本能寺の変 「明智憲三郎的世界 天下布文!」

『本能寺の変 431年目の真実』著者の公式ブログです。
通説・俗説・虚説に惑わされない「真実」の世界を探究します。

大河ドラマ「江」の歴史捜査2:父・浅井長政の頭蓋骨

2011年02月09日 | 大河ドラマ「江」の歴史捜査
【2011年2月9日追記】
 1月17日の記事で誤ったことを書いてしまいました。歴史捜査家として基本的な事実誤認をしてしまい申し訳ありません。
 大河ドラマ「国盗り物語」で光秀役の近藤正臣が信長役の高橋秀樹に頭蓋骨の杯を口に押し当てられて、口を開くまいと一文字に唇を結び、顔をゆがめて抵抗する場面は司馬遼太郎の『国盗り物語』にも書かれていない、大河ドラマの脚本家の創作と書いてしまいました。今回、抹消線を引いて消させていただいた文章です。
 あらためて司馬遼太郎『国盗り物語』を読み直してみましたら、ちゃんと書かれていました。やはり、司馬遼太郎の創作でした。彼が信長をして光秀に箔濃の頭蓋骨で酒を飲ませた人物でした。ということは、江戸時代だけでなく明治・大正・昭和戦前の人々もこの「史実」は知らなかったということであり、この「史実」が常識となったのは極めて最近のことということです。おそらく大河ドラマ「国盗り物語」が放映された1973年のことでしょう。私が三菱電機に入社した翌年です。
 「江」の脚本家は明らかに『国盗り物語』をベースに使っています。それでいながら、何故この場面を脚本からはずしたのでしょうか?そういう疑問をもちました。
 おそらく、そういう場面があると、信長が朝倉義景らの頭蓋骨を箔濃にしたのは「弔いの気持ち」であるという脚本家の主張が否定されるからでしょう。史実に合う解釈をするのではなく、自分の解釈に合わせて史実(今回の場合は史実ではなく司馬氏の創作した原作)を好きなように改竄する!そういう脚本家の姿勢を非難してもいたしかたないのでしょう。要は史実と創作を見分ける「賢い視聴者」にならねば・・・
 ご参考に司馬遼太郎の『国盗り物語』のその部分の記述を以下にご紹介します。1973年の大河ドラマをご覧になった方は信長役の高橋秀樹と光秀役の近藤正臣の名演技を思い出してください。

「なぜ飲まぬ、キンカン頭っ」
 信長はその異風な杯をつかみ、光秀の口もとに持ってゆき、唇をひらかせようとした。
「こ、これはそれがしが旧主左京大夫(朝倉義景)殿でござりまする」
「旧主が恋しいか、信長が大事か」
 信長は光秀の頭をおさえ、唇を割らせ、むりやりにその酒を流し込んだ。
「どうじゃ、旧主の味は」
「おそれ入り奉りまする」
「光秀、この杯をうらめ。この杯はそちに何をしてくれた。信長なればこそそちをいまの分限に取り立てたぞ」
 信長には、そんな狂気がある。


 私はこの放送のときに25歳でした。会社に入社したてで、こんな上司に付いたら自分だって、と自分の立場になぞらえて見てしまいました。素直にこの場面を史実の如くに受け入れて、これでは先祖光秀が謀反に突き進んだのも当然、と思ってしまったのです。おそらく多くの光秀ファンの方々が同様だったのではないでしょうか。
 私が「史実は違う!」と明確に知ったのはわずか7年前のことです。誤った通説を正す活動はまだ始まったばかりです。通説の壁を崩すという427年目からの挑戦をご一緒に歩んでいただければ幸いです。相手は歴史の大家であり、マスメディアです。とてつもなく厚くて高い壁です。
 ★ 「通説・俗説・虚説を斬る!」目次
 ★ 定説の根拠を斬る!「朝倉義景仕官」 
 ★ 光秀のきんかん頭 これも司馬遼太郎でした!
  
【2011年1月17日記事】
 昨日、NHK大河ドラマ「江」の第2回目を見ました。「大河ドラマ「江」の歴史捜査1:兄・万福丸処刑の真相」に引き続いて、脚本と史実のギャップを取り上げてみます。
 織田信長と家臣の新年の祝いの席に朝倉義景・浅井久政(長政の父)・長政の頭蓋骨の箔濃(はくだみ:漆塗りにしたものに金粉をかけたもの)が並べられて金色に輝いている場面が出てきました。通説では、信長がこの頭蓋骨に酒を盛って、無理矢理、光秀に飲ませようとして光秀が拒絶したので信長の怒りを買ったと怨恨説の材料にされている有名な場面です。おそらく現代人の誰もが知っている場面ではないでしょうか。
 原作・脚本の田渕久美子氏はこの通説は採用せず、頭蓋骨を箔濃にしたのは死者への信長の弔いの気持ちであると描きました。もちろん、光秀に無理矢理酒を飲ます場面はありません。「通説からの脱却」として私は素直に喜びました。でも、史実はどうなのか、どの軍記物が光秀に酒を強要する話を作ったのかと疑問に思って調べてみました。
 
 まず、驚いたのは軍記物のどれにも光秀に酒を強要したという有名な通説は書かれていません。光秀が信長に苛められるエピソードを量産した『明智軍記』にも書かれていません。それどころか、信長が三人の頭蓋骨を新年の宴会に供えたという話自体がどの軍記物にも書かれていません。一体全体この通説はどこから生まれたのでしょうか?
 大河ドラマの「国盗り物語」で光秀役の近藤正臣が信長役の高橋秀樹に頭蓋骨の杯を口に押し当てられて、口を開くまいと一文字に唇を結び、顔をゆがめて抵抗する場面の鮮明な記憶があります。あれは『明智軍記』を原本として『国盗り物語』を書いた司馬遼太郎による現代の創作だったのでしょうか?!
 早速調べてみましたが『国盗り物語』にも書かれていません。とすると大河ドラマの「国盗り物語」の脚本家の創作?!それとも40年も前のことなので、私の記憶違いでしょうか。どなたか、ご存知の方は教えてください。
 実は、軍記物には書かれていない三人の頭蓋骨の話は信長の家臣・太田牛一の書いた信憑性の高い史料『信長公記』に書かれています。信長の側に仕えていた家臣の書いた話ですので極めて信憑性は高いと認められます。それでは、田渕久美子氏の描いたように、それは信長の死者への弔いの気持ちだったのでしょうか。『信長公記』は次のように書いています。(現代文に要約)
 
 「正月ついたち、京都隣国の面々が岐阜に出仕し酒の振舞があった。他国の衆が退出の後、信長の近臣の衆だけが残り、珍しい肴(さかな)が出て、また酒が振舞われた。去年討ち取られた朝倉義景、浅井久政、長政の首が三つ、箔濃にして据え置かれ、肴に出されて酒宴に及んだ。皆、御謡・御遊興。目出度く、御悦びなり」

 どうでしょうか。この文面を見る限り死者への弔いの気持ちはさらさらないと思います。やはり、大河ドラマ「江」の話は信長の心の優しさを演出するための脚本家の創作ということになります。『信長公記』には信長の心の優しさを示す逸話がいくつか書かれているのですが、田渕氏は果たして今後どのように脚本に取り込むでしょうか。こんな視点から「江」を楽しみに見てみます。
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>>>続き:正月の酒宴の出席者 

本能寺の変 四二七年目の真実
明智 憲三郎
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   歴史捜査レポートの目次
【歴史捜査レポート:大河ドラマ「江」シリーズ】
   本能寺の変の通説:今年も「江」で登場
   兄・万福丸の処刑の真相
   万福丸ショック 
   父・浅井長政の頭蓋骨
   正月の酒宴の出席者
   森蘭丸さん?
   光秀のきんかん頭
   怨恨説踏襲ですね!
   『明智軍記』踏襲ですね!
   信長の遺体
   小栗栖の竹薮
   光秀辞世の句

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5 コメント

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Unknown (Unknown)
2013-10-01 03:37:32
 3コの金箔ドクロは 浅井久政と浅井長政と浅井の本家の浅井明政と前に読んだ歴史の大御所の本には書いてありました。
Unknown (乙)
2015-07-25 20:16:03
「織田信長四三三年目の真実」が数日前に発売になって予約購入していたので昨日までに朱記しながら読んでしまいました。本の冒頭のチェック入としては、頭蓋骨のところP44。史記が原案?だったんですね。全くの初耳でした。他の本でこの点を指摘した話は見たことがありません。今回の新刊は中国の古典からの引用が多いことが秀逸だと思います。ついでにp45で長政寝返りをなかなか信じなかった話を読むと、本能寺で「明智が者と見え申し候」と言われても、信長なら「虚報であろう」とすぐには信じようとしない、となるのが自然ですね。相手が腹心の光秀ならなおさら。でも森乱に再確認もさせずに「是非に及ばず」と言い切ったところが、確かに怪しい。
会稽の恥を雪ぐ (明智憲三郎)
2015-07-26 20:47:34
 当時の史料を読んでいると、中国の故事からの引用が多いことに気付きます。そして、現代人にはその知識がほとんどないことにも。信長の書いた佐久間信盛宛ての折檻状にも「会稽を雪ぐべし」と書かれています。いかに中国の故事が教訓として学ばれていたのかがわかります。
 長政謀反と光秀謀反への信長の反応の対比は見落としていました。ありがとうございます。
Unknown (乙)
2015-07-26 23:16:44
信長が自筆で「会稽の恥」の例えを出しているとは、信長自身の古典の教養は相当なものですね。ことわざとしてででなく、明らかに意味も把握して使っている。
髑髏杯で「こ、これはそれがしが旧主左京大夫(朝倉義景)殿でござりまする」「どうじゃ、旧主の味は」「おそれ入り奉りまする」って、なるほどこりゃ酷い!(笑)
臥薪嘗胆同様 (明智憲三郎)
2015-07-27 09:18:01
 「会稽の恥」は「臥薪嘗胆」と同様に越の勾践にちなんだ故事ですので、よく知られたものでした。臥薪嘗胆は現代人もよく知った言葉ですが、会稽の恥の方は現代では使われなくなったようです。おそらく戦後に急速に中国史に対する知識力が落ちていると思います。

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