新年最初の彩友会だった
描いてきたのがこれ
延々と 鬼だよ
これは小さいのだけれど(って 結構大きいけど)
もっと大きい群像も描くのだが
大塚先生は
「ありきたりな描き方では 面白くないんだよ」
とおっしゃるが
そういう 言 について 若いころから反発してきた
が
今頃
色々考えることがある
くどくどしいので
それは後で 時々記事に書くことにする
展覧会前なので
先生に出品する絵をチェックしてもらう日だった
先輩諸姉のテーブルに行ったら
シンビジウムを描いていらっしゃる方がいて
「もう何描いているかわからなくなっちゃうのよ
どうしたら いいのだろう?」
という
もやもやしてて 先に進まないというのだが
それは 私の目には キーが見えていたので
僭越だからお話した
それでまた
(余計なことをした)と
気分が落ち込んでしまった
私が居たテーブルには会長さんとサキコサンが居て
サキコサンはすっかりコラージュにはまっている
これってはまるよねえ
といい
サキコサンは「えがかけなくなるかも~~」
などとやっていると
このコラージュと言う課題に頭に来てた(?)お仲間が
どう考えていいかわかんない
というので
そこでまた色々な話になったが
ますますわからなくなるらしく イライラするようだった
偶然性の中から見つける形や色
なんて それをどう考えるのよ!というの
やはり考えるんだよな
とことん考えるんだよな
それでどうするか見えてこないと
やる気も出ないのだな
4月の朗読会の後
観客の不満が 知らないお話ばかりだった
という感想があった
で どこか知っている手がかりのあるお話
と言うのが次回の朗読会で読むお話選びのとき考えた
人が見たり聞いたりするとき
なじみのある 手がかりで 分け入ってくるというのは
聞いていただくには大事なことではないかと思った
で
演奏会の話を息子が語るのを聞いていたら
(渋いジャズの演奏を聴いた話)
音楽でも 耳慣れたものが何もない演奏会だと
不満に思う観客が結構多い
新しい音楽が 受け止められない不思議
と言う話
新しい とか 今まで聞いたことがない やったことがない
ということが 人の感性に蓋をすることと
なんでも 芸術表現は 新しくあろうとすることと
難しいね
新しい と言うのが 脅迫的というのもあって
私は 若い時からそれが 頭にきた
技法的なこととか様式的なことに堕していくんじゃない!
と言う気がしていたんだけれど
それも浅はかだな
若い人が 新しいものを生み出そうといろいろやることに
老人も感覚をひらかないと
で
最近の傾向
パソコンが 表現手段のなかにどんどん入ってきて
表現の中から身体性がどんどん押しやられていくというような話
音楽も(よくわかんないが)サンプリングタラ何たら
音源を操作して 音楽を作っていく
あらま 美術で言う レディーメードか?と聞くと
そういう傾向が 席巻しているらしい
でも レディーメード(考えてみればコラージュだってそうだ)
サンプリング音源で作る音楽って
ひところパソコンの仕事が 人間性とカケ離れているようなイメージがあったけれど
実際は
鉛筆や 筆と同じようにタダの道具だし
表現の中から身体性を排除するものではないと思うんだよな
と言うようなこと
くだくだ考えている
あら おなか痛い なんかおなかの具合が悪い感じだ
トイレ行ってくる