酒を飲んでいて話題が切れると、「君が代」に2番はあるかと言う話しになることがあります。1881年(明治14年)11月24日小学唱歌集初編の「君が代」には立派に2番があります。曰く
二 きみがよは。千尋の底の。さゞれいしの。鵜のゐる磯と。あらはるゝ まで。 かぎりなき。みよの栄を。ほぎたてまつる。
この「君が代」は現在歌われている国歌より5、7、7長かったようです。これからは2番を歌おうなどと言っている不心得者もありますが、
あだしごとはさておき、
フェントン先生作曲の元祖「君が代」は、明治3年9月8日(西暦1870年10月2日)越中島で発表されたことになっております。軍事大訓練において明治天皇の前で西謙蔵の指揮により薩摩藩軍楽隊による初演奏が行われたとのことです。
当日の様子を「大久保利通日記」と「嵯峨實愛日記」から追いかけてみます。
前日の夜は頗る蒸暑
明治天皇は、朝7時に江戸城を出発。
午前9時頃越中島到着。
10時頃より暴風雨が厳しくなり。
午後1時頃暴風雨のため調練半ばにして還御。となります 状況を「嵯峨實愛日記」はこう記しています。
「行幸の処、ますます大雨、暴風、川水にわかに増し、潮もまた押し上る、、行幸の御仮屋が暴風で転倒して、清閑寺正三位など負傷人が出ました。還御の途中、道筋の人家が転覆して、青木大典医はじめ随行の侍臣に多数の圧死人がでました。」
肝の太い大久保も
「烈風、迅雨、希代の天変、水溢れ、家倒れ、御通行筋難渋、心配言語を絶す」
とあります。現在で言えば、大雨、洪水、強風、高潮警報のなかで、「君が代」は演奏されたのではないかと思います。
ただ、本当に演奏されたかどうか、手元の資料では確認出来ませんでした。確認できる資料があればお教え下さい。
9月8日以降の北海道、東北地方にに暴風や大雨の記録がありませんから、この台風は東海から東京に大きな被害を与えたあと、進路を東よりに取り太平洋に抜けて行ったと考えられます。
何れにしましても、この台風は、フェントン先生作曲元祖「君が代」に致命的なアヤをつけて去りました。
もし台風が来なかったら、私たちは元祖「君が代」を歌っていたかもしれません。
二 きみがよは。千尋の底の。さゞれいしの。鵜のゐる磯と。あらはるゝ まで。 かぎりなき。みよの栄を。ほぎたてまつる。
この「君が代」は現在歌われている国歌より5、7、7長かったようです。これからは2番を歌おうなどと言っている不心得者もありますが、
あだしごとはさておき、
フェントン先生作曲の元祖「君が代」は、明治3年9月8日(西暦1870年10月2日)越中島で発表されたことになっております。軍事大訓練において明治天皇の前で西謙蔵の指揮により薩摩藩軍楽隊による初演奏が行われたとのことです。
当日の様子を「大久保利通日記」と「嵯峨實愛日記」から追いかけてみます。
前日の夜は頗る蒸暑
明治天皇は、朝7時に江戸城を出発。
午前9時頃越中島到着。
10時頃より暴風雨が厳しくなり。
午後1時頃暴風雨のため調練半ばにして還御。となります 状況を「嵯峨實愛日記」はこう記しています。
「行幸の処、ますます大雨、暴風、川水にわかに増し、潮もまた押し上る、、行幸の御仮屋が暴風で転倒して、清閑寺正三位など負傷人が出ました。還御の途中、道筋の人家が転覆して、青木大典医はじめ随行の侍臣に多数の圧死人がでました。」
肝の太い大久保も
「烈風、迅雨、希代の天変、水溢れ、家倒れ、御通行筋難渋、心配言語を絶す」
とあります。現在で言えば、大雨、洪水、強風、高潮警報のなかで、「君が代」は演奏されたのではないかと思います。
ただ、本当に演奏されたかどうか、手元の資料では確認出来ませんでした。確認できる資料があればお教え下さい。
9月8日以降の北海道、東北地方にに暴風や大雨の記録がありませんから、この台風は東海から東京に大きな被害を与えたあと、進路を東よりに取り太平洋に抜けて行ったと考えられます。
何れにしましても、この台風は、フェントン先生作曲元祖「君が代」に致命的なアヤをつけて去りました。
もし台風が来なかったら、私たちは元祖「君が代」を歌っていたかもしれません。