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なぜキリスト者になりしか

2021-10-10 18:29:38 | 日記

 ミサが始まった。11時からというやや半端な時間からのミサだ。ほかの用事もあったので、早めに出かけた。教会はひこにゃんのいる彦根にある。ずっと静かだった街に人が出ている。彦根城の近くでは「ひこにゃん、にゃん・・」の音楽が聞こえる。みんな嬉しそうだ。その気持ちがよくわかる。

ミサは検温、手指の消毒、2Ⅿの距離、そしてミサ中はほとんど声を出さないで行われた。一番うれしそうなのは、神父様だった。同じキリスト者としての何とも言えない共通の安心感。それは独特のものだ。

今日はなぜキリスト者になったのか思い出してみた。私が洗礼を受けたのは2012年。教会に通い出したのはその約半年前だ。なぜ教会に行き出したかは前にも書いているが、お友達ががんだということを聞いて祈りたかったことからだ。それには教会があっているように思えた。それで一番自分が行きたいなぁと思う教会を訪ねた。やさしい清楚な感じの女性が丁寧に案内してくれた。日曜日のミサの案内をしてくれて、私は何も考えずミサに出かけた。祈りたいが先だった。ミサも入り口から丁寧に案内してくれた。それが私と神との出会いだ。

半年間、教会の講座に出たりしてキリスト教を知った。それが私には抵抗のないものだったし、素敵なシスターに出会えたことも大きかった。迷うことななく私は洗礼を受けた。まぁ、珍しいケースかもしれない。そこからがスタートで自分なりに勉強しに出かけた。それが遠藤周作さんと同じように、日本人に合ったキリスト教を考える元司教だった。

世界中どこへ行ってもミサは同じだ。言葉はわからなくても順番はわかる。再来年くらいに日本語のミサが、文語的な表現から口語的な表現に変わるらしい。日本語のみ変更とか。日本語の聖書はわかりにくい。英語は得意でないが、英語の聖書を読んだほうがわかりやすい時もある。

キリスト教でなくてもなにか自分が迷った時などに、基本になる軸を(元に戻れる軸)があることは、この不安定な時代には生きやすいのではないだろうか。常に、自分を客観的に見つめられるというのかな。

カトリックは厳しいと言われるが、そういうことはないと思う。ゆるゆるとい感じでもある。そういう意味でも、キリスト教は日本人によく理解されていない気がする。


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