第十九章 「ガンガデーヴィー天女」・弥勒の教え
「マイトレーヤ長老よ、あなたがことばで語っているそのような仕方で、あなたは、それらのものをまのあたりに見ておられるのですか」
マイトレーヤは答えた。
「シャーリプトラ長老よ、私がことばで語っているそのような仕方で、それらのものを私がまのあたりに見ているわけではないのです。
シャーリプトラ長老よ、私がことばで語り、心で考えるそのような仕方でも、私はそれらのものを知らず、認識せず、見出しはしないのです。
かえって、シャーリプトラ長老よ、身体で触れえず、ことばで語りえず、心で考えられない、そういう本性をすべてのものはもっているのです。
それらには本体がないという理由で」
(「八千頌般若経Ⅱ」 梶山雄一訳 中公文庫・大乗仏典 3 p156-157)
私の解釈
私たちは、ものごとについて言葉を介して考え、認識し、語り合います。
また、言葉はものごとを理解し、認知し、把握するための手段として使われています。
しかし、仏典によりますと、「ことばで語り、心で考えるそのような仕方」によっては、ものごとの真実を見出すことはできない、というのです。
その意味について、私は次のように解釈しています。
ものごとは、それを対象とする人々の立場、場所、時期によって、その様相やゆ受けとめ方が異なります。ですから、特定の場合を捉えて、これが真実の姿であると断言することはできないと思います。
私たちは絶対的な真実などというものを、言葉で表現することができないのです。また、全てのものごとは、その時の原因と条件(因縁)によって起るものであり、絶対不変のものごとというものは存在しないのです。
仏教では、この辺の事情を取り上げて、すべてのものごとには本体が無く「空」であるとか「無相」である、というのです。
また西谷啓治博士は次のように述べています。
「すべてのものは本体が無いから空である。それはそれが絶対的に清浄であるということだ。
・・・・・・・
空とは事実の実相そのものである。 実相がそのまま無相なのであり、 無相なるものとしてのみ、 事実は真に事実として現成する」 と。
これは、まさに「無相」についての至言であり、
思想分野における一つの「公理」であると思います。
私たちは思索活動全般にわたって、これを応用することができます。
一つの例として、旅行について考えた場合。
旅行は人々に様々な思い出を残すものです。私たちは旅行することによって楽しいことや苦しいこと等、いろいろな体験をします。
不幸にして苦しい体験を味わった人は、この公理(ひと言でいえば「すべてのものごとは無相である」ということ)を応用すれは苦しみを完全に消してしまうことができるのです。
しかも、その後で冷静になって、積極的なプラス思考をすることが可能になるのです。
当然のことながら楽しい旅の思い出も時間が経てば、この「公理」により消えてなくなるのです。
勿論、これだけの考え方で「旅行」後の心の整理が完結したとは言い切れません。
しかし、問題の処理手法として、この「公理」を活用することは効果的である、と私は考えています。