幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

竜馬暗殺時の天気

2008-10-31 20:05:13 | Weblog
 今回の篤姫は、竜馬暗殺です。竜馬が暗殺されたのは慶応三年十一月十五日(1867年12月10日)の夜の事でした。司馬遼太郎の「竜馬が行く」では暗殺された時は、雨となっていました。たしかに十五日京都では雨が降っていましたが、夜はあがっていたようです。
 京都の公家、嵯峨實愛日記によって十四、十五日、十六日の天気を追ってみましょう。
 十四日の朝は晴、雲は東北にながれている(南東の風)、時々くもり暖気、深夜におよんで雨降り。、十五日朝は雨降り、午前九時頃雨やみ、午後には晴れと雨が交じり、雲は南に流れる(北風)。十六日は晴、雲は南にながれ北風で寒い。
とあります。この日記の風と気温に注目してみますと天気状況が分かります。
十四日は南東の風で暖気、十五日の九時頃からは、北風で寒気が入っています。
 としますと、午前九時ごろを境に風と気温が入れ替わった事が分かります。寒冷前線が通過したのは間違いありません。おそらく通過は午前九時ころだったでしょう。日本海を前線を伴った低気圧(温帯低気圧)が東進して、寒冷前線が通過しますと天気は回復して来るのが一般的です。したがって夜に雨はふっていなかったと思われます。高木在中の日記によりますと、十五日は「雨降り、夜双天」とあります。双天とは二つの天気という意味で在中は、現在で言う「晴れたり、曇ったり」の時に「双天」を使っています。
 したがいまして、竜馬暗殺の夜は満月(陰暦十五日は満月)が雲に見え隠れするといった具合だったと思われます。
巷説に、十四日に竜馬は風邪を引いていて、底冷えのする土蔵から母屋に移ったと言うのがありますが、十四日はむしろ「こたつもいやらしいくらい」暖かくこの説もいい加減なもののようです。
 余談ですが、暗殺後は瓢亭の下駄が残されていたとのことです。素直に考えれば、下駄は当時雨具ですから、瓢亭から下手人が来たとすれば、下手人は十四日の夜前まだ道がぬかるまない内に草履で瓢亭に入り暗殺に及ぶ頃に、瓢亭の下駄を履いてきたと考えられます。
 ともあれ、篤姫では、竜馬暗殺の時の天気はどうでしょうか。楽しみです。
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へび花火

2008-10-23 18:55:28 | Weblog
へび花火、懐かしくグロテスクで、どことなく哀感が漂います。
意外なことに、へび花火は長い歴史をもっているようです。
 今回は気象から脱線してへび花火の記述をご紹介しましょう。
時に、慶応二年十月十日(西暦1866年11月16日)肥前藩士伊東次兵衛の長崎出張中の日記に「蛇の玉子と唱え候て、火を焼候えば、微細の品の内より常体蛇のごとき物出る」とあります。
長崎で伊東にへび花火を見せたのは、中国人でしょうか、はたまた西欧人だったのでしょか。
あとは何もわかりません。
ちなみに当日の長崎は「天気よろし
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長州征伐を終結させた巨大台風

2008-10-17 20:35:25 | Weblog
 大阪城の堀に大きさ2m10cmものサンショウウオらしき物の死体が上がったのは慶応二年六月頃のことで、同じく六月二十四日には京都、大阪、丸亀で怪しい光が飛行しているのが見られました。大阪での記録によりますと、玉の大きさは一升の酒を入れる鉄瓶ほどのものだったと言います。UFOでもありましょうか。いずれにしても不吉なことだと人々は感じたに違いありません。
 怪しい火から一月も経たない、慶応二年七月二十日(西暦1866年8月29日)、前日からの雨が上がり、蒸し暑い中、徳川家十四代将軍家茂が大阪城で死にました。
長州征伐は幕府軍に不利な状況のなかで喪は秘せられ、戦いは続けられました。
 同二年の八月七日に
「今暁宮内ニ而御打合、榊原、彦根御両勢大不出来、榊原勢死人不知、明石様御勢強クニ付、奇兵大野へ向引退、追打之処へ公儀様御勢打寄ラレ、寄兵三十八人御打取、散々に退去ス」
この戦闘を最後に第二次長州征伐は終結します。
戦争終結の理由に、
 ①十四代将軍家茂の死    
 ②九州小倉口での幕軍敗北  
などが上げられています。
しかし、「長州大討込」を唱える、十五代将軍の慶喜が参内して、長州征伐の節刀を賜ったのが、翌日の八月八日であります。
 何故戦争は終結したのでしょうか?
実は、八月七日から八日にかけて、「二百年来の大風」と言われた、大型で猛烈な台風が四国から京、阪神を通過したのでした。その結果   愛媛県丸亀市では「七日に至る、猛雨寸断なく、此の夜大風雨、処々出水、山崩れ海溢れ田荒れ人家流失、死亡極めて多し、近年有らざるの天変」
 鳥取県鳥取市では、「七日夕ニハ大風雨破損多古今未曾有之大洪水ニ而御城下内外之町家々中共水ニ没セサルハ無之殊ニ橋々不残流失流家潰家怪我人死人等未数も相分り不申程之事ニ而有之由」
 大阪市では、「夜八ツ比より明朝八日五ツ比まて,南東強風にて諸方大荒、東在之シメノト申所切候よし亦十三堤切候よし、天満中程大水ニて流物滞おち候、、又ハ秋月米京都へ積入候不ね五艘かへり候、、小城濱延寿之木たおれ、、濱通大水の見物ト荒所ト流れもの見物ニて、大くんじゆいたし候、舟津橋、湊橋落ル」
 京都市では「一昨日ヨリ雨続キニテ夜九ツ頃ヨリ大風雨、洛ノ内外死傷百余人等及ブ三十年来ノ大荒ト申スコト」
とありますように幕府側の拠点を中心として大損害がありました。
また、淀川筋は舟がないと通行出来ない状態で、舟から下を見ると藻のように稲がみえた程でした。
台風は兵庫付近から上陸し、京都の西側を通過し、福井方向に抜けたようで、台風の危険半円である、台風進行方向の右側に被害が集中しました。
 一方台風の進路の左側、可航半円にある、の長州側は、雨【馬関】。雨、、川溜之事【小郡】。雨【小倉】くらいの記述でほとんど被害はでなかったようです。
あまりの差に大阪の平野屋日記にはこうあります。
「此のごろの世評、八月七日の風は。行者山おくにてのごまより大荒のよし、長州の方ハなし」
この台風は、幕府軍にマイナス効果をもたらし、長州軍にプラスとなりました。もしこの台風に名前をつけるならば「倒幕台風」と付けるのが良いかも知れません。
先日、地球温暖化の予測ビデオを見ていますと、超大型で猛烈な台風が日本を襲うと予測していました。台風の進路の予測は、奇しくもこの慶応二年八月七日の台風そのものでした。この台風の膨大な被害の状況を記述すれば何かの参考に成るかも知れません。
そのうち、この台風のハザードマップを作りたいと思っています。
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池田屋事件 梅雨明けとともに、蛤御門の変 太平洋高気圧の中

2008-10-01 20:30:54 | Weblog
篤姫も来週は「蛤御門の変」のようです。
そこで、今回は池田屋事件から蛤御門の変までの天気をたどって行きたいと思います。
元治元年六月五日(西暦1864年7月8日)池田屋騒動のあと、梅雨明が明けました。当時気象庁があったとすれば、京都の梅雨明け宣言は六月六日だったと思われます。事件の翌日晴天の中を屯所に引き上げる近藤勇が北の空を見上げれば、そこには北上しつつある、梅雨前線の後姿が見えたことでしょう。
京都のその後の天気を佐久間象山の日記から見てみましょう。
6/6、6/7暑90度、6/8、6/9、6/10朝間微雨、6/11、6/12、6/13、6/14朝冷70度を減ず、6/15、6/16暑90度、6/17微陰、6/186/19微雨あり、6/20、6/2191度、6/22(二條家御番所日記)、6/23、6/24、6/25、6/26、6/27、6/28暑気90度、6/2992度、7/192度、7/2午後、7/3、7/4、7/5、7/6、7/7朝涼78度、7/8(二條家御番所日記)、7/9晩間、7/10暑気朝間既に93度に及ぶ。
ここで佐久間象山の日記は終わります。翌七月十一日木階宮参殿途中に三条木屋町で象山は暗殺されてしまいました。ちなみに温度は華氏で華氏90度は摂氏約32度です。蛤御門の変までの京都の天気は、「二條家御番所日記」に乗り換えます。  7/11、7/12、7/13、7/14、7/15、7/16、7/17、7/18(朝彦親王日記)
 そして「蛤御門の変」当日、元治元年七月十九日(西暦1864年8月20日)の京都の天気は「晴、炎暑甚」しかったようです。当日の風は日本列島全般に北風であり岩手県花巻で「大北風吹」、千葉県銚子市で「東北風」、和歌山県田辺市で「北風強」などの記述があります。京都も例外ではなく若山要助日記に「晴、、北風烈、、段々と南へ焼下り」とありますように、京都では強い北風のため、事件によって起こった火は、北から南へと燃え広がり、翌二十日の午前九時ころ漸く鎮火しました。
 池田屋騒動以来京都では晴れで暑い日が続き、蛤御門の変もまた元治元年の太平洋高気圧の下で戦われたのでした。  
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