この度は、リクエストにお答えしまして、安政二年十月二日四つ頃(1855年11月11日午後10時頃)に起こった
地震とその後の天気を調べて行きたいと存じます。
安政二年十月二日(1855年11月11日)の大地震は、江戸から静岡の海浜を中心に被害が広がっています。
水戸藩の藤田東湖が圧死、浅草、本所、吉原などから出火し大火事となり、死者は十万人を超えた模様です。
地震の事を書きますと終わりませんので、早速本題の天気を見て参りたいと存じます。
まず、地震発生時の予想天気図をご覧ください。
北海道、東北、北陸にかけまして、非常に良い天気となっております。
二日の朝は、厚岸、花巻、山形、で初霜の記録があり、放射冷却が厳しかったことがわかります。
一方、関東は
雨天、曇、夜晴ル【梅若実日記】【江戸】
朝くもり、少しく雨ふる後はれたり【なゐの日並】【江戸】
曇天、小雨、北風【玄蕃日記】【銚子】
雨少々、曇り終日【和田篤太郎日記】【茅ヶ崎】
と、午前中は小雨が降った様子です。
はっきりとは分かりませんが、
この天気は、高気圧が北へ偏った時,高気圧のへりを廻る寒冷な北東気流が温暖な海洋との間で対流雲を生じ、関東でくもりや
細雨になるケ-スかと思われます。
江戸では正午頃には、雨も上がり、曇り、深夜にかけて晴れて行ったようです。
ところで、江戸時代には地震は天気に影響するものと考えられていたようです。
震の前雨あり震後はるる【新発田】などです。
では江戸はどうだったのでしょうか。
夕七ツ時曇天北風、夜四ツ時地震但シ寒暖儀天気トモ夕七ツ時ニ相替儀無之【寒暖晴雨升降記】【江戸】
この【寒暖晴雨升降記】によりますと、地震の起きた午後十時ころは、午後四時頃と気温、天気ともに変わりなく曇天、北風だった
とあります。
この地震で、多くの人々が家屋の外に避難しています。
仙台六十二万石の太守 伊達の殿様は、馬場に板を敷きその上に畳、毛氈を引いて、あたりは屏風を建て廻しその上に傘をを上げ
二日の夜から三日の午前十時ころまで過ごしました。 非常時とはいえ、さすが、どこか雅ですな~
ご存じ遠山の金さんは、御庭内へ仮小屋を取建て、当分住居の積りです。
放浪の囲碁打ち、和田篤太郎は茅ヶ崎で地震に遭い、「終夜中ニハ外庭ニ莚ヲ引明し候数多有之候由也、既ニ家破カと覚申候」とかいていて、庶民は、庭や道路で莚を引いて夜明かしした者も多かったようです。
地震の時、江戸は曇りのようですが、段々星が見えて来ました。明け方の放射冷却が大変な気がしますが、寒いと言う記事は見当たりませんでした。先程の【寒暖晴雨升降記】に寒暖儀が夕七つと夜四つに変わりないとありましたが、気温はそれ程下がらなかったのでしょうか。また、何よりも余震が頻発して寒さを感じる余裕もなかったのかも知れません。
翌十月三日、正午頃の天気図は、
となっておりまして、昨日とは逆に、東北地方は雨がちで、関東は晴天となっています。
北日本には寒気が流入して来た様子で、強風大荒れとなっていまして、晩には、花巻、院内、鰺ヶ沢では降雪を記録、特に鰺ヶ沢では、
12cmの積雪となっております。
寒気が南下して来ると、避難民危うしと言うところですが、余震の記事は有っても、寒いと言う記述は有りません。おそらく、気温の
低下は少なかったのだろうと思います。
小生も東日本大震災では、震度7を経験しましたが、夜は余震で眠られず、昼もいつもグラグラで天気の記憶はあまりありません。
勿論電気もなく、3月11日でストーブも電気も使えなかったのですが、布団にくるまっていたせいか、寒いと言う記憶がありません。
生命の危機に瀕して、血圧も高くなっていて寒さを感じないのかも知れません。
次回は続きで、十月四日から八日までの天気図を出して見たいと思います。
地震とその後の天気を調べて行きたいと存じます。
安政二年十月二日(1855年11月11日)の大地震は、江戸から静岡の海浜を中心に被害が広がっています。
水戸藩の藤田東湖が圧死、浅草、本所、吉原などから出火し大火事となり、死者は十万人を超えた模様です。
地震の事を書きますと終わりませんので、早速本題の天気を見て参りたいと存じます。
まず、地震発生時の予想天気図をご覧ください。
北海道、東北、北陸にかけまして、非常に良い天気となっております。
二日の朝は、厚岸、花巻、山形、で初霜の記録があり、放射冷却が厳しかったことがわかります。
一方、関東は
雨天、曇、夜晴ル【梅若実日記】【江戸】
朝くもり、少しく雨ふる後はれたり【なゐの日並】【江戸】
曇天、小雨、北風【玄蕃日記】【銚子】
雨少々、曇り終日【和田篤太郎日記】【茅ヶ崎】
と、午前中は小雨が降った様子です。
はっきりとは分かりませんが、
この天気は、高気圧が北へ偏った時,高気圧のへりを廻る寒冷な北東気流が温暖な海洋との間で対流雲を生じ、関東でくもりや
細雨になるケ-スかと思われます。
江戸では正午頃には、雨も上がり、曇り、深夜にかけて晴れて行ったようです。
ところで、江戸時代には地震は天気に影響するものと考えられていたようです。
震の前雨あり震後はるる【新発田】などです。
では江戸はどうだったのでしょうか。
夕七ツ時曇天北風、夜四ツ時地震但シ寒暖儀天気トモ夕七ツ時ニ相替儀無之【寒暖晴雨升降記】【江戸】
この【寒暖晴雨升降記】によりますと、地震の起きた午後十時ころは、午後四時頃と気温、天気ともに変わりなく曇天、北風だった
とあります。
この地震で、多くの人々が家屋の外に避難しています。
仙台六十二万石の太守 伊達の殿様は、馬場に板を敷きその上に畳、毛氈を引いて、あたりは屏風を建て廻しその上に傘をを上げ
二日の夜から三日の午前十時ころまで過ごしました。 非常時とはいえ、さすが、どこか雅ですな~
ご存じ遠山の金さんは、御庭内へ仮小屋を取建て、当分住居の積りです。
放浪の囲碁打ち、和田篤太郎は茅ヶ崎で地震に遭い、「終夜中ニハ外庭ニ莚ヲ引明し候数多有之候由也、既ニ家破カと覚申候」とかいていて、庶民は、庭や道路で莚を引いて夜明かしした者も多かったようです。
地震の時、江戸は曇りのようですが、段々星が見えて来ました。明け方の放射冷却が大変な気がしますが、寒いと言う記事は見当たりませんでした。先程の【寒暖晴雨升降記】に寒暖儀が夕七つと夜四つに変わりないとありましたが、気温はそれ程下がらなかったのでしょうか。また、何よりも余震が頻発して寒さを感じる余裕もなかったのかも知れません。
翌十月三日、正午頃の天気図は、
となっておりまして、昨日とは逆に、東北地方は雨がちで、関東は晴天となっています。
北日本には寒気が流入して来た様子で、強風大荒れとなっていまして、晩には、花巻、院内、鰺ヶ沢では降雪を記録、特に鰺ヶ沢では、
12cmの積雪となっております。
寒気が南下して来ると、避難民危うしと言うところですが、余震の記事は有っても、寒いと言う記述は有りません。おそらく、気温の
低下は少なかったのだろうと思います。
小生も東日本大震災では、震度7を経験しましたが、夜は余震で眠られず、昼もいつもグラグラで天気の記憶はあまりありません。
勿論電気もなく、3月11日でストーブも電気も使えなかったのですが、布団にくるまっていたせいか、寒いと言う記憶がありません。
生命の危機に瀕して、血圧も高くなっていて寒さを感じないのかも知れません。
次回は続きで、十月四日から八日までの天気図を出して見たいと思います。