サムライ左近法務事務所の事件帳

本業の法律事件の他、考古学、歴史学、戦国山城等を、その実証から紹介します。

上杉鷹山の人間愛

2011-04-29 17:14:22 | Weblog


米沢城に入城するには、関根の羽黒堂から
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城まで一里の道を
藩主は馬に乗ることになっていた。
ところが上杉鷹山は三里手前の大沢から
馬に乗ると言い出した。
家臣団は前例がないこと故、止めようとしたが
上杉鷹山は笑いながら
「例にないことをやるのが私の改革の
はじめではなかったのか。ここから馬に乗ろう」
と寒風の吹き荒ぶ街道を馬に乗って歩き始めた。

従来であれば大沢宿からの行列は
今まで着ていた衣を脱ぎ捨てて、絹の着物に
着替え、華やかに入城するのが常であったが
鷹山はそれもしなかった。

江戸からの雨露で汚れたままの旅装で
そのまま城に入ったと言われている。

待ち構えた重臣は、その様を見て
「まるで乞食の群れだ」と思った。

上杉鷹山は九州の小藩「秋月」の出である。
縁あって上杉家の養子に入り、家付き娘と結婚
すべく十七歳の時に藩主の座に就いた。
この家付き娘は幸姫といい、脳障害、発育障害が
あったといわれている。

≪幸姫は1769年(明和6年)に治憲(後の鷹山)と
婚礼を上げ、1782年(天明2年)に30歳で死去すると
いう短い生涯であった。
しかしながら治憲は邪険にすることなく、女中たちに
同情されながらも晩年まで雛遊びや玩具遊びの
相手をし、ある意味2人は仲睦まじく暮らした。
重定は娘の遺品を手にして初めてその状態を知り、
不憫な娘への治憲の心遣いに涙したという。≫
ーWikipediaより引用ー

そうした背景もあり、鷹山は改革の目的の一つに
藩内に身体障害者に対する虐待禁止を取り入れた。
また「間引き」の禁止と保育手当の支給も
敢行している。
「間引き」と言われる風習は当時、どの藩にも
見られたが、鷹山は積極的にこの「間引き」を
禁止した。

(当時の米沢における人口は九万人を切っていた。
本来ならば十五万人いてもおかしくなかったが
自然減ではなく、人工減によるものと解されている)

「生命というものは、たとえ貧しい家に生まれ或いは
身体の一部を損なってこの世に出てこようとも
等しく尊いものである。人の命を粗略に扱っては
ならない。ましてや貧しい家に生まれたからといって
生まれたばかりの赤ん坊を殺すとは何事であるか。
天の道に背くものである。今後そうした行為を
おこなった者は厳罰に処する。
また、それは個人の責任だけでなく、五人組、十人組
の責任である。藩の責任である」
と表明している。

総じて
・自助(自ら助ける)
・互助(互いに近隣社会が助け合う)
・扶助(藩が手を伸ばす)

の三位一体論を説いている。

「鷹山が甦らせたのは
米沢の死んだ山と河と土だけではなかった。
鷹山は何よりも人間の心に愛という心を甦らせた。
現代の世でもっとも欠けているのは
この愛と労わりと思いやりの心であろう。」
と危機を乗り切るリーダーの条件のなかで
童門冬二は記している。
(上杉鷹山の経営学)



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