外に出ると蒸し暑い日。日焼け防止に長袖を着ていると暑いです。こんな日に長浜市国友町で刃物所持の不審者(男性)が発生したということで、小学校は5時限で一斉下校、父兄がお迎えに来るという状況。出入り口が管理されて、校庭は父兄の車で埋まりました。(お昼の時点で不審者が見つかっていない)学童クラブもクラブごとの下校になり、その車も入りごちゃごちゃが続きました。学校の敷地内にある私の勤めるクラブは、出入り口が変更され、生徒の出入りする入口からのレイアウトも変更になり大わらわでした。今のところ、被害は出ていないようですが、明日はどうなることやら。
毎日、よかったことを数えることは続けています。案外、日常のことが多いです。気持ちも落ち着いてのですが、まだ、心に引っ掛かることがある感じでした。自己カウンセリングで思い起こしてみると、それは10歳くらいの時に、祖父母と父母と私たち姉弟の一軒の内で生活空間を2つに分けたことでした。それが大みそかのことでした。掃除をしながら、父が仕切りを作っていく感じでした。それに気づいた祖父がカンカンに怒り、父と激しいケンカになりました。母も大声で叫んでいました。弟もこのことは覚えていて、許せない(父を)思いだったと言います。
翌日の元旦、お正月の料理もできていたのに、祖母は寝込み、父が見舞う始末。弟と私もお雑煮を少し食べただけ、すぐ隣の部屋に移動できない状況でした。2日は叔母夫婦と従弟達が新年の挨拶にきて、大騒ぎになりました。従弟達もいつも遊べる部屋で遊べず・・・。
父と母は、私たち子どもたちのために別居という形はとらず、生計を別にするということで家を半分に分けて生活することにした、と話していました。祖父が仕事の収入を全部管理していたことが問題でした。
子ども心になんともいえない複雑な気持ちで過ごしていた記憶があります。それは長い間私のこころのたんこぶでした。これは何回かカウンセリングにかけているのですが、しこりが残っていました。ハタと昨夜思いました。少なくとも、祖父母と生計を分けて別々の生活をすることは、父は本意ではなかったと思います。それでも、弟や私の将来のこと(進学等の経済的なこと)を考えて、踏み切ったと思えたのです。母にしても祖母とは仲が良く、私たち姉弟の面倒をよく見てくれたから、つらい決断だったと思うのです。
「子どものため」という選択ということが、わかるようになったのは、特に母の私に対する想いがわかったからだと思います。子どものために、望んではいない選択をすることがあるのだ、と思うと胸が痛くなりました。叔母や叔父たちに非難されても、それを実行した両親・・・。父は長男で次男は戦争で自死していたのですから、どんなに苦しかったか・・・。
心のたんこぶがとけて、ほかの諸々のことも許せるようになりました。ここ何日かの瞑想と1日に3つのいいこと探しが、心を開放してくれています。人生にはいつかわかることがありますね。
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