旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

鬼ーそこはかとなく書きつくれば

2020-02-15 16:19:05 | 日々雑感

節分からだいぶ日が過ぎた。しかし、豆までまかれて外に追い出された“鬼”のことが気にかかって仕方がない。

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なので、つらつらわが手持ちの国語大辞典(小学館発行)を開いてみたら、次のように掲載されていた(ただし、一部省略個所あり)。

【節分】
<季節の分かれ目の意>① 季節の変わり目。四季それぞれの季節の分かれる日。立春・立夏・立秋・立冬の前日をさす。
② 特に立春の前日。四季のうち、冬から春になる時で、古くは1年の境と考えられた。この夜、柊(ひいらぎ)の枝に鰯(いわし)の頭を刺したものを戸口にはさみ、節分豆と称して、煎った大豆をまいて、厄払いの行事を行なう。

【鬼】
① (「隠(おん)」が変化したもので、隠れて人の目に見えないものの意という)死者の霊魂。精霊。
② 人にたたりをすると信じられていた無形の幽魂など。もののけ。幽鬼。
③ 想像上の怪物。仏教の邏卒(らそつ)と混同され、餓鬼、地獄の青鬼、赤鬼などになり、また、美男・美女となって人間世界に現れたりする。また、陰陽道の影響で、人間の姿をとり、口は耳まで裂け、鋭い牙をもち、頭に牛の角があり、裸に虎の皮の褌をしめ、怪力をもち、性質が荒々しいものとされた。夜叉(やしゃ)。羅刹(らせつ)。
④ 民間の伝承では、巨人信仰と結びついたり、先住民の一部や社会の落伍者およびその子孫としての山男として考えられたりして、見なれない異人をさす場合がある。また、山の精霊や耕作を害し、疫病をもたらし人間を苦しめる悪霊もいう。
⑤ 修験道者などが奥地の山間部に土着した無名の者、または山窩(さんか)の類。
⑥ (比喩的に用いて)鬼のような性質をもっている人。また、鬼の姿と類似点のある人。
⑦ (男色の相手の若衆をいう「おにやけ」の略)男娼、陰間(かげま)の異称。
⑧ 貴人の飲食物の毒見役。おになめ。
⑨ 鬼ごっこやかくれんぼなどで、人をつかまえたり、見つけたりする役。
⑩ 紋所の名。かたおに、めんおになど。
⑪ カルタのばくちの一種「きんご」に用いる特殊な札。

さらには、「鬼の霍乱」「鬼に金棒」など鬼の文字が入った数多くの表現がこの後に続く。
さすが大辞典というだけのことはある。これはもうかなりのボリュームと言ってよい。

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そもそも、節分の夜、豆をまいて鬼を追い払う「追儺(ついな)」の行事は、中国から伝来したもので、疫病その他の災難を追放しようとするもの。
これは「鬼やらい」とも称され、鬼を払うと同時にわたしたちの暮らしが鬼とともにあるということを再認識する機会ともされている。

このことは、鬼に金棒、鬼の霍乱(かくらん)、鬼の目に涙、鬼の居ぬ間、鬼の空念仏、鬼の形相、鬼ごっこ、神出鬼没、鬼神、鬼籍など思いつくだけでもかなりある。

加えて、仕事の鬼、鬼監督、さらには花嫁の頭の角隠しがとれて鬼嫁になり、その成熟系の鬼婆などもすぐに浮かんでくる。

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翻って、陰陽道では「丑寅(うしとら)」(東北)の方角は鬼門とされていることにちなみ、鬼は頭に牛の角をもち、虎の皮の褌(パンツ)を履いているといった俗説まで出てくるようだ。

ここで、先述の【鬼】④から想起されるものがある。
それは、朝廷といった中央権力機構から“まつろわぬ民”とされた東北の“蝦夷(えみし)”のこと。

平安初期、蝦夷征服に乗り出した坂上田村麻呂と死闘を繰り広げた英雄 阿弖流為(あてるい)は、しばしば「悪鬼」のごとく描かれる。

朝廷の位置するところからすれば、東北地方は丑寅の方角にあたり、鬼門意識がぬぐえないからなのだろう。

源頼義・義家父子軍と安倍頼良・貞任等の軍の前九年・後三年の役、源頼朝による奥州征討、果ては「明治維新」と称される薩長を中心とするいわば一種のクーデターによる新政府軍と奥羽越列藩同盟軍が戦った戊辰(ぼしん)戦争などは、やはり同様の思考パターンによるのではないかとさえ、わたしには思えてくる。
(歴史的に見て、東北地方の民が、征服・征討を目的に西方(中央)に向けて白河以南に兵を進めたことは無いはず。「鬼は、むしろ西方にあり」と声高に言いたくもなる。)

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話はまたまた飛ぶ。

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馬場あき子氏の『鬼の研究』(1971年)という素晴らしい著作物がある。
そこでは、「鬼とは何か」「鬼の系譜」「王朝の暗黒部に生きた鬼」などが詳細に記されている。読み進めていくうちに、まさに著者に鬼神が乗り移ったのではないかと思えてきた。一読おススメの本。

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人は六道輪廻を繰り返すとは仏教の教えるところ。
地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間(じんかん)、天というのがそれ。
※天に行ったからといってそれで「ハイ、上り」とはならないらしい。まだまだ先がある。声聞(しょうもん)、縁覚(えんがく)、菩薩、仏(ぶつ)と続く。先の6つと後の4つを合わせて十界という。

これは生まれ変わりを指すだけのことではなく、心の在り方をも言うのだそうだ。
されば今ここでグダグダこうしているこの吾も、この六道巡りの真っただ中。

仏教では、煩悩我欲からくる、我欲を捨てよと諭す。しかし、それがいかに難しいことか。
当然ことながら煩悩の塊のこの吾は、理屈をこねるだけで我欲から離れるいささかの努力などしようとしていない。ハナ肇とクレジーキャッツの「わかっちゃいるけどやめられない」(スーダラ節)が頭の中でリフレインする。

あげくは、いつも心では「そねむ」「ねたむ」「やっかむ」「うらやむ」「恨む」「憎しむ」の六無が幅をきかせたままである。

“鬼は他でもなく己が心の内にいる”
“鬼、すなわちそれ自分”

そういう思いが湧いて来た。
豆まきで追い出されたはずの鬼は、あたかも追い出した人間の影のようなもので、追い出した人間とはけっして切り離すことのできないものだったと考えられる・・・?

     *

久しぶりに哀切を帯びた美しい話の本『泣いた赤鬼』(浜田廣介)でも読んでみようかな。

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※タイトルの「そこはかとなく書きつくれば」は、徒然草(吉田兼好)からの拝借です。

 <徒然草>
    序段 
  つれづれなるまゝに、日くらし、硯にむかひて、心に移りゆくよしなし事を、
 そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。







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