幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

オ-ルコック 老中公式訪問日の江戸の天気 安政六年六月七日(1859年7月6日)

2019-01-01 13:09:00 | Weblog


 オ-ルコック 老中公式訪問日は、安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)とのことで、天気は如何だったのでしょう。
現在の平年値では、東京の梅雨入りは6月8日ごろで、梅雨明けは7月21日ごろです。
おそらく、安政六年六月七日の江戸の天気は梅雨前線が関与していたと考えられます。

天気分布図がうまく行かず、申し訳ありませんが、安政六年六月五日には九州四国近畿北陸を中心に雨域が分布していて、
翌六月六日には、東海、関東、東北、北海道に雨域が広がり、九州、四国、近畿は晴又は曇りとなっております。
雨域は低気圧と連動していると思われますので、五日から六日にかけて(梅雨前線上を)低気圧が東進したと考えられます。
通常の季節ですと、低気圧一過の後は晴れ上がりそうなものですが、居座った梅雨前線の影響で全国的に天気は不安定だった
模様です。
梅雨前線の位置が確定しにくいので、六月七日の江戸の天気記事を集めてみますと、

朝雨、後晴【村垣公務日記】【江戸】
晴、夕より雨【梅若実日記】【江戸】
曇、七ツ時より雨ふる【尾崎日記】【八王子】
朝雨四前止、晴る、、夜雨【齋藤月岑日記】【江戸】
 となり総合しますと、
朝は雨降りで9時ころ雨があがり、晴れたが午後5時ころから、また降り出し夜も雨だったと思われます。

気温については江戸の史料がありませんが、水戸の大高氏記録に、朝五ツ時の記録があります。
 6月3日70度、 4日73度、 5日68度、 6日73度、 7日記録なし、 8日70度、9日73度、となっていてほぼ安定しております。
平均しますと 約71度で、温度は華氏ですので摂氏22 度位になっています。
特に天気や気温の急変はなかったようですので、江戸の気温もほぼ似たような傾向だと思われます。
現在の7月の平年値では水戸より東京の方が1.5度ほど気温が高いので、推測しますと、
江戸での7日の午前9時ころの気温は摂氏21~25度位だったのではないかと思います。

 風につきましては、手持ちの江戸の史料がないので、近隣の史料を集めてみますと 
北気ニ而陰、後ニは南ニ替り時 夜ニ入陰、雨降【浜浅葉日記】【横須賀】
小雨昼比より半晴南風【吉野家日記】【流山】
南風【玄蕃日記】【銚子】
坤風雨天【新島島役所日記】
となっていて、江戸でも昼過ぎには南風になっていた可能性が強いと思われます。

はっきりした史料がなく、傍証での天気予想になってしまいましたが、

安政六年六月七日(西暦 1859年7月6日)の江戸の天気は
【朝は雨降りで9時ころ雨があがり、気温は摂氏21度~25度で、後に晴れてきました。
風は昼頃から南風となり、午後5時ころから、また雨が降り出し、夜も雨だったと思われます。】

この日あたりは、全国的に御天気が変わりやすい傾向にありました。
(上の天気分布図は、安政六年六月七日のものです)










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3 コメント

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御礼 (土田)
2019-01-01 17:10:19
いろは丸 様
新年早々にご掲載をいただき、たいへんありがとうございました。当日一日の経過が明確に想像出来るようで嬉しくなるような気持ちです。
オ-ルコックは『大君の都』で、当日の老中への公式訪問の様子を次のように書いています。
「日かげで90度という暑さの日本の7月の太陽をあなどることはできないが、わたしは乗物(駕籠)のきゅうくつさが大きらいなので、馬にのってゆくことにした。これは、ひどく蒸し暑い遠乗りであった。」
この90度(摂氏で32度以上でしょうか)という表現が、当日の温度のことか、日本の夏の一般論として言っているのか、上記ではどちらなのかよく読み取れませんでした。いろは丸様のお調べで、この表現はあくまで後者であり、当日は梅雨中でもあり蒸し暑かったけれども、気温はそこまでではなかった、と理解してよろしいように思います。
この日はまた、いろは丸様も何回か述べておられます長岡藩の河井継之助が、西遊の旅に江戸愛宕山の中屋敷を出発した日でもあります。昼食を川崎宿でとっていますので、江戸からの出発時刻は、雨があがるのを待っての午前9時過ぎ頃と理解してもいいように思います。「お江戸日本橋七つ立ち」というような早立ちではなかったことになります。
河井継之助は品川で二艘の異船を見、その一艘が大砲を9つ撃ったと書いています。もしかしたらその大砲は、オ-ルコックの幕府初訪問へのイギリス船からの礼砲であった可能性もあるように思います。もっとも礼砲の数は、Wikipediaには領事 の場合は7発が習慣であったとありますので、河井の砲発9つ、というのは河井の数え違いかも知れません。またオ-ルコックの老中訪問の時間も『大君の都』には記載がありませんので、確かには言えません。
ともかく、いろは丸様による気候の記録実証の威力は、さまざまな想像を誘うすさまじいものだと感心させられました。思わずうーん、とうなるような威力です。本当にありがとうございました。
新年がいろは丸様にとってよき年となりますことをお祈りし、取り急ぎのお礼とさせていただきます。
Unknown (いろは丸)
2019-01-02 09:33:20
土田様
新年早々に過分なお褒めを頂き恐縮しております。お言葉を励みとして今年も文献を読んでゆきたいと存じます。
私は、ほとんど日記の気象の部分だけしか読んでおりません。土田様のように史料を丁寧に御読みになる本格派には、程遠く、今後も色々御教示願えれば幸甚です。
今年が、土田様にとりまして、良い年となることを祈念しております。
Unknown (いろは丸)
2019-01-02 09:37:23
ご参考にはならないかもしれませんが、以前夏祭りで馬に乗った事があります、大変蒸し暑く、匂いもあり快適とは程遠いものでした。

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