「私だけの仕事の流儀」7人目は、人の絆を大切にするグラフィックデザイナーの登場です。
ニックネームは「順也」さんです。
太宰府市在住 45歳
職業:グラフィックデザイナー 株式会社 丸信
今回のインタビューも、私の呼びかけに応えて頂き実現しました。
順也さんとは、以前から何度かイベントやセミナーなどでお会いすることはありましたが、二人だけでお話しするのは今回が初めてとなり、これまでの彼のイメージを大きく変えるインタビューとなりました。
やはり、人はじっくり話さなければ分からないことを改めて感じると同時に、この出会いには実は彼なりに家族のこと大切に想うが故の大きな決断があったことを知り「人の出会いの妙」を痛感するひと時となりました。
デザイナーという世界に飛び込んだ経緯から、その後業界内で確実に階段を上がるような職歴の話、さらに今後のビジョンなどもお話ししてもらいました。
決して順風満帆とは言えない、しかし着実に得るものは掴んできたという感じの彼の仕事人生でした。
今回は、そのほんの一部に過ぎませんが、その仕事人生を紹介します。
● これまで経験したお仕事・またはその一部
高校卒業後、日産のディーラーに就職。約4年後に退職し、アルバイト生活に突入。(約2年)
その間、もともと好きだった音楽への憧れも捨てきれず、ソニーグループの一つ、ソニー・ミュージック・コミュニケーションズという会社のアシスタントの職を得る。
その会社は、CDジャケットの制作から、ポスターなどの販促品も手掛ける総合広告代理業でした。
彼はそこで、CDという音楽媒体が企画段階から実際に店頭に並ぶまでの一連の流れを知ることとなります。そこで初めて、グラフィックデザインという仕事に出会います。
そもそも彼は、ミュージシャンを目指してこの仕事に就き、得意のギターを業界関係者に披露するチャンスを伺っていたそうですが、実際に本物のアーティストを目の当たりにしたとたんに、実力の限界を感じてしまい、その後の人生をどう生きるかを考えていたそうです。
そんな時、先輩からパソコン(MAC)の使い方を教えてもらい「自分にもできるかも」と思うようになり、独学でデザインの勉強にのめり込んで行きます。
アシスタントの合間でこつこつとデザインに取り組む中、ある日上層部の人から「営業部門の配属なら、業務委託契約ができるがどうする?」との声が掛かります。
それは、はっきりいて大きなチャンスでした。しかし、彼はその誘いを断わり、自分の作品と履歴書を10社以上のデザイン会社に送り就活を開始します。
それが彼の、デザイナー人生のスタートとなりました。
その後は、スキルアップを図り、デザイン業界で転職を重ねて行くことになります。
個人事務所を2か所(計3年)・中堅制作会社(5年)・フリーとして活動(2年)・小規模のデザイン会社(5年)・大手制作会社(5年)と、約20年間で広告はもちろん、商品ラベルやパッケージデザイン、さらには新商品の企画開発まで手掛けるマルチプレーヤーに成長してゆきます。
● もっとも印象深い仕事と、その内容
大手制作会社の時代に、アサヒビールグループが開発した健康食品「スリム・アップ・スリム」の企画開発に携わったことです。
一つの商品を生み出し、お客様の手に届くまでの一連の流れに加わることができたのは、デザイナーとしても貴重な経験であり、人間としても成長を感じることができる仕事でした。
デザイン性という観点だけでなく、マーケティングという観点、依頼主の思いという観点、お客様目線という観点と、それぞれの立場や役割、さらに予算や時間との駆け引きもあり、今までにない緊張感に包まれた仕事でした。
すべてが一朝一夕には進まないハードな交渉が続きましたが、1年以上の時間をかけて店頭に商品が並んだ時は、この上ない達成感を味わうことが出来ました。
今でも販売されているその商品を見る度に、あの頃の自分を思い出します。
● その仕事を振り返って、今思うこと
健康食品の企画開発という仕事は、自分にとって何もかもが挑戦でした。
その中でも特に苦労したのは、他のメンバーとの意見の相違を埋める作業です。様々な分野のプロたちが結集したチームでは、互いの主観がぶつかり合うことは日常茶飯事で、自分も負けじと主張を繰り返す日々でした。
しかし、その環境は同時に、自分に対する問いかけの時間でもあり、相手の思いを考える時間でもあったと今は言えるようになりました。
自分は“作り手”としての思いを大切にしたいと考えていましたが、それは同時に“使い手”の思いを理解することだと思います。
この仕事は、デザイナーとしてだけでなく、自分の仕事に対する姿勢にも大きな転機となった経験です。
● 忘れられない仕事での失敗談
思い返せば沢山ありますが、大切な打ち合わせに遅刻した時は、本当に焦りました。
前日に飲み過ぎてしまい、翌朝気づけば約束の時間でした。大慌てで着替えてタクシーに飛び乗り、携帯で言い訳をしながら「早く着け!」と思う反面「なんて大人げないのか…」と自分を責めながら向かった時のことは、今でも恥ずかしい思い出です。(35歳頃の出来事です)
他には、個人事務所時代にフジテレビ主催の演劇用パンフレット16ページのラフ版(試作品)を依頼されていましたが、実際に取り掛かったのが提出日の前日だったことです。
その時は異常なほど多くの仕事を抱えており、貫徹は当たり前のような仕事をしていて、忘れていた訳ではないのですが、結果的に時間が無くなってしまいました。
しかし、そんな言い訳が通じるはずもなく、とにかく16ページを仕上げて提出しましたが、当然出来栄えたるや悲惨な状態でした。
上司のお陰で会社に迷惑をかけるには至りませんでしたが、忙しいとは言え、やっつけ仕事をしてしまったという苦い思い出です。
● 仕事で影響を受けた人
ソニー時代にお世話になった4歳年上の先輩です。彼はデザイナーとしても一流でしたが、人間性にとても惹かれるところがありました。
彼は「愛のあるデザイン」という言葉をよく口にしていて、とてもオープンな性格なので仲間も多く、信頼の厚い人でした。
今ではプロモーションビデオの制作やCM制作なども手掛ける、業界では有名な人で、今でも自分が目指すべき存在の一人です。
● 仕事で楽しいと思う瞬間
まず、シンプルに「いいものができた」と思える仕事に出会えた時。
次に、意外な発見に遭遇した時。
例えば、デザインはある一定の法則性に沿って色やロゴ、背景などのバランスを考慮する側面があるが、それを絶対視していては良いものは作れない。なので、固定観念を捨てて敢えて不文律に挑戦することで、意外なマッチングに出会う瞬間があり、それこそデザインの醍醐味だと思う。
そして、相手の主観とすり合わせてシンクロした時。
ある仕事でカメラマンと共同で料理本の広告を手掛けた時、自分のイメージに合う構図をイラストにして要求したところ、そのカメラマンは自分の意図をよく理解してくれて、彼なりのプロ目線でさらに良いカットを提案してくれた。言葉や絵を通して彼の主観とすり合わせを行った結果、カメラを通して物を観て、それを観る側に最大限のインパクトを与えるような構図を映し出す彼の中のスクリーンと、デザイナーである自分自身が思い描くイメージがシンクロした瞬間だった。
デザインとはそういうもの。生きているものだと思う。
● 今になって思う、仕事のために、やっておけば良かったこと
自分は、偶然デザインの道に入って独学でやって来たが、学生の時から目覚めてそれなりの勉強をしていれば、今頃はもっと大きな仕事を手掛けるデザイナーになっていたかも知れないと思う。
その道には、やはりそれなりの“王道”という道があると思う。
優れた仕事をするにはやはり基礎は大事だと、今でも痛感する。
自分の努力とチャンスを生かすことに変わりはないが、やはり美大などの専門性のある勉強をしてこの世界に入ってきた人は、最初からそれなりの舞台に立つ可能性が高いと思う。
● ズバリ、仕事とは何か
自分を成長させてくれるもの。
仕事は必ず人との関係の中で行う。だからこそ出会いがあり、その出会いが自分の刺激になり、結果的に自分を成長させてくれると思う。
● 自分にとっての仕事の意味価値とは
自分を表現して、人とのつながりを感じること。
互いの主観のすり合わせをすることで、相手をより理解でき、自分も分かってもらえる。
自分は、デザインという主観が出やすい仕事を得たことで、作品に自分の主義主張を表現することが出来るが、仕事には総じて自分を表現できる側面があると思う。
だから、互いに真剣に取り組んだ仕事ほど、その人の人柄がにじみ出てくるのだと思う。
● 未だ社会に出ていない若者へ、贈る言葉
自分に枠をはめないで、個人のブランド力を高めて欲しい。
情報社会ならではのチャンスを掴もう!!
自分を認めて支持してくれる人は必ずいる。そう信じて人間力を磨いて欲しい。
★ 私だけの仕事の流儀
「人を想うデザイン」を極めたい。相手の期待を超える価値を提供すること。
自分はあるものをデザインする時、それを作る人たちの背景や、それにかける情熱、さらにそれを観て使う人の感情など、物質的な情報よりも気持ちを大切に仕事に取り組む。
そうすることが、単なるセオリー通りのデザインではなく、魂の宿るデザインになると思うし、先輩の言っていた「愛のあるデザイン」に近付くと思う。
デザインを極めることは、結局は人間性を高めて行くことにつながる。
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順也さんとのインタビューの中で私が感じたのは、彼の自立心と向上心の強さです。
その印象は、実は今まで感じなかった新たな発見で、話してみて分かったことでした。
彼がデザイナーだということは知っていましたが、当然それなりの学校を出てその道に入ったのだと思い込んでいました。それがまさかミュージシャンを夢見ていたとは予想も付きませんでした。
仕事との出会いは本当に一期一会だと改めて感じるエピソードでした。
だからこそ、彼は現場の下積みから一つ一つこなして行き、階段を上るように自身でステージを上げて行ったのだと思います。
独学とは言え、その技術を現場で叩き上げて来たからこそ、「人を想うデザイン」という一つの答えを導き出したのだと思いました。
そして、最も驚いたのが、福岡に移り住むことになった理由を聞いた時です。
それは、あの東日本大震災に起因します。
日本史上最悪の事態となった福島原発の放射能漏れの事故は、当時の東北はもちろん、関東圏でも深刻な事態として市民に大きな不安の影を落としてしました。
飲料水はおろか、食料品もろくに口に入れられないほどの不安が蔓延し、一時期九州産の野菜などが大量に関東に送られていたのは記憶に新しいところだと思います。
当時は、その被害を逃れて西日本へ移住することを真剣に考えていた人も少なくなく、順也さんもその一人でした。
彼は東京生まれ東京育ち。奥さんは横浜の人です。当然ながら説得には時間がかかりました。
しかし彼にはどうしても譲れないことがありました。
それは、その年の1月に誕生した娘さんのことでした。
生まれたばかりの子供のことを想うと、このまま東京で不安を抱えながら生活するよりも、心身ともにのびのびと生活できる環境に移ることは、彼の父親としての固い意志でした。
それから約1年後、仕事も故郷も手放すことを彼は決断し、なんのゆかりもない九州の地に移り住むことになるのです。
デザイナーとして積み上げて来た実績が幸いして、転職にはそれほど苦労はなかったと彼は言いますが、私はその話を聞きながら、彼の決断力に本当に感動しました。
そして、話しをしながら時折垣間見せる彼の繊細さとこだわりの強さを物語るエピソードだと感じました。
周囲には当然「考え過ぎだ」と揶揄する声もあったのだと想像しますが、娘を想う気持ちは私も同じ父親として共感できます。しかし、私に同じ決断ができるのか?と考えると、彼の行動力の凄さを思い知るのです。
そして、あの震災を巡って当時の関東では移住を真剣に考えるほどの事態になっていたことを知らない自分を恥ずかしく思いました。
念のため付け加えておきますが、移住を決意したのはあくまでも順也さんの主観によるもので、移住の是非を問うつもりは毛頭ございません。
しかし、私がこのお話を紹介するのは、人の出会いというものが本当に不思議でならないと思うからです。
彼の大きな決断がなければ、私はおそらく一生彼に出会うことがなかったと思います。
でもこうして彼の仕事人生を聴く機会に恵まれたこと、彼に出会えたことに本当に感謝しています。
人の出会いの妙を感じたインタビューでした。
最後に、彼は将来デザイナーという枠を超えて、人と人のつながりを生み出すような仕事がしたいと話してくれました。
私も順也さんと同じように、人をつなぐ仕事がしたいと思っているので、これから共に協力できる日が来るよう頑張ろうと思いました。
順也さん、本当にありがとうございました。
2016.3 Youth worker・Support 「私だけの仕事の流儀」