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あなたに「ぬくもり」を届けたくてブログをつくっています

そうか、もう君はいないのか

2017-01-31 16:40:54 | 日記
 寒さに逆戻り。1月末はこれが本当の寒さなのでしょう。とりあえず中学受験生の授業の最終日。例年よりはるかに楽な状況でした。それでも自宅に戻るとズシーンと疲れが出ました。何なのでしょうか。

 「そうか、もう君はいないのか」は城山三郎さんの著書です。なにかそんな脱力感が襲ってきました。平気な顔をして「また会えるし」とその別れを感じないつもりでいましたが、「また」はいつのことなのか・・・。

 毎日見に行っていた駅前の河津桜が1輪咲きました。

 
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ささやかなしあわせ

2017-01-30 19:57:58 | 日記
 1月も終わろうとしています。今日昼間はコートなしで歩けました。夕方5時でも明るくなりました。そんな時間にスーパーに買い物に行けました。5時は仕事をしている時間でした。塾の仕事のときは、11時ごろ帰宅でした。今は布団の中にいることができます。この生活がほんとうにありがたく感謝の日々です。

 先週NHKで大竹しのぶのファミリーヒストリーを見ました。お友達のルーツが出てくるということでした。しのぶさんとは従兄妹に当たられたそうです。しのぶさんの祖母八重さんの生き方、お母様の江すてるさんの生き方としのぶさんの生き方がどこかでダブりました。「血」というものがあるのだろうか?と思いました。私の母方の曾祖母も祖母も働き者でした。曾祖母は働きすぎて目が見えなくなったとか。祖母は子供たちを育てながら自営の印刷業の営業から経理をさらに印刷物を捌いていました。父方の祖母は結婚前は和裁などを教える大きな家のお嬢様だったとか。結婚して大震災にあったりして苦労したそうです。それでも面倒見はよく家には誰か居候の学生さんなどがいたそうです。

 「血」なのか私もよく働きました。それでも何も残りませんでした。残す気がなかったのかもしれません。母方の祖母のように働き、父方の祖母のようにのんびりした晩年を送れるのかもしれません。いつも誰かに愛され、大事にされて生きてらこれたこと。何も残らないけどささやかな幸せです。

 

 
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春近し

2017-01-28 21:12:20 | 日記
 TVでみる寒波による積雪。雪景色を楽しむどころの話ではない。湘南平塚は暖かい。農家直売のお店には「ふきのとう」が並ぶ。駅前の河津桜はあと1日で花を開くだろう。秋に植えた球根も芽を伸ばしだした。花は時を忘れない。

 1月は訃報も多く、変化の多い月になった。自分の感情は捨て置いて、受け皿にならんと 進み始める。

 あと少しで受験生の指導が終わる。ここにきて安心したのか必死さが欠ける答案を作る。思わずわが子のように叱った。涙が出た。生徒も泣いた。「必死でやったことは残るんだよ」こうやって何年子供たちと戦ってきたことだろう。それも今年で終わる。

 
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母なるゆえに

2017-01-23 17:11:11 | 日記
 首都圏の中学受験は2月1日から始まります。最後の追い込みになりました。最近の傾向は、発表が早くなり、午後受験ができるようになりました。午前中に4教科の受験をしても午後の3時ころから他校を受験することができます。12歳の子供に酷なことだと賛成ではないのですが、塾サイドも平気で午前午後の受験を進めています。

 中学受験は、どしても親が勉強をみないと自分ではできないようです。(出来るのですが・・・・)今でもよく父兄にお話しする賢い母親は、なにも勉強には手を出しませんでした。私はお金を準備するのと食事を作るだけ という線を最後まで崩しませんでした。ご自身は、英検の勉強とすてきな水色の糸でご主人のセーターを編んでおられました。仕事の出来る几帳面な母親は、受験までにしなくてはと思うことを日割りにしそれをきちんと進めることに全力を尽くします。子供の体調やストレスを見ることができません。どんなにお母様が優秀でも「教師」にはなれないのです。なれたとしたら「母親」は失格なのです。私が親なら絶対にわが子の勉強をみることはできません。よくお医者様がご自分のお子さんに注射できないのと同じかもしれません。

 いままでたくさんのお母様とお会いしてきましたが、すてきだと思った方は最後まで子供を守りぬいた(守ろうとした)方でしょうか。親になれなかった私は思うのです。子育ては仕事ではないから、1+1=2にならないことのほうが多いということです。そのいい加減さを楽しめないと子育てはつらくなります。まぁ、私がいい加減な人間だからかもしれませんが。

安心して子供が飛び立てる基地(いつでも自分を見てくれているという安心感を与えられる)あれればいいのではないでしょうか。

 
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鍋を食らふ

2017-01-21 22:21:22 | 日記
「朋あり遠方より牡蠣きたる」と昨日宮城松島の生牡蠣が届きました。なんとも豊満な牡蠣なのです。もちろん生食用。さっそく頂きました。今日は一日パソコンの前で、会計ソフトに入力業務。いささかご機嫌が悪い。夜には親友から電話がかかってくる。それまでに終わるか? そうだ、夕食は牡蠣で鍋だ。

 鍋は囲むもの、一人でつつくものではないのです。二人の食卓は準備しましたが、やはり鍋はそうはいきません。近くのお友達とは予定が合わず。

 「二人とも忙しいんだね」「そうよ、さびしい女は忙しいのよ」

 「今日は逢いに行きたいひとがいたの」「なぜ行かなかったの?」「急がしいときにご迷惑じゃない。」「相手の都合を考えるなんて少し大人になったんだね」(大人にはなりたくないのだ)

 「メールも出したかった人がいたのでけど・・・」「メールぐらい出せばよかったのに」「また、同じことが始まりそうで・・・」「学習できたとは、少しは大人になったんだ」(大人にはなりたくないのだ)

 「元気か?くらいたまにはメールを出してきてくれてもいいと思わない?」「なにかあれば真っ先に自分のところにくると思っているから安心しているんだろう」「何にも考えてないのよ。きっと」「本当にそう思うの?」「なにも望んでないのよ。元気でゆっくり暮らしてくれればいいとしか」「いい人だね」

 こんな問答をして牡蠣鍋をたんと食らった。『食べた』ではなく『食らった』のです。いろんなこと堪えている気もする。でも、鍋を食らうと本当に幸せなのです。

 
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