goo blog サービス終了のお知らせ 

遊工房・雑感

日頃のあれこれを綴る日記です

原風景

2013-07-07 05:22:50 | 原風景

アクセス解析を見ると

原風景のページに毎日少しづつアクセスがある

どうしようかなあ とお考えなのかもしれないし

新たに構想を練っておられるのかもしれない

私がこの頃考えるのは

あまり絵と結びつかないのだよな

自分が育って成り立ったことを思うと 大きな要素が育った家庭

これが一番直接的で大きな要素だ

そう思うと自分が作った家庭で子供はどう育ったのだろうか?

恐ろしくもある

家族というのは懐かしい懐などというものではなく地獄でもあるわけだし

近頃噂になっているタガメ女 私もそういうことって

あるのかななど 考えてしまう

人とのかかわり方 愛し方 

こういうことは 育った家庭が大きく影響すると思うし

誰もが地獄のような家庭で育った

ともいえるけれど

そこから 何をくみ取って育って行くかというのも

そのものの素質 ってのも大きいものな

と思う

人を愛するということで 達人 と思える人がいろいろいる

どうしてそうなるんだろう?

一方で 超 へたくそで 傍で見てても 参っちゃう人もいっぱいいる

どうして そうなっちゃうんだろうね?

原風景についてこういうことをこの頃考えるけれど

絵とは結びつきませんわ

さて 今日はKINU洋画会

原風景がらみの絵を 仕上げに行きます

コメント (6)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原風景

2013-06-30 07:34:37 | 原風景

原風景 ということを底流に いろいろ考えてみて

 とても

 面白かった

 草原の人々は 馬に乗るよね

 わたしは 馬は乗れないのだけれど

 馬に乗るというのは馬と呼吸を合わせるというか

 体のリズムを一体化させないと乗りこなせなくないか?

 車に乗っている人間とは 人間関係を結ぶありようが ずいぶん変わるだろうと思う

 わたしにかけているのは

 そういう風に 馬を乗りこなすというか

 馬に乗せてもらえるようなそういうものがない

 多分 一番の原風景はそれなんじゃないかという気がしている

 農耕を生業としてきた人々の考え方になじめない

 という感じはあるけれど

 ↓ 昨日までの この絵 

Img_2770

世界的規模で考えれば

 わたしも農耕民族と言えるんだろうし

 そこからくる道徳律に 知らず知らず 縛られているのに違いない

 自分の考えかと思ってきたものが

 実は 歴史的民族的地域的なものの反映の 出来の悪い結晶かあ

 と 

コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

なつさん花てぼさんPさんゆすらうめさんへ

2013-06-12 05:05:43 | 原風景

ここ 行ってみて?どうよ

 名探偵遊工房

 じゃないか?

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

呼称

2013-06-09 06:39:00 | 原風景

ここの所呼び方についている色考えていて

呼び方というのはかなりかたくな

ヒエラルヒーの考え方がかなり家族的に 方言的に違う

意識しないでも相当頑固なものだ と

分かった

家族と言っても私と武蔵 子供たちでは感覚が同じ家族でも育った家庭が違うので

かなり違う

そういうことは意識しなかったし

無意識に自分が絶対的なもので 相手がどう感じるか

無神経なことがあるのだろうと思った

人に対しては寛容になれないといけないよなと思うけれど

厭な感じがするときは自分の感覚は抑えられないところがある

他人に対しては読めない相手には標準語を心掛けないといけない

さて おばちゃん おばちゃん おかあちゃんおとうちゃん

これは標準的には粗野な呼称だと思うけれど

関西の人 田舎もこの地区の人は このようにいう感じがする

とうちゃんかあちゃん とおなしで呼ぶ

これって男の人だけだろうけど?古い人は女の人もいいそう

わたしも陰では武蔵のかあちゃん とか武蔵はおまえのかあちゃん

とか言われていると思う

相手はひどい言い方だと思っちゃいない

でも私は面と向かって言われたら

むっとくる

息子も陰では 父ちゃんとか呼ぶけど面と向かっては言わない

これは男の子の感覚かもしれないけれど

東京の子は言わないな

(でも東京弁は複雑だ ほとんどが地方出身者で方言の背景を持っている人あるいはその何代目かだからだ)

おやじ おふくろ という言い方をする

チャン付が ヘンだという感覚は日本のなかじゃ かなり狭い範囲かもしれない

息子たちは おじちゃんおばちゃん と彼らの伯父伯母を呼ぶ

がそれは親族が集まる武蔵の長姉の家が皆そういう呼び方だったからだ

何の違和感も感じないでおじちゃのばちゃんといけれど

外の人に 自分にはどこそこにおばちゃんが居て

という風に話したらかなり変だ

そういう感覚が子供にあるかないか

分からない

然し武蔵が自分の伯父さん叔母さんをおじちゃんおばちゃんと呼ぶのは聞いたことがない

かあちゃん とはいっていた でもそれ 親族のなかだけで使う言葉だけどな

Yさんと話していて分かったが

武蔵の姉たちはうちのおばさんを おつやさん と呼ぶ

これって 結構失敬だ

この呼称のわけがわからない

失敬な呼び方だという感覚はないのだろうけれど

ほかの場所でお〇〇さんと呼ぶのは使用人に対してしかないな

と思う

使用人 という私の言葉づかいも

相当おかしい

いまどきそんな言い方はしない

労働者は対等に扱われて当然の世のなかなんだから

とはいえ 

背後にそういう感覚があるので おつやさんは失敬だろうと思っちゃう

もっとも仰天したのは

子供が高校生の時担任を呼び捨てにした時

それはまずいよと叱ったら

もう信じられないような関係

クラス旅行でスキーに行ったとき担任が集合時間になっても来ないので

放送掛けたというだ

〇〇学園の○○くん(担任の名前)先生がお待ちですからどこそこへ

集合しましょう!

って 遅れてきた担任が このやろ~~~!!

と大笑い って 私には信じられない関係(これ娘のクラスの話)

担任呼び捨て って ひどくないか?

わたしも呼び捨てされたがなあ

でもそれってヤンキーな奴たち 悪がき そういう子たちだったが

?わが子らも悪がきかあ

わたしは自分のおじおばはおじちゃんおばちゃんとは呼べない

小さいとき親しく行き来してないから

小さい子の呼び方もしたことがない

小さいとき親しかった しんぞくではないおじさのばさんは

おじちゃまおばちゃまと呼んでいたので

いまだにそう呼ばないと違和感がある

この ちゃまづけは武蔵の家族からは嘲笑された

武蔵も違和感があるのだろうが

一人は母が亡くなるまでお付き合いがあったかたなので

合わせてかよこおばちゃま と呼んでいたが

普通に考えると 相当変なのかもしれない

小森のおばちゃまもテレビではそういう扱いだったようにも思う

自分で おばちゃまはね  ていう人は珍しいのかもしれない

でもなあ  ありなんだよ 私には

わたしはおばさんでいるのは武蔵の家族に対してだけだ

(自分が一人っ子だから)私はのりこおばさんだ

武蔵の姉が時まで一緒 のりこおばちゃんという人がいるからだろう

だいたいは  さんづけが 普通だけど さま付でないと失礼にあたる

という人はいる

目上の人だ 

目上じゃなくても雰囲気で様漬けしなきゃいけないような人は

結構ハイソな雰囲気の人で

それまたむかつくが

まるっきり ハイソな連中の中に入っちゃうと

普通に さまづかいで別にむかつきもしなくなる

あああ階級社会だ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家族の呼び方

2013-06-07 06:14:31 | 原風景

わたしは幼児の時

親をおとうちゃまおかあちゃまと呼んでいたのはなぜか

それっておかしいのか考えてみた

実は武蔵の家族と話していたときそういう家のことを思いっきり嘲笑していたので

びっくりして

幼児期のその話はしないことにした

(しかし そのうち姪が結婚したら おとうちゃまおかあちゃま呼びになり

嘲笑した当人もならってその子にはそう呼んでいた

複雑だったかも

相手が江戸っ子だった)

でも江戸時代のドラマを見居ると

おとうちゃんおかあちゃんだよな

おとうちゃまおかあちゃまは

多分少し前明治維新後の山の手言葉なのだと思う

母自身は親を呼んだ記憶があまりないのだ

早くの両親と別れておじさんの家で育ったから。

で 昔の知り合いはどうだったか。

高田馬場の先生宅 九段のおばちゃま宅(この人が両親の実際の月下氷人)

は古い山の手言葉の家だったような気がする

で 母の思いは 赤子のうちに父を戦死された子が

みじめに育ってほしくないという思いは人一倍強かったので

そうなった

と 思い至った

然し思い出しても親をおとうちゃんおかあちゃんと呼ぶのは

結構変な感じがする

だいたいあまりほめられた言葉づかいじゃないよ

という感じはあるなあ

だから普通に育って 親をおとうちゃんおかあちゃんと呼ぶ人は身の回りにはいなかったのだ

然し関西ではおとうちゃんおかあちゃんと呼ぶのは

ごく当たり前のようだ

関西から来た友人が自分の関西弁について東京のものに一番ひどい目に遭わされたと思うのはこれではないか?

わが子らはむろん武蔵の手前おとうちゃまなどと呼ばせるわけにはいかないが

そもそも当時はもうすっかりすたれた呼称だ(姪は違うけど)

さいしょっからおとうさんおかあさんと教えた

おばあちゃんは ばばちゃんから始まって 赤ちゃん期を過ぎたらおばあちゃんになった

ばあば なんてのはない

ばあばが広く言い習わされてきたのは最近のことだけど

友人のお母さんはじぶんのことはばあば と言っていたな

おばあちゃんの場合はチャン付は乱暴な感じはしない

なぜだろう?

今息子だけはばあちゃん と おをつけないことの方が多い

何となくそのほうが男っぽいと思っているのだろうか?

さて武蔵の家族は お母さんをかあちゃんとよんでいた

お父さんはおとうさん

それが自然なのだろう

おばさんも自分のお母さんをかあちゃんと呼ぶ

お父さんのことはじいちゃん ?あら なぜでしょう

然し 私の母をさしてかあちゃんと呼ばれたら むっとくる

そういうことはない

人の家のお母さんを母ちゃんというのか?茨城弁

言いそうだ

これ かあちゃんにやっといて みたいないい方をするように思う

やるというのも失敬だけど 当人は失敬と思ってないのだろうと思う

そういえば 厳密な友人のお母さんは

犬に何かあげるとき あげると言ってはいけない

犬は畜生なのだから 敬語もいけない

やる と言いなさいと教えてくれた

犬にでもこれやる というのは乱暴な言葉遣いにわたしには思えた

(この話題 まだまだ続く)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

東京の場所 言葉

2013-06-06 19:37:06 | 原風景

ラジオがニコタマは洒落ているのが様になっている町

みたいなことを言っていたが

違和感を感じる

洒落ているのが様になっている風って

わたしには作り物めいて偽ものっぽい感じがする

そういう風に

東京の町は だんだんできてきたんだろうと思う

いかにも都会的で洒落たかんじを出している風なのに出会うと

違和感を感じる

もっとも そういう風に田園調布だって作られたんだろう

柴又だって 芝居の書割みたいだし

 

こういうのはたぶん暮らし方が変だからだ

ここに 私の原風景にある暮らしと似たものがある感じが全くしない

 

思い出すのは武蔵のお母さんが入院した

芝の病院 その界隈の裏手には

結構お年寄りが住んでいて

東京の庶民の暮らしが 残っているんだ!ここ

と思ったが 今もあるかどうかは分からない

千石(文京区)のあたりも

住宅の間を入っていると

ぽろっと空き地があったりして 井戸が残ったりしていたが

これももうないかもしれないが

そんなふうに開発を免れて残っているところには庶民的な暮らしの場としての

東京が残っているかもしれない

でもそれらは皆 消滅していく運命だろうし

松原の家みたいなものだな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

原風景

2013-06-05 07:24:07 | 原風景

↑昨日買った本の1ページ

13292901671
上にあった画像 載せてはいけなかった

すみませんでした

今病院

帰宅後修正します
右は昨日の展覧会にも展示してあった
ベイルルバード荘園の付近の風景の絵
この文章はルドンが書き残したもの

これ原風景ギャラリーに
入れたくなるような1ページだわ


どうしてルドンの絵は幻想の世界に
入っていったのか
そういう
人のやることには
何とも言えない必然性
というのがある
それが原風景なんだろうなあと思う
そう思って振り返ると
私が何でこんな人物になって
こんな風な絵を描いて
ってのも拠ってしかるべき原風景があるんだろうが
わっかんないなあ

故郷になれない東京生まれ育ちだからダメなのよ

すねたいところだが
私はかなり頑固な方言県の人間だというのは
最近わかったがな

友人は仏文学者なんだが
彼女 実は世界的発見をした
埋もれていたシャルル・バルバラという作家を発掘したのだが
そういう業績にも必然性がある
女探偵のように地道で細かい作業をいとわない性格
勤勉 努力家 そういうもって生まれた美質もあるけど
(私とタイプが違うので気が合うのだ)
実は発掘した相手との間に親和力があった
そう思うんだ

つまり 似たタイプというか
人や芸術作品は出会うべくして出会って響きあうものかもしれない
そういうふうに思った

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

伊万里の原風景

2013-06-05 06:31:22 | 原風景

昨日ルドンと民芸館と思っていたのですが

頭はルドンでいっぱいいっぱいだったので民芸館はやめました

Pさんのところで李朝の焼き物を見たので

李朝のものを見たかったのです

花てぼさんの故郷の波佐見焼を始め

伊万里焼 とか有田焼とか

そういう焼き物の原風景が李朝だと思ってたんだけれど

李朝もいろいろ

調べるときりがない

日本民芸館は駒場東大前で降りて

東大を前に左の方にドンドン行くと

柳宗悦の御屋敷があった(今もあるんだろうな)そのお向かいに

日本民芸館がある

 

わたし

若者のころ柳さんの主催してた?民芸教会関連のお店

店員として働いたことがある

そこで働いたら面白そうだと思ったから

店員やるのも面白かったが

そこの仕入部長のおじさんを捕まえてはいろいろ教わるのも面白かった

店の方では

かわいい女店員が(あたしだよ!)商品知識豊かになるのは歓迎だから

うるさがらず

色々教えてくれた

3か月働いただけなんだがずいぶん教わったので

旅行先に窯場があると寄るヒントになっている

それでおばさん連れで広島に行ったとき

ここまで来たんだから

砥部焼の窯場に行こうと行ったのだわよ

Imgp6150

砥部でおばさんが絵付けしたスープカップ

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

黒の諧調

2013-06-04 21:08:22 | 原風景

今日

損保ジャパンにルドン展を見に行った

記事はくどいので

ときどき記事に書いた

絵の好きな人お暇なら来てください

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都に雨の降るごとく

2013-06-03 20:15:45 | 原風景

ドビュッシーのピアノの曲は見つからない

Il pleut doucement sur la ville.
Arthur Rimbaud


Il pleure dans mon coeur
Comme il pleut sur la ville;
Quelle est cette langueur
Qui pénètre mon coeur?

O buit doux de pluie
Par terre et sur les toits!
Pour un ceour qui s'ennuie
O le chant de la pluie!

Il pleure sans raison
Dans mon ceour qui s'éoeure.
Quoi! nulle trahison?...
Mon deuil est sans raison.

C'est bien la pire peine
De ne savoir pourquoi
Sans amour et sans haine
Mon ceour a tant de peine!

都に雨の降るごとく
わが心にも涙ふる。
心の底ににじみいる
このわびしさは何ならむ。

大地に屋根に降りしきる
雨のひびきのしめやかさ。
うらさびわたる心には
おお 雨の音 雨の歌。

悲しみうれふるこの心
いはれもなくて涙ふる
うらみの思ひあらばこそ
ゆゑだもあらぬこのなげき。

恋も憎みもあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも悩むか知らぬこそ
悩みのうちのなやみなれ

言わずと知れた
ヴェルレーヌの詩
鈴木新太郎訳
 

この詩は青春時代の原風景だ

老年期になると

恋も憎みもあらずして
いかなるゆゑにわが心
かくも悩むか知らぬこそ
悩みのうちのなやみなれ

そんなふうにもいかん

死が近づいてくると
生きるということが問題になってくる

こういう雨は
絵に?
難しいな

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする