goo blog サービス終了のお知らせ 

南国の遊び部屋

鹿児島の祭りや観光地についてゆるーく報告してますが、最近オタッキーな記事が大半だったりします。
遊び部屋ですから(笑)

戦国無双3・上杉謙信&北条氏康(関東出兵)

2010-05-27 | 歴史(戦国・維新・島津など)
戦国無双3のテーマの一つ、関東三国志にからむ上杉謙信の章・第一話と北条氏康の章・第三話は「関東出兵」です。



長尾景虎(のちの上杉謙信)は、1544年15歳にして当時の越後守護代・実兄・長尾晴景の要請により、栃尾城に攻め寄せてきた越後国人衆を破り(栃尾城(とちおじょう)の戦い)初陣を飾り、1545年には黒滝城主の黒田秀忠の謀反を鎮圧(黒滝城の戦い)、1548年春日山城に入り19歳で家督を相続しました。
1550年に一族の坂戸城主・長尾政景(上田長尾家)が景虎の家督相続に不満を持って反乱を起こしますが、1551年坂戸城の戦いで鎮圧。
降伏した政景は景虎の姉・仙桃院(戦国無双では「綾御前」)の夫であったこと等から助命され、次男・景勝は後に謙信の養子になります。
これで越後国の内乱は一応収まり、景虎は22歳の若さで越後統一を成し遂げました。


上杉謙信オープニング・ムービーより


1561、北条氏政により栃木城(唐沢山城)が攻囲された際、8千の兵を率い救援に向かった謙信は、自らが物見をし城主佐野昌綱の危急を感知しました。

謙信は「ここまで来て昌綱を死なせてしまっては後詰としての名折れだ、ここは運を天にまかせ、自分が敵の陣を駆け抜けて城に入り力を貸そう」と言い…

甲冑を着けずに黒い木綿の道服と白綾の鉢巻のみを身に付け、愛用の十文字槍を持ち、またいずれも白布の鉢巻をさせた馬廻や近習などと、主従合わせ数十騎ばかりで北条勢3万5千の敵中に突入しました。

敵方はただあぜんとして見つめ、襲えば何か奇計を用いて報いられると思い誰も攻めかからなかったため、作戦のままに謙信は入城したということです。『関八州古戦録』。

謙信「天に代わり、邪を討ち祓わん」

北条方の兵は「これぞ毘沙門の化身なるべし」と恐れ、氏政は兵を退きました。


氏康「上杉…謙信か」
氏康は謙信より15歳年上です。


1554年に甲相駿三国同盟が結ばれ、氏康は関東の支配を広げていきます。
北条軍の侵攻に自力で対抗できない豪族達は、上杉謙信に助けを求めます。


後世、越後の虎とも越後の龍とも呼ばれた謙信は、他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、多大な戦果をあげました。
1522年には、武田晴信(後の武田信玄)の信濃侵攻によって、領国を追われた信濃守護・小笠原長時が景虎に救いを求め、1553年には、信濃国埴科郡葛尾城主の村上義清が晴信との抗争に敗れて葛尾城を脱出し、景虎に援軍を要請、謙信は援軍を出したり、自ら出兵したりしています。
23歳にして武田信玄との第一次川中島の戦いとなりました。(1553年)



1552年1月、関東管領・上杉憲政は相模国の北条氏康に領国の上野国を攻められ、居城の平井城を棄て、景虎を頼り越後国へ逃亡してきました。
景虎は憲政を迎え、氏康と敵対関係となりました。
同年8月、景虎は平子孫三郎、本庄繁長等を関東に派兵し、上野沼田城を攻める北条軍を撃退、さらに平井城・平井金山城の奪還に成功し、北条軍を率いる北条幻庵長綱は上野国から撤退、武蔵松山城へ逃れました。

謙信は第一次(1553年)、第二次(1555年)、第三次(1557年)「川中島の戦い」で武田信玄と合戦を行いました。
1559年、二度目の上洛を果たした景虎は将軍・足利義輝に拝謁し、関東管領就任を正式に許されました。


大義名分を得た景虎は1560年5月、北条氏康を討伐するため越後国から関東へ向けて出陣しました!!



綾御前「氏康は兵や民を手なずけ、なかなかの強敵です」

氏康は税制の改革で領民の負担軽減などに尽力し、直接北条氏(評定衆)に不法を訴える事ができるよう目安箱を設置するなど、民衆の支持を得ており、後年勝海舟によれば、徳川家康が小田原を領した時、住民はいつまでも北条氏を慕って実にやりにくかったということです。


氏康「なんて野郎だ。確実に急所を突いてきやがる…」

上野国に入った景虎は、小川城・名胡桃城・明間城・沼田城・岩下城・白井城・那波城・厩橋城など北条方の諸城を次々に攻略。
上野国群馬郡、現在の群馬県前橋市にあった厩橋城(前橋城)を関東における拠点とし、この城で越年し、関東諸将に対して北条討伐の号令を下し、檄を飛ばして参陣を求めました。

年が明けると上野国から武蔵国へ進撃。深谷城・忍城・羽生城等を支配下に治めつつ、さらに氏康の居城・小田原城を目指し相模国にまで侵攻、2月には鎌倉を落としました。


古河公方の足利義氏らと共に本拠小田原城へ退き、軍略に優れる謙信の戦い振りを目の当たりにした氏康は、野戦での決戦を諦め篭城策を選択しました。


氏康「俺が恋しくて会いに来たかい?だが俺にゃもう…」
・・・今川義元似の奥さんがいるんですよね?氏康さん(笑)

綾御前「駄犬が騒ぎます…舌を引っこ抜かれたいのですか?」
・・・すんまっせーん・・・


風魔一党は相模足柄郡に拠点を持つ忍者集団で、早雲の時代から100年の間北条氏に仕え、諜報・後方攪乱などで活躍していました。


風魔小太郎は北条家(後北条氏)の忍者・風魔一党の頭領の代々の名前で、北条氏政・氏直父子に仕えた五代目・風魔小太郎(? - 〔1603年〕)は、背丈は七尺二寸(216cm)もあったともいわれています。


北条鋼成「風魔ほどの手練れが敗れるとは…軍神恐るべし!」

謙信は合戦にて情報を得ることを重視し、軒猿(担猿)という忍者の集団を擁していました。
余談ですが、「飛び加藤」と言われた加藤段蔵が謙信配下でしたが、あまりに優れた忍者としての技術を警戒され、謙信から去り、信玄の家臣となりましたが、やはり警戒され1969年に馬場信春(または土屋昌次)によって暗殺されたそうです。



1561年3月16日、謙信は鎌倉府の鶴岡八幡宮で関東管領就任式を執り行い、当時の名を長尾景虎から上杉政虎へと改名しました。
この時、他の諸将が腰を屈めて参礼する中、藤原氏の流れをひく名門の出であった成田長泰(ながやす)は騎馬上で参礼するのが常(祖先は源義家にも下馬をせず挨拶をした)となっていて下馬しなかったのですが、その事を知らなかった謙信はこれを無礼に思い扇子で烏帽子を打ち落し、怒った長泰は本拠に兵を退いたといわれています。

長泰は北条氏康に降伏しますが、1563年に謙信に忍城を攻められて降伏、隠居を命じられて嫡男の氏長に家督を譲りました。
1569年に謙信と北条氏との間で同盟が成立すると、成田氏長は北条氏の家臣として仕えました。
成田氏長の娘・甲斐姫は豊臣秀吉の側室となります



信玄「わしも交ぜてくれんかね」

謙信が小田原城を包囲している間、氏康と同盟を結ぶ信玄が信濃・川中島に海津城を完成させ、信濃北部での支配域を広げることで、謙信を牽制しました。


氏康「信玄の野郎、恩を売りにきやがったか?」

武田信玄・北条氏康・今川義元の3者は、1554年に甲相駿三国同盟を結んでいました。
兵力に劣る氏康は、同盟する武田信玄に援軍を求めましたが信玄が直接寄こしたのは僅か300余りの兵だけ。今川氏真へも救援を求めましたが、前年(1560年)に今川義元を織田信長に討ち取られ、混乱の渦中にあった今川氏にその余裕はなく、玉縄城の北条氏繁、武蔵、滝山城の北条氏照や河越城の北条氏尭などと同様に小田原城に篭城しました。


謙信「待ちかねたぞ、甲斐の虎よ」


無双シリーズで謙信は信玄に耳にタコができるくらい「宿敵」「宿敵」と連呼してます(笑)



氏康「謙信よ…ずいぶんと派手にやってくれたじゃねえか」


謙信「強敵との闘争は愉悦…なんじも愉しめ。」


氏康「貴様ら戦好きのド阿呆どもに関東を任せられっかよ」
「国が荒れて誰も住めねえ地獄になっちまわあな」

謙信の「関東出兵」には略奪説があったような・・・


謙信 「オン・ベイシラマンダヤ・ソワカ. 毘沙門天よ、我に力を与えたまえ ...」


氏康「何が愉悦だ…付き合いきれねえ、ド阿呆だ」


信玄「わし、ひまじゃの~」



謙信「氏康の采配見事…今日は退こう」

信玄が信濃・川中島に海津城を完成させ、信濃善光寺平における勢力圏を拡大させていき、さらに長期に渡る出兵を維持できない佐竹義昭らが撤兵を要求、無断で陣を引き払うなどしたため、謙信は、1ヶ月にも及ぶ小田原城包囲の後、軍を引きました。


1578年に謙信が死去すると、その養子である景虎と景勝との間で家督をめぐる争い(御館の乱)が勃発します。
旧山内上杉家臣に北条氏との関係を重視する意見もあって、上杉憲政は景虎を支持しましたが、越後の国人勢力や武田勝頼に支持された景勝が有利になり、景虎は憲政の居館である御館に立て籠もり抵抗を続けるも窮地に立たされました。
1579年、憲政は景虎の嫡男・道満丸とともに和睦の交渉のため、春日山城の景勝のもとに向かいましたが、二人は景勝方の武士によって陣所で討たれました。



氏康「なんだ、やけにあっさり退くじゃねえか」
謙信「だが、闘争は終わらぬ…」
氏康「あきれた戦馬鹿だぜ…ド阿呆が」


関東から帰国後の1561年8月、政虎(上杉謙信)は武田信玄との雌雄を決するため、1万8,000の兵を率いて川中島へ出陣します(第四次川中島の戦い)。


そして謙信は関東管領に就任してから10回以上に及ぶ関東出兵を繰り返します・・・



戦国無双3・北条氏康(河越夜戦) 1546年
戦国無双3・武田信玄&北条氏康(駿相の戦い) 1554年
戦国無双3・上杉謙信&北条氏康(関東出兵) 1560年
戦国無双3・武田信玄&上杉謙信(川中島の戦い) 1561年
戦国無双3・武田の駿河侵攻(上杉謙信の章) 1568年
戦国無双3・武田信玄&北条氏康(三増峠の戦い) 1569年


1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
馬上杯 完成!1 (ごじょう)
2011-12-24 16:29:52
はじめまして 上杉謙信の記事楽しく拝見させていただきました 私も謙信の大ファンでございます。無類の酒好きだった謙信公ですが この程当サイトの企画にて馬上杯を製作いたしましたので、もし宜しければ一度ご覧になって下さいませ http://gojo-auction.com 内面には本金塗りを採用しております どおぞ宜しくお願いいたします。皆様にとって来年が良い年でありますようお祈り申し上げます それでは失礼いたします。
返信する

コメントを投稿