旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

謝るけれども反省しない日本人(その2)

2006-03-09 03:41:17 | 日々雑感
 小泉首相の靖国神社参拝をめぐり、中国や韓国との関係がかなりギクシャクしている。両国政府は、A級戦犯が合祀されている靖国神社に日本政府の代表が参拝することは、両国を侵略したという歴史認識からあえて逸脱しようとするものとして批判を強めている。これに対し、小泉首相は、参拝は戦没者に対する哀悼、将来にわたるわが国の戦争放棄という基本姿勢、そして世界の恒久平和への誓いを示すものであり、また個人の心の問題に外国政府が干渉してよいのか。日本国憲法第19条でも「思想・良心の自由が保障されている」として、批判すべきものに当たらないと反論している。

 わたしは、ここでそうしたわが国の政治家の認識や中・韓両国政府の批判の是非を問うつもりはない。ただ、戦後60年以上も経過する中で、なぜ今もなおこの問題を引きずっているのかといった素朴な疑問を払拭できないことを述べたいのである。

 かつて山本七平氏は、その著『日本はなぜ敗れるのか』「第八章 反省」の中で次のように記している。
 “戦後三十年ということで、この八月十五日前後は、あらゆる新聞・週刊誌・単行本の「戦争反省もの」の花ざかりであった。そして黙祷もあれば、首相の個人の資格による靖国神社参拝と、それへの批判もあった。まさに「一億総反省」的状態である。・・・(中略)。
結局われわれは未だに「官軍・賊軍」という概念規定から抜け出せず、それが「官軍→皇軍→解放軍」という「言いかえ」で存続し、それによって戦争への、また官軍への全日本人的心理参加を強要される状態にあり、おかしなことに、その存続を堅持することを「反省」と呼んでいるのである。それは、戦後の経済面における、前提無視の「芸による無敵」という見方を堅持することを、「反省」と言っているのに対応する状態であろう。”
 続けて、この八章の末で、“一体反省とは何なのか。反省しておりますとは、何やら儀式をすることではあるまい。それは、過去の事実をそのままに現在の人間に見せることであり、それで十分のはずである”と。

 ところで、かつてドイツの大統領であったリヒャルト・フォン・ヴァイツゼッカー氏は、1985年のドイツ連邦共和国連邦議会で行った演説(日本では『荒れ野の40年』として知られる)の中で、1945年5月8日を国家社会主義(ナチズム)の暴力支配という人間蔑視の体制から解放された日と位置づけつつ、次のように述べている。
 “われわれにとっての5月8日とは、何よりもまず人びとが嘗めた辛酸を心に刻む日であり、同時にわれわれの歴史の歩みに思いをこらす日でもあります。”
 “心に刻むというのは、ある出来事が自らの内面の一部となるよう、これを信誠かつ純粋に思い浮かべることであります。そのためには、われわれが真実を求めることが大いに必要とされます。
 われわれは今日、戦いと暴力支配とのなかで斃れたすべての人びとを哀しみのうちに思い浮かべております。
 ことにドイツの強制収容所で命を奪われた600万人のユダヤ人を思い浮かべます。
 戦いに苦しんだすべての民族、なかんずくソ連・ポーランドの無数の死者を思い浮かべます。
 ドイツ人としては、兵士として斃れた同胞、そして故郷の空襲で、捕われの最中に、あるいは故郷を追われる途中で命を失った同胞を哀しみのうちに思い浮かべます。・・・”(以下、略)

 “ユダヤ民族は今も心に刻み、これからも常に心に刻みつづけるでありましょう。われわれは人間として心からの和解を求めております。
 まさしくこのためにこそ、心に刻むことなしに和解はありえない、という一事を理解せねばならぬのです。何百万人もの死を心に刻むことは世界のユダヤ人一人一人の内面の一部なのでありますが、これはあのような恐怖を人びとが忘れることはできない、というだけの理由からではありません。心の刻むというのはユダヤの信仰の本質だからでもあるのです。
   忘れることを欲するならば追放は長びく
   救いの秘密は心に刻むことにこそ

 “かつて敵側だった人びとが和睦しようという気になるには、どれほど自分に打ち克たねばならなかったか-このことを忘れて5月8日を思い浮かべることはわれわれには許されません。”

 ヴァイツゼッカー大統領は、演説を通じて、戦争責任はナチズムにあり、それを煽動したヒトラーにある、と裁断している。言い換えれば、戦犯とそれ以外を明確に分けているのである。一方、国民は被害者であるが、悲惨な歴史に関わったものとして、一人ひとりが将来にわたりその歴史を引き受けなければならないと語っているのである。しかも真っ先に、筆舌に尽くしがたい苦しみを与えてしまった国々の無数の国民に思いを馳せながらである。

 一方、わが国おいて、靖国参拝問題が論じられるとき、どこまでこうした基本姿勢が語られるだろうか。戦後アメリカを中心とする欧米諸国との貿易に支えられ、見事復興を果たした日本。そうした一人繁栄する日本を(この間中国や韓国といったアジアの国々との協調経済発展に努めていたとしても)、見続けてこなければならなかったアジア大陸の人びと。それぞれの国の政治や経済体制の違いはあるにせよ、戦争によって受けた苦しみを引きずり、復興への長い苦節の日々を重ねる思いは、いかばかりであったろうか。

 確かに、ドイツと日本とでは歴史的、地勢的背景などが異なり、戦争突入への事情も違うだろう。しかし、侵略という事実、そして相手国の多数の国民に与えた悲惨、翻って自分の国について言えば、個々人の意思を問わず戦さに駆り立てられ戦死していった同胞や新世界を夢見て渡った多くの一般国民の辛酸を、思い浮かべ、心に刻む必要があることに別はないと思う。

 古来わが国が、政治、経済、宗教、芸術などのあらゆる面でその英知を吸収してきた中国や韓国、そして今後一層緊密な関係を築いていかなければならない両国との間で、戦後60年も過ぎてなお、和解に向けた取組が時の政治家の言動によって中断されていくのは、積み上げた都度に鬼が来て崩してしまうという「賽(さい)の河原の石積み」に似て、あまりに空しく悲しい限りである。

 反省とは、「自己の意識ないし主観性を対象化し、主題として意識すること。反省は意識を変容させる」という。「謝るけれども反省しない日本人」といつまでも揶揄(やゆ)されるようには、決してなりたくないものである。


 (注)
・『日本はなぜ敗れるのか-敗因21カ条』:角川oneテーマ21(角川書店)
・『荒れ野の40年 ヴァイツゼッカー大統領演説全文』:岩波ブックレットNo55

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