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原爆小頭症:胎内被爆の女性、6日に初証言

2014-08-04 21:15:57 | 日記

毎日新聞より転載

原爆小頭症:胎内被爆の女性、6日に初証言

毎日新聞 2014年08月04日 12時47分(最終更新 08月04日 14時31分)

吉本トミエさんが描いたスケッチ=大西岳彦撮影
吉本トミエさんが描いたスケッチ=大西岳彦撮影
 

 69年前、広島で母親の胎内にいて被爆した原爆小頭症患者の吉本トミエさん(68)=広島市=が原爆の日の6日、同市内で地元や京都の大学生たちに初めて自身の体験を語る。「私のような苦しみが二度と生まれないように。伝えたくても伝えられない人もいる。私が伝えないと」。母が生前、たった一度だけ語ってくれた体験を基に被爆とその後の歩みを絵と文章でつづり、準備を進めている。【加藤小夜】

 トミエさんの母は1945年8月6日、爆心地から約1.2キロの自宅で被爆。翌年2月に生まれたトミエさんは先天性の股関節脱臼を患い、足を引きずっていたため幼い頃からいじめられた。中学2年の時、被爆した上に障害のある子を産んだと親戚から疎まれた母は「おまえなんかいらん」と心ない言葉を浴びせ、家を出た。原爆小頭症との診断を受けた20歳の頃、短期間一緒に暮らしたが折り合いが悪く、今度は約1年で自分が広島を飛び出した。

 その後、母娘の交流は途絶えがちだったが、その母も病に倒れ、2000年に亡くなった。広島の病院で付き添った時、母は初めて自らの被爆体験を語り、無数のガラスが突き刺さった胸の傷を見せてくれた。「トミちゃん、すまないね」。この言葉に、母も苦しんでいたことをようやく知った。

吉本トミエさん=大西岳彦撮影
吉本トミエさん=大西岳彦撮影

 トミエさんは12年6月の夫の死をきっかけに、患者や親たちでつくる「きのこ会」の支援を受けて昨春、大阪から広島に引っ越した。42回の手術を繰り返した足は回復せず、外出は車椅子。度々激痛に襲われ、夜もろくに眠れない。そんな時には発達障害を抱える長女(32)が足をさすってくれる。

 今春、親交のある大学教授から「体験を絵本にしないか」と勧められ、絵を描き始めた。主人公を猫に置き換え、母から聞いた被爆体験、結婚、繰り返した流産と2度の出産、離婚、再婚をつづって絵に添えた。ガラスが刺さって涙する猫、そのおなかにいる自分も。長女の将来を案じ、「戦争のない国、げんばくのない国、このようなくるしみやかなしみのない平和な国にしてほしいです」と結ぶ。

 6日は学生を相手に、体験や思いを伝えるつもりだ。

 【ことば】原爆小頭症患者


平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超

2014-08-04 11:24:50 | 日記

毎日新聞より転載

平和のとなりで:/1(その1) 1960年代、日本人が米軍に雇われ ベトナム戦地へ1000人超

毎日新聞 2014年08月04日 東京朝刊

狩俣光永さんら日本人24人が乗り組んだ米軍タグボート=狩俣さん提供
狩俣光永さんら日本人24人が乗り組んだ米軍タグボート=狩俣さん提供
 

 ベトナム戦争が苛烈を極めた1969年2月、日本の民間人24人の乗り組む米軍の船が、本土返還前の沖縄からベトナムへ向かった。その船で2等航海士だった男性が取材に応じ、いきさつを初めて詳しく証言した。ベトナム戦争では、ほかにも日本人が多数米軍の艦船や軍の下請けの民間船で戦地へ派遣され、死傷者も出た。しかし、詳しい記録はなく、全容は歴史の闇に沈んでおり、実態に迫るのは難しい。【平和取材班】

 証言したのは沖縄県に住む狩俣光永(かりまたこうえい)さん(80)。米軍タグボート(505トン、今の中型巡視船規模)の2等航海士として約3カ月間、戦闘などで動けなくなった艦船をベトナムからフィリピンやシンガポールのドックまで引く仕事をした。

 米軍との事前の約束で、危険な場所での作業はなかった。それでも、南部カムラン湾の港町で、機銃掃射する米軍用ヘリを目の当たりにした。どこに潜むか分からないベトコンへの威嚇では、と推測した。「怖いとは思わなかった。家族のために稼ぎ、必ず生きて帰る。そう思って、船乗りの仕事に打ち込んだ」

 沖縄の水産高校を出て、57年ごろ米軍基地に就職した。軍船での皿洗いから出発し、2等航海士などの資格を次々取得。那覇から近くの伊江島などへ物資を運ぶ船の船長を務めるなど、米軍に評価され、ベトナムでの仕事を任された。

    ◇

 他の船員は他界していたり、福祉施設に入っていたりで取材が難しいという。狩俣さんは何気なく言った。「本土からも、たくさんベトナムに行ってるぞ」

 当時の事情を知る関係者を訪ね、資料を集めるうちに、戦地派遣が想像以上の規模だったことが分かってきた。佐世保(長崎)や横須賀(神奈川)の米軍基地からも日本人が米軍船に乗り組み、総数は1000人を超すとみられる。米軍はベトナム戦争に全面介入した64年夏以降、日本人を本格的に雇い始めたようだ。高給を保証し、危険手当を含め通常の倍額を払ったとの記録もある。

 危険と隣り合わせだった実態も分かってきた。68年9月、軍の下請けの米民間輸送船がメコン川で攻撃され、中国人船員が死亡し、沖縄の船員が負傷した。

 死亡した日本人もいた。「日本人船員、射殺さる/南ベトナム/米舟艇の乗組員」。当時の毎日新聞の見出しだ。中部の港町で64年11月、南ベトナム政府の治安部隊に撃たれたという。記事は、犠牲者を「サイトウ・ケンゾウ(年齢、出身地不明)」と報じた。

    ◇

 こうした事件でベトナム行きへの風当たりが強まる中、狩俣さんは69年の年明け、米軍から打診された。「琉球船員の起用」と題する文書が届いた。迷いはなかった。

 基地労働者の組合は猛反対した。基地内で「戦争に加担するのか」となじられた。船員のまとめ役と目され、一緒に乗り組む仲間の妻が自宅に訪ねてきた。「本当に大丈夫ですか」。不安げに問う相手に言った。「僕にも家族がいる。死にに行くんじゃない。行くかどうかは自由だ」

 乗船予定者たちは、米軍の求めを断れば解雇されると不安を訴え、組合は「そんなことはさせない」と説得を試みた。狩俣さんは組合幹部にこう告げた。「私は自分の意思で行く。他の船員を誘ったりはしない」。打診を断り、船に乗らなかった仲間も数人いた。

    ◇

 平和を誓い、繁栄を目指す戦後社会の片隅で、戦地へ渡り、命を落としたサイトウ・ケンゾウさんを探した。

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 ■ことば

 ◇ベトナム戦争

 米ソ冷戦時代の南北に分断されたベトナムで1960年、米国の支援する南ベトナムに対し、北ベトナムの支援する南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=米国側の呼称)が武装闘争を本格化させたのが発端。南シナ海トンキン湾で64年、北ベトナムが米艦を攻撃したとされる事件を口実に、米国は北爆と地上戦を展開。北ベトナムと解放戦線は68年1月、南ベトナム全土での大攻勢(テト攻勢)で米軍に大打撃を与えた。73年に米軍が撤退。南ベトナムは75年に降伏した。


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