一 序 ・ 生滅・縁起の洞察
世尊の仰せ
「・・・中略・・・ 善勇猛よ、知りつくすというのは、縁起をあますところなく知ることである。
(あらゆる)ものは、何かに依存して生起する(つまり縁起する)が、そのようにまさに何かに 依存するから、(あらゆる)ものは実在ではない。(このように知ること)そのことが、縁起を知りつくすといわれるのである。
善勇猛よ、縁起をあますところなく知ることの真理性ーこれが、生起がないということによって示されるのである。実に、縁起(縁りて生起する)には生起することがない。
生起しないことが平等であるから、それゆえに、縁起といわれる。
(このように、縁起には)生起さえないのに、そこにどうして滅があろうか。 縁起について、”滅は滅ではない”とさとる、このことがすなわち”起らないことが縁起である”ということなのである。
起ることがないとき生起もなく、生起がないとき過去もなく、未来もなく、現在もない。 そのようなものに、滅することはありえない。(「善勇猛般若経」 戸崎宏正訳 中公文庫・大乗仏典 1 p99)
私の解釈
物事について知りつくすということは、縁起をあますところなく知ることであり、縁起の働きが分かれば、あらゆるものは実在ではない、と知ることができるというのです。 先ず、縁起について考えることとします。
たとえば、私たちは条件が揃えば夜空に満月を見ることができます。また、昼間でも、眼を閉じて、想像力を働かせることによって、頭の中に満月を思い描くこともできます。いずれにしても、私たちは満月を眺めて、満月は実在すると思い込んでいます。
しかし、私たちが満月を見ることができるのは、条件が整ったときに限られるのです。本文の教えに従って説明すれば、満月は縁起によって見ることができるものであり、本来は実在しないのである、ということです。当然のことながら、全ての事象や事物についても同様に説明できます。すなわち、すべての事象や事物は、”何かに依存して生起する(つまり縁起する)から、実在ではない”、ということになります。
更にまた、満月が見えないとか見えなくなったからといって、満月が消滅してしまったわけではありません。条件さえ揃えば見ることができるのです。
だから、滅は滅でないというのです。すべては縁起による現象なのです。つまり、あらゆるものは、条件が揃ったときに現れるだけのことであり、何も新たに生じたり、または、滅したりするのではないということです。結局、あらゆるものには、生も滅もないということになります。現象として現れるのも、消えるのも、全て、縁起によるのです。
また、起ることがないとき生起もなく、生起がないとき過去もなく、未来もなく、現在もありません。そのようなものに、滅することは有り得ません。だから、”起らないことが縁起である”というのです。
以上のようにして、物事の生滅について知りつくすことは、縁起を知るということになる、と私は解釈してます。
私が本文から学んだこと
全ての事象や事物は縁起によって生起したものであり、実在するものではない。
この真実を実社会のなかで自覚したり、実行することは非常に困難なことでことである。 しかし、この真実は常に、念頭に置く必要がある。
特に、私たちの心を曇らせる不安や苦しみは、本来、実在しないことなのであるということを、私たちは、はっきりと自覚し、そのようなことにとらわれないようにすることが、何よりも大切である、ということです。