたり、光秀の享年が55歳だったりと。
★ Wikipedia「明智軍記」記事
★ 刷り込まれた本能寺の変の通説
★ 光秀は朝倉義景に仕えていません!
★ 明智軍記と細川家記
★ 光秀辞世の句
この『明智軍記』に次の言葉が光秀のせりふとして登場しています。
「敵ハ四条本能寺・二条城ニアリ」
光秀は兵が本能寺の場所を間違えないように、わざわざ「四条」と地名を言ったわけです。また、信長だけでなく息子の信忠も討たねばならないので、信忠が立て籠もって戦った二条城のことも忘れずに付け加えたということです。「光秀らしい緻密さ」として納得する人が多かったのではないでしょうか。
さらに100年後に書かれた『絵本太閤記』にもこの言葉が引き継がれました。
「敵は四条本能寺と二条の城にこそあれ。急ぎ攻め討つべし」
『絵本太閤記』は絵入りで庶民受けするように書かれ、人形浄瑠璃や歌舞伎の台本にもなったので、おそらく「敵は本能寺にあり」という言葉を大いに広めることに功績があったものと思います。
★ Wikipedia「絵本太閤記」記事
さて、この言葉を光秀が実際には言っていない、という根拠ですが、それは単に100年、200年もたって書かれた本が書いたからというだけではありません。この2つの書が書いた言葉の中に光秀が決して言えない言葉があるのです。
それは「二条城」です。
二条城という言葉で信忠を意味していますが、信忠は本能寺の側の妙覚寺に宿泊していました。本能寺の襲撃を知って、あわてて二条城に移って立て籠もったのです。信忠が二条城にいることを光秀が知ったのは、信忠が二条城に立て籠もった後です。したがって、京都へ向かって出陣せよという命令を下した時点では「敵は二条城にはいなかった」のです。正に「語るに落ちた軍記物」です。こういった創作に現代人はすっかりだまされているようにみえます。
しかし、軍記物はしょせん物語ですので、実際になかったことを創作しても当たり前といえます。現代の小説も同様で小説家は何も史実を忠実に書こうとしているわけではありません。しょせん嘘なのです。
ただ、問題はそれを受け取る側です。物語と史実とを見境なく受け取ってしまうということです。現に、「光秀が敵は本能寺にありと言った」ことを材料にして謀反の動機を推論する人がいたりします。歴史を考えるときには、まず初めに史実が何かを調べないと虚構の上で考えたり議論したりする空しい努力をすることになります。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みになった方は、これまで歴史だと思っていたことが実はどれも虚構だったということに驚いたことと思います。まだお読みでない方には、これ以上、空しい努力をしないように拙著を一刻も早くお読みいただきたいと思います。
【2011年2月3日追記】
おそらく来週NHK大河ドラマ「江」で明智光秀役の市村正親がこのせりふ「敵は本能寺にあり!」と叫ぶのでしょう。気が重いです。
★ 本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
写真は本能寺での「信長祭」の風景です。
歴史捜査レポートとは?
歴史捜査レポートの目次
【歴史捜査レポート:大河ドラマ「江」シリーズ】
本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
兄・万福丸の処刑の真相
万福丸ショック
父・浅井長政の頭蓋骨
正月の酒宴の出席者
森蘭丸さん?
光秀のきんかん頭
怨恨説踏襲ですね!
『明智軍記』踏襲ですね!
信長の遺体
小栗栖の竹薮
光秀辞世の句
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ連載中!】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続きの続き)
【2014年6月25日追記】
今年もNHK大河ドラマで光秀役の春風亭小朝さんがこの言葉「敵は本能寺にあり!」を叫ぶようです。所詮、物語ですから歴史の真実でなくても構わないのですが、この番組を見る側が真実だと誤解しないようにくれぐれもご注意下さい。
なぜ、これが真実ではないと言い切れるかというと、初めてこの言葉を書いた江戸時代の物語『明智軍記』の記載内容に決定的な誤り(嘘といってよいでしょう)があるからです。詳しくは以下に転載の2013年3月13日記事をご覧ください。
なお、放送日は7月13日とのことです。
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【文庫】 本能寺の変 431年目の真実 | |
明智 憲三郎 | |
文芸社 |
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>>> もはや本能寺の変に謎は存在しない!
>>> 本能寺の変当日に発生した謎が解けるか
>>> 愛宕百韻:桑田忠親・金子拓両博士の怪
【2010年3月13日記事】
「敵は本能寺にあり!」
この言葉は明智光秀が織田信長を討つために軍勢を京都へ向かうよう命令したときの言葉として余りにも有名なものです。本能寺の変が登場するテレビ番組では欠かせないクライマックスのひとつではないでしょうか。
でも、実際の光秀はこの言葉を言っていません。
この言葉は江戸時代に書かれた軍記物という物語が創作したものにすぎないのです。
最初に書いたのは『明智軍記』です。本能寺の変から100年もたって書かれた本です。それ以前に書かれた有名な軍記物である『甫庵信長記』『甫庵太閤記』『川角太閤記』のいずれにも書かれていませんので、間違いないと思います。
『明智軍記』はいろいろな光秀伝説を創作しました。この書は研究界では出鱈目(でたらめ)とされているにもかかわらず、この書に書かれていることを研究者でも史実と混同している人がいるので厄介です。光秀が信長に仕える以前は朝倉義景に仕えていたり、光秀の享年が55歳だったりと。
★ Wikipedia「明智軍記」記事
★ 刷り込まれた本能寺の変の通説
★ 光秀は朝倉義景に仕えていません!
★ 明智軍記と細川家記
★ 光秀辞世の句
この『明智軍記』に次の言葉が光秀のせりふとして登場しています。
「敵ハ四条本能寺・二条城ニアリ」
光秀は兵が本能寺の場所を間違えないように、わざわざ「四条」と地名を言ったわけです。また、信長だけでなく息子の信忠も討たねばならないので、信忠が立て籠もって戦った二条城のことも忘れずに付け加えたということです。「光秀らしい緻密さ」として納得する人が多かったのではないでしょうか。
さらに100年後に書かれた『絵本太閤記』にもこの言葉が引き継がれました。
「敵は四条本能寺と二条の城にこそあれ。急ぎ攻め討つべし」
『絵本太閤記』は絵入りで庶民受けするように書かれ、人形浄瑠璃や歌舞伎の台本にもなったので、おそらく「敵は本能寺にあり」という言葉を大いに広めることに功績があったものと思います。
★ Wikipedia「絵本太閤記」記事
さて、この言葉を光秀が実際には言っていない、という根拠ですが、それは単に100年、200年もたって書かれた本が書いたからというだけではありません。この2つの書が書いた言葉の中に光秀が決して言えない言葉があるのです。
それは「二条城」です。
二条城という言葉で信忠を意味していますが、信忠は本能寺の側の妙覚寺に宿泊していました。本能寺の襲撃を知って、あわてて二条城に移って立て籠もったのです。信忠が二条城にいることを光秀が知ったのは、信忠が二条城に立て籠もった後です。したがって、京都へ向かって出陣せよという命令を下した時点では「敵は二条城にはいなかった」のです。正に「語るに落ちた軍記物」です。こういった創作に現代人はすっかりだまされているようにみえます。
しかし、軍記物はしょせん物語ですので、実際になかったことを創作しても当たり前といえます。現代の小説も同様で小説家は何も史実を忠実に書こうとしているわけではありません。しょせん嘘なのです。
ただ、問題はそれを受け取る側です。物語と史実とを見境なく受け取ってしまうということです。現に、「光秀が敵は本能寺にありと言った」ことを材料にして謀反の動機を推論する人がいたりします。歴史を考えるときには、まず初めに史実が何かを調べないと虚構の上で考えたり議論したりする空しい努力をすることになります。
拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』をお読みになった方は、これまで歴史だと思っていたことが実はどれも虚構だったということに驚いたことと思います。まだお読みでない方には、これ以上、空しい努力をしないように拙著を一刻も早くお読みいただきたいと思います。
本能寺の変 四二七年目の真実明智 憲三郎プレジデント社このアイテムの詳細を見る |
【2011年2月3日追記】
おそらく来週NHK大河ドラマ「江」で明智光秀役の市村正親がこのせりふ「敵は本能寺にあり!」と叫ぶのでしょう。気が重いです。
★ 本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
写真は本能寺での「信長祭」の風景です。
歴史捜査レポートとは?
歴史捜査レポートの目次
【歴史捜査レポート:大河ドラマ「江」シリーズ】
本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
兄・万福丸の処刑の真相
万福丸ショック
父・浅井長政の頭蓋骨
正月の酒宴の出席者
森蘭丸さん?
光秀のきんかん頭
怨恨説踏襲ですね!
『明智軍記』踏襲ですね!
信長の遺体
小栗栖の竹薮
光秀辞世の句
【拙著『本能寺の変 四二七年目の真実』批判への反論シリーズ連載中!】
1.藤本正行氏「光秀の子孫が唱える奇説」を斬る!
2.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!
3.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続き)
4.鈴木眞哉氏『戦国「常識・非常識」大論争!』を斬る!(続きの続き)
5.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う
6.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続き)
7.信長は謀略で殺されたのだ:本能寺の変・偶発説を嗤う(続きの続き)
この言葉を有名にしたのは!
江戸時代の学者・頼山陽で、「日本楽府」と言う書物の中に書かれているそうです。
「・・・我が敵は正に本能寺に在り・・・。」
私が、明智光秀に興味を持ち始めた頃に、買った歴史雑誌には、光秀の言葉ではなく、心境として頼山陽の詩が、注釈文として書かれていましたが・・・。
最近の雑誌は、注釈文も無く史実でない物語を強調するのが多く、ガッカリさせられるものが多いです。
明智さまの様に、新たに真実に近づこうと言う気が無いのでしょね・・・。
確かに「敵は本能寺にあり」という言葉は頼山陽が言ったとよく言われますが、このように史料間の順番関係の確認が必要です。
海外出張から帰ってきて、先週やっと「江」を見ましたが、もう!明日が本能寺の変なんですね。
先週予告見ましたが、丸見えの竹林で、騎馬武者を襲おうとするシーンが有りましたが、あんな近距離で襲うとは・・・・。
ドラマでのことと事実にはおそらく違いも多いのだろうと毎回放送が終わるたびにネットで諸説調べていたことろ、こちらを見つけた次第です。
「本能寺の変 四二七年目の真実」早速注文いたしました。読むのが楽しみです。
テレビの功罪は大きいかも知れませんが、私のように全く予備知識もない者も興味を持ち、疑問を持ち、あれこれ調べるきっかけを作ってくれたことには感謝です。
受験用に年号と主要人物の名前しか知らなかった私ですが、すこしづつ歴史ワールドを楽しみたいと思います。 通説と真実。 その差を知ることもとても楽しそうです。
韓流歴史ドラマ=21世紀の人間が創作 → 創り話と 思いながら楽しむ ですが、
日本の大河ドラマ(戦国)の主な流れ= 『軍記物』で江戸時代の人間が創作 → 21世紀の人間が「史実に沿っている」と思い込まされる 傾向が顕著だからです 将来 明智様が展開された歴史捜査が ドラマに反映されるようになれば、この現状は打破されるのでは!と
思っております
そのような構図ですので、私の見出した真実が普及するにはとてつもなく時間がかかります。おそらく、私の代で成果を得るのは困難で、この先二代、三代とかかるでしょう。
でも、あきらめているわけではありません。最大限の努力をして、次世代にバトンタッチしたいと思います。まっつん様にも引き継いでいただけるとうれしいです。
先日は講演会にいらっしゃってくださってありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。
『私の見出した真実が普及するにはとてつもなく時間がかかります。』 現状は仰るとおりだと思います。再来年の大河ドラマを三谷幸喜氏が手がけるとニュースされた時、私は実は正直『光秀』をやらないでくれ!と思いました。三谷氏が明智様の説を採られる確信が持てなかったからです・・・「真田幸村」をやると決まり、ホッとしました。また毎回毎回 戦国の大河ドラマの考証を『必ず』 O田T男氏がされるのも、私には全く理解できません・・・ (あの方しかいないんでしょうか・・・?そこまで歴史学界は権威主義なのでしょうか・・・?) 一方で大河ドラマにこだわらず和田竜氏の『のぼうの城』のように映画化から 普及!というのもアリかな?と思います。(そう言いながら未だ観てないのですが・・・『村上海賊の娘』もそのうち実写化されること必至だと思います) そのようなコメントを書いているものの、恥ずかしながら現状は日々の仕事に追われ何も出来ない毎日です・・・ しかし少しでも時間を創り、明智様が展開された歴史捜査に何か自分も出来ることはないだろうか・・・模索していきたく思います 講演会にも今後も時間を見つけて足を運ばせていただきたく思います!