幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

芹沢鴨暗殺時の天気 文久三年九月十六日

2009-08-25 19:56:23 | Weblog
ぽんたさんリクエストありがとうございます。
リクエスト頂きました、文久三年九月十六日の京都の天気をお知らせいたします。
文久三年九月十六日は西暦ですと1863年10月28日に当たります。
まず天気概況を九月十五日から見て行きましょう。

九月十五日は全国的に晴れの地域が多いのですが、奄美大島で「曇雨」、福岡県豊前市で「夜雨天」、三重県松坂市では「快晴、夜雨」、京都では「晴天夜曇」とあり、翌十六日になりますと、京都では朝から雨、江戸では昼頃から雨、福島県相馬市では、「夜ニ入雨」となっています。
温帯低気圧が東進伴い、雨域や曇域が次第に北東進していることが分かります。
十六日の京都の天気は、
     雨【安達清風日記】【京都】
     陰雨【万里小路日記】【京都】
     陰小雨【中山忠能日記】【京都】
     雨降夜同断【高木在中日記】【京都】
となっていまして、特に強い雨ではなく、じとじととした雨が降っていた様子です。

翌日の十七日も、
     自去夜雨下巳後晴陰不定【中山忠能日記】【京都】
とありますので午前十時頃まで雨が残ったようです。

低気圧から伸びる前線の位置がわかりますと、気温や雨の降り方などももう少し分かるのですが、手持ちの史料では解析出来ませんでした。

芹沢鴨暗殺は、九月十八日の説もありますが、何か面白い史料が出ましたら、お知らせいたします。







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天保水滸伝、大利根川原の決闘  飯岡助五郎、舟でなぐり込み。 天保十五年八月六日

2009-08-23 12:29:08 | Weblog
利根の川風袂に受けて、
月に棹差す高瀬舟
の名文句ではじまる、ご存知「天保水滸伝」
二足わらじの飯岡助五郎が笹川繁蔵を召し取るため、舟で颯爽と笹川河岸に乗り付ける。対する繁蔵は平手酒造や勢力富五郎の奮戦で劣勢ながらも助五郎を撃退すると言った物語です。
時に天保十二年、場所は広大な大利根河原、総勢何百人という侠客が相争うという、まさに大時代の様相を帯びた大利根河原の決闘であります。
初代 宝井馬琴は「講釈師 見てきたような うそを言い」と名句を残しておりますが、やはり、「大利根河原の決闘」もご他聞にもれないようです。
伊藤實氏の「飯岡助五郎正伝」によりますと決闘のあったのは、天保十五年(弘化元年)八月六日(西暦1844年9月17日)の早朝、場所は笹川繁蔵宅、襲ったのは、飯岡の助五郎方は州崎の政吉の始め22名で、対する笹川方は20人たらずだったと書かれています。
問題は、飯岡の助五郎が忍村から笹川まで利根川を舟で遡ったとされる従来からの定説です。
まず天保十五年八月六日の朝の関東の天気を見てみましょう。決闘の地に最も近い、銚子で「天気南風」とあります。他には江戸で「雨ふる」、群馬県みどり市(旧大間々町)で「雨天、開晴也」、栃木県二宮町で「雨」、栃木県日光市で「雨」など取り分けて異常な天気ではありませんが、
銚子では、七月二十七日から八月二日、三日を除き全て雨、同じく江戸では七月二十六日から連日の雨、栃木県の日光でも七月二十七日と八月一日を除き連日の雨(八月五日記載なし)、みどり市では七月二十七日から八月三日を除いて雨、など各地で秋雨前線による、連続の雨を記録しております。
そのため、利根川水系では川水が膨満し
   【渡せ川出水一昨夕より舟とまり】【大泉院日記】みどり市
   【七月初旬より八月初旬迄下総国古河辺大風雨】【続泰平年表】
   【連日の降雨に依り墨田川出水し両国橋芥留杭等損所を生す】【金地院雑記    出水一件】
   【(八月)六日下総国洪水】【続泰平年表】
など、利根川水系全般に、川留めや洪水による被害が出ていたことが分かります。
このような中を、飯岡の助五郎が舟で上って行ったのでしょうか。恐らく無理だったと思います。
見てきたように話す、講談、浪曲、落語は恐ろしいものです。








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天気に150年周期はあるか?ない!だろう。 150年前の8月28日の天気

2009-08-22 17:09:11 | Weblog
突然ですが、150年前の天気と今の天気を比較して見ます。
恐らく何の因果関係もないでしょう。
150年前の8月28日は、西暦1859年の8月28日です、日本では安政六年八月二日に当たります。
日本列島は優勢な太平洋高気圧の下にあって、全国的に晴れです。また、福島県相馬市で「残暑強し」、富山県氷見市で「昼後残炎つよし」、三重県松坂市で「烈暑」、和歌山県和歌山市で「極暑し」福岡県小倉市で「暑、蒸甚し」などとなっていて、残暑も全国的に厳しかったようです。山口県の萩市では七月二十九日頃から「寒暖計九十四度」とあり、最高気温が、摂氏35度位まで上がっていました。静岡県安部郡井川村の海野信茂氏によれば「三十年住んでいるが、こんな厳しい残暑は始めてだ」とあります。
例えば、江戸では七月二十五日(8月23日)の台風以来、六日連続の晴れで、晴天は七日後の八月十日(9月6日)まで続いています。
夏と秋の境の秋雨前線はと言うと北海道の北、宗谷付近にあり、北前船の長者丸は利尻島の鴛泊で南風と雨に合っています。
この年は、安政の大獄の真っ只中ですが、庶民は「旱魃と悪病」と高知県土佐市の真覚寺日記にあるように、コレラ大流行と旱魃で恐怖のどん底にありました。
ほとんどの日記の記事はコレラの流行を書いていますが、安政の大獄は書いていません。当時に生きている人と歴史として振り返る人のギャップをかんじます。
今年は、私の住む東北地方は日照が少なく冷夏でしたが「ブタインフルエンザ」が流行りだして「冷害と悪病」が心配です。
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リクエストに答えまして 文久三年九月十三日 新見錦切腹の日の天気

2009-08-19 20:12:24 | Weblog
ぽんた様リクエストありがとうございます。
文久三年九月十三日は西暦では1863年10月25日になります。秋もだいぶ深まった頃です。
まず、天気概況を見てゆきますと、九月十一、十二日は、太平洋側では、北海道厚岸町から江戸、大阪、鹿児島県肝属町まで全国的に晴れ。
一方、日本海側では、大陸からの寒気の流れ込みにより、福井県鯖江、新潟県巻町、秋田県能代市などで雨となっています。
十三日は、奄美大島で曇天雨。鹿児島県肝属町で雨天。小倉市で陰、午後微雨。広島で曇、昼後より雨。大阪で、晴夕方より雨。江戸で、早天より小雨終日。銚子で、雨天西北風となっていて、太平洋の南岸に雨域が広がって来ているのが分かります。昨日まで雨がちだった日本海側は鯖江、巻町などで晴天となっています。
総括しますと、九月十一日十二日の寒気の流入により太平洋上で弱い前線が形成され、十三日には寒気流入が弱まり前線が北上して太平洋南岸の降雨になったと思われます。
さて、太平洋南岸でもなく、日本海側でもない京都の天気はどうでしょうか。

史料によると、
      
      晴【二條家御番所日記】【京都】
      曇天【万里小路日記】【京都】
      晴陰不定【中山忠能日記】【京都】
      曇天夜同断【高木在中日記】【京都】
となっています。
京都の九月十三日の天気は、曇りで時々日差しがあり、夜も曇りで十三夜の名月は見えなかったようです。
 台風とかと違って普通の日の天気予想は史料もすくなく、却って難しい事がわかりました。おそまつ。




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150年前の農民生活  百聞は一見に如かず

2009-08-14 12:40:20 | Weblog
 江戸時代の農民は稗、粟、御粥をくい、御上に従順で、朝から晩まで働いていると思っている方がいましたら、あなたは時代劇の見すぎです。                  貧農史観に囚われています。
百聞は一見に如かずと言いますが、時代劇でいやと言うほど貧しい農民生活を見せられているために、なかなか先入観から抜けだせません。
 
今回、150年前の栗原の食復活プロジェクト hthttp://kurihara-shoku150nen.seesaa.net/と言う料理復元のプロジェクトを行って見て、いよいよ時代劇の農民像が間違っていることに確信を持ちました。
 プロジェクトが行うのは、近くの、農家民宿「たかまった」に伝わる「大秘方萬料理方全」と言う料理書の料理の復元と伝承です。
写真を御覧ください。8月4日におこなった料理本からの復元です。
鱧のかまぼこ、大麦うどん、南蛮漬け、味付け御飯、梅鰹、きゅうりもみ、ところてん、ゆべしなどです。
内陸なのに海の魚料理も多く大変ゆたかだったことが分かりました。
写真の料理を幕末の御百姓さんがたべていた訳です。
百聞は一見に如かずです。
当時の農民は自分の事を「百姓」とは言いません、必ず「御百姓」と言います。
「御」と言うにのは、例えば道や橋のような公的な普請は「御普請」といい、自分の家を作るのは「普請」とか「自分普請」とか言い「御」が付きません。百姓は必ずしも農民ではなく、民を差しますので、「御百姓」と言うのは「公民」と言う意味も含んでいたと思います。従って人権意識も強く、訴訟沙汰は現代よりも多かったのではないかとも思われます。
適度に働き、何か問題があれば村役人のところに訴え、家では時々刺身や飯寿しなどで一杯やる、そんなふてぶてしい農民像が幕末の本当の農民の姿だったのではないかと、料理で酒をのみながらそう思いました。、「今の人と変わらないなあ」

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