「学生なら、答えを探すのではなく、問題を発見するために学びなさい。」
これは、観術の創始者Noh-Jesu(ノ・ジェス)の言葉。
現役の医学部の学生の、これからの時代に備えて学生の時からやっておくべきことは何か、という質問に対するNoh氏の回答だった。
今日、講演会で彼の話を聞いて、久しぶりに心が震た。
学生に向けたこの発言が私に刺さったのはなぜか?
それは、今までの私自身が答えを探そうとやっきになっていたからだ。
仕事にも、家庭にも、交友関係にも、何もかも全てにおいて答えを求める自分がいると気づいた。
何かを求めているなら、それを満たす答えがきっと有る。
何かの問題に遭遇したら、それを解決す答えがきっと有る。
何か不都合な事態になったら、それを回避する答えがきっと有る。
何かにつけ、必ず答えが「有る」と認識していた。それが真実の追求だと思って・・・
でも、どうやら違う。
それらは、対処療法に過ぎない。だから同じようなことが繰り返されて来た。
学問は、答えの追求ではなく、疑問や問題の発見である。という観点を持つことで、考える幅も深さも増す。
答えを求める学問は、誰かが規定したそれを信じることで達成される。
その理論や方程式で理屈を整理しても、実証されているという事実と、過去の偉人の功績を信じる行為に他ならない。
それは、本当の理解ではなく信仰に近い行為に思えて来た。自分で生み出している訳ではないからだ。
では、学問の神髄とは何か?
今の段階で言えるのは、問題の「根本原因」にたどり着くこと。
無数に発生する様々な問題が、どこからどの様にして発生するのか。
その仕組みを解き明かすことが学問の神髄だと気づかされた言葉だった。