幕末気象台

おりにふれて、幕末の日々の天気やエピソードを紹介します。

権威より金 弘化三年山之内豊熈大井川越え 

2021-10-11 18:34:34 | Weblog


手元に弘化三年の、土佐藩主山之内豊熈の参勤に随行した{小原與一郎(武市半平太らと他藩応接役、維新後は倉敷県知事となった人のようです)の記録がある、参勤御供の通達から、江戸到着までの子細が書かれています。
なかでも、大井川越えの部分の記述が面白いので紹介してみたいと思います。



弘化三年三月九日、高知を出発した山之内容堂の行列は江戸を目指し四月三日増水して濁っている天竜川を渡り日坂の宿に入った。
折しも大井川も増水しており、島田本陣の新右衛門によると、大井川は、三月十七日から四月三日までで川明の日は、三月二十二日と二十九日のたった二日だけであった。足止めを喰った旅行者で日坂はごった返しで、
「下宿、ウドン屋平吉二階座鋪也、旅籠ニ非ス」
とあり、與一郎は、旅籠屋にも泊まれずウドン屋の二階で泊まったようです。
翌日の四日も川留めで、ウドン屋にもう一泊です。
脚止めとなり,
本陣の豊熈侯は当然不機嫌です。
五日は川明となり、七ツ半出発
  「大井川今朝ヨリ明川故大混雑ニテ、宇和島侯、分部侯、二條御番等群集、川端ニテ休  
  ム也、然ニ伊達ノ同勢早ク渡ル、川役ノ者料ヲ増シテ渡ル也、駕籠夫荷夫四人共逃テ不居合、家来不案内故ナリ、依テ島田迄三人三百文ニテ自力雇イニスル 」



というわけで、大井川川辺は土佐二十四万石 山之内侯、宇和島十万石 伊達宗城侯、大溝二万石 分部侯、京都二条城御番役の幕臣などが休んでいました。大名たちの家来だけでも千人を優に超えたと思われます。中に、後の四賢侯の一人伊達宗城の一行は手配良く、人夫を高額で雇って大井川を越えます。
一方土佐藩の小原與一郎には来るはずの四人の人夫が来なくて、自費三百文を払って三人の人夫を雇って漸く川を超しました。
大名といえども、油断のならない川越人夫のしたたかさが面白いですね。

「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」やはり「地獄の沙汰も金次第」といったところでしょうか。

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 文久三年七月九日、十日の大風雨 | トップ | 吉原放火 遊女の意図 嘉永... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

Weblog」カテゴリの最新記事