最近思ったことです。
身体に力が入らず、体力的に元気が出ないのは何でだろう、と考え続けていました。
今朝 電車の中で外の景色が流れるように移り変わっていく窓を眺めてて感じました。
それは身体が疲れているというよりも気持ちが元気ではないのです。
例えば 疲れ果てて気絶するほど眠りこける子供たちは 身体の疲れよりも遊びたいという気持ちがあるから 肉体の疲れがピークに到達するまで遊び倒すことができるんですね。
ならば私も同様に毎日を過ごすことができないのかな、と。
日常は嫌な事ばかりです。
でも、子供たちもけっこう泣いてばかりいるよなって思えることもあります。
嫌な事があると泣くことが出来る。
きっとその辺なのでしょう。
嫌な事は泣けばいいのでしょうね。
イヤだ~~!!って。
それをしない大人が心を病むんでしょう。
泣くって言う動作というよりそういう感情を抑えるんでしょう。
嫌な事は嫌。
当たり前が変化して、抑制されてることが生きる事だと今までの日本の道徳は教えてる様な気がします。
嫌な事でもそこを通過しないと得られない事も多々有ります。
それは無邪気な子供たちの世界も大人の世界も同じでしょう。
子供は無邪気であって それはけっこう乱暴で凶暴で残酷です。
忖度があまりない。
でも明快な答えが返ってくるんです。
今まで私は「大人になれっ」てよく言われました。
大人の気持ちになれってことです。
それはまさしく、抑制された環境に潰されそうになりながら黙ってシコシコ耐えろって事。
それじゃあ奴隷だよ、って言いたいです。
若い頃はそんな大人たちの言葉を真に受けて、早く大人にならなければ、と、「今の君は奴隷だよ」って言われ、あだ名が「奴隷」だったことがありました。
今もきっとその頃の性質が抜けてないです。
で、周りを見渡すとそういう人たちがけっこう居ます。
日本人は周りがみんなそうだと、それで良いんだって納得する民族って聴きました。
同感に思います。
私はできれば1人でも自分の好きな道を歩きたい、と。
20歳頃まではそう思っていました。
25歳頃でしょうか、それでは周りから虐めを受けるって思い知らされて、それからは敗戦後の日本国民族と同じです。
白旗を揚げてしまい、誰かから何を言われても「おっしゃるとおり!」が口癖になってました。
情けないという気持ちも消えてしまい、コレが現実だ、これが生きる事だ、って思い込もうと、そういう生活に入りました。
俗な言い方をすれば これこそ洗脳なのではないか、と感じています。
人に生活は個々様々で良い様に思います。
教育現場などは将にその核を付いて感じます。
大学教育を若者全員に与えられる制度って事が正しいと思ってる。
養老孟司さんが言ってた様に雑学の暗記競争など、生きる事に於いてはほぼ無意味な事でしょう。
むしろどう生きるか、どこで何をしたいのか等のほうがもっと生きることには重要でしょう。
どの職業が向いてるか等も参考にはなりますが、向いてなくても好きであればそこそこの仕事は出来る。
むしろ性格的に且つ能力的に向いてても、好きでなければそういう仕事も地獄と化しますよね。
等など、一生を生きる上で
「その時そのときに何をするか」
「何をして生きるか」
そして
「どうしたいか」に辿り着くんでしょうね。
残念ながら私は既に
「どうしたいの?」と聞かれて
「まぁ。どうでもいいんだけど、、、」と言い返してしまう人の1人です。
自分を無くして、心を亡くして過ごしていくのが癖になってます。
現代人の病気。それは特に日本人に蔓延してるは自己決定不可脳病です。
自分がどうしたいかを決められない病気。また何が正しいかを自分で判断することが出来ない病。
テレビの中で「こんなことをしている」と非難されてることは自分も非難するべきだと洗脳される病気もあります。
とりわけ日本人は他人の痛みがわかる民族なので孔子が言ったように「70歳を過ぎたらだいたい間違ったことはしなくなるものだ」という事が若くしてもかなりできる民族。
例外も居ますが例外ばかりを意識してもしょうがない。
なので、結構いい加減な事をやってる奴の方がむしろほんわかしてて、好まれるのではないかな、と感じてます。
話が紆余曲折してても良いじゃないか。
結論は何?
嫌な仕事や生活は その中でいかに遊べるか、を考えながら時間を過ごそうということです。
おとなしく清く正しく美しく、という事を唱えながら、今日はこっそり、何をしでかしてやろうか、、ってたくらんで生きるくらいが面白い。
何故 YouTuberが流行るかって言うのもその辺にあるんじゃあないでしょうか。
お金が絡むと他人お迷惑の気が回らなくなるっていうのも日常と切り離すからそうなるのでしょう。
ネット社会は気をつけないと、、、とも思います。