六 実践 ・ 心は思考するものではない
世尊の仰せ「・・・・・・(省略)
善勇猛よ、心が生起するとは、これは転倒にほかならない。善勇猛よ、心といい、心から生じたものといい、これは実は思惟を否定しているのである。
善勇猛よ、実に心の本質というものは、起ることもなく、生じることもない。善勇猛よ、心は転倒を伴なってのみ起る。そのばあい、心もあらわれるが、(心を)生起させる転倒もまたあらわれる。
しかも善勇猛よ、愚かな凡夫たちは、心もあらわれるが、同時に(心が)起る基盤(である転倒)もあらわれ、あるいは (心を)起こさせるもの(としての転倒)があらわれるということを知らない。
彼らは、心(主観)が(存在を)超脱していることを知らず、対象が(存在を)超脱していることを知らず、ー "心はわれである、心はわれに属する、心はこれこれに属する、心はこれこれから生じる" と妄執する。彼らは心があると妄執したうえで、善があるといって妄執し、あるいは不善があるといって妄執する。 (以下、いろいろと妄執する事例が多数、挙げられている 。 P233-234) (「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p232)
私の解釈
この引用文は表題に示す通り[知恵の完成の実践」についての教説文です。この前の文章で世尊は、五蘊や縁起や涅槃や仏の教えなど、たくさんの例を挙げて、それらが思考されえないものであるから、知恵の完成の実践は思考されえないものである、というふうに説いています(本書 p230-p232)。
ここで取り上げた教説文によりますと、心が生起するということは、転倒であるということであり、また、心は思惟を否定している、とのことす。先ず、このことについて考えて見たいと思います。
私たちの心には、表層の心と深層の心があると思います。
表層の心とは、日常生活の中で体験する喜怒哀楽などを感ずる心であり、
深層の心とは、私たちが成長するとともに形成される人格としての心であると考えることができます。この深層の心が、仏教で言うところの阿頼耶識であり、心理学でいう深層心理として働く心です。また、心は思惟しないということについては、私たちの深層の心をイメージすれば分かりやすいと思います。
小説家・吉川英治氏は人間の心について次のように歌っています。
「波騒は 世の常なり 波にまかせて 雑魚は歌い 雑魚は踊る けれど 誰が知ろう 水の心を 水の深さを」と。
この歌の前半が表層の心を表わし 、後半が深層の心を表わしていると思います。
更にまた、深層の心については、哲学者・西田幾太郎がつぎのように歌っています。
「わがこころ、深き底あり、よろこびも うれいの波も とどかじと おもう」と。
私たちが日常生活の中で働かせている心は表層の心であり、吉川英治氏のいう波騒のような心である、と思います。
私たちは物事の事象を表層の心で捉えて、喜怒哀楽などの感情を加えながら処理しているのです。また、私たちが対象とする物事の事象とは、私たちの個人的な因縁に依って現出したものです。因縁に依る事象はすべて、物事の全体像を示すものでもなく、真実の姿を現わしているものでもない、と考えることができます。
つまり、私たちが対象とする事象は、すべて物事の一部分だけであるということになります。ですから私たちは表層の心で物事の一部分を対象として生活を営んでいるのです。
このように私たちの対象が物事の全体とか真実を現していないため、仏教ではこれを転倒であるというのです。そして、私たちの心は「転倒を伴なってのみ起こる」というわけです。このような心が、いわゆる私たちの表層の心であり、転倒を伴なうため思惟が生じ、思惟するため苦悩や不安が生まれることになるのです。
知恵の完成を実践する菩薩は「心の不生」を完全に理解していますから、「心は存在を超脱している」といわれ、心は思惟しないものであるというのです。
私たちの深層の心は、仏教で「現行薫種子・種子生現行」と説かれているいうように「不生」ではありませんが、思惟はしていない、と思います。思惟はしませんが、私たちが正しい日常生活を心掛けておれば、その行(現行)が深層の心の中に薫習されることによって、正しい生活を営むことができる。深層の心は、そのような働きをしてると思います。
私たちの深層の心が菩薩の心と同じであるとは言い切れませんが、しかし、重なり合う面がある、と考えることができます。だからこそ、私たちは夢と希望をもって仏典を読み、多くのことを学習したり取得することができるのです。
なお、菩薩は物事の本質が空であることを完全に知っていますから、「対象は存在を超脱している」といわれるのです。現在の私は、この意味をことばで説明することができません。直観によって納得するより他に理解の仕様がないと思っています。