このお話について語る前に、「おにの話し」について。
小学校時代の国語の説明文に「おにのはなし」とかいうものがあって、なまはげの鬼やら節分の鬼やら、日本にある鬼の話しについて理解を深める文章がありました。
その部分を終わったときに、担任の先生(私の大恩師)が「これ以外の鬼の話しについて書いてきてください」という宿題を出しました。
鬼=悪さをするもの、恐ろしい、しかイメージがなかった私だけど、これ以外にも「やさしいおに」のお話があるんじゃないかと思って(みんなが書きそうな鬼の出てくるお話以外のものを絶対見つけてやりたかった!)、見つけたのが、「大工と鬼六」の話し(何度橋をかけても流されるくらい流れの早い川に、村一番の大工どんに変わって鬼が橋をかける、鬼は大工どんの目玉を取り上げる代わりに、「自分の名前を当てることができたら目玉を取るのをやめる」、という。大工どんは奥さんが子供に歌って聞かせていた子守唄の中に答えを見つけ、見事に名前を言い当てるというお話)と、この「ないたあかおに」でした。
確か、道徳の教科書にも載っていたような気がします。
人間と仲良くなりたいと思った赤鬼。看板を立てて待ちますが、人間は怖がって来てくれません。そこで、友達の青鬼が悪者の役をし、村に出て大あばれ。そこへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつけるという芝居を打ちます。
そうして赤鬼は、人間と友達になるのですが・・・そのことがあってから、赤鬼の家へ青鬼が遊びにこないことを気にして、赤鬼は彼の家を訪ねます。
するとそこには、青鬼の書いた手紙が―。
私は、幼児期にこのお話を知らず、小学校時代、自分で本を読むようになって、とある本に載っていた部分で読みました。涙を流して泣いたのを覚えています。当時、鬼=悪というイメージしか持っていませんでしたから、「人間が好きで優しい赤鬼。でも、もっと優しく、友情にあつい鬼もいる」こういう鬼のお話もあるんだ、ということを知ることができたのがまず大きいプラス。
日本童話の傑作だと思います。
さて、ここで問題になるのが、本作のテーマであろう、「友情」や「違うテリトリーの人とも仲良くする」ということなど。
赤鬼と青鬼どっちがいいんだっていう人はいると思います。私も大人になってそれを考えました。
私はお話を読んだ当時は青鬼でした。自己献身的な生き方をしている青鬼の方に惹かれたのです。
けど、いろいろな人の意見を見てみるとなかなか辛口の見方もあるようで、例えば、
①「本当に本当に赤鬼のことを思うなら、手紙には『赤鬼くん、毎日楽しく過ごしてますか?僕はちょっと色々な所に行きたくなったので、旅に出ますよ。帰ったらまた連絡するからね』程度にすべきだったのではないか?確かに本心は『赤鬼のために』したことだろうけど、それを書いてしまったら、読んだ赤鬼は青鬼への負い目をずっと感じて生きて行かなきゃいけないのじゃないか?』
とか、
②「青鬼は赤鬼のためをほんとに思うなら、君が側にいてやってはどうか。見た目で判断する人間どもより、親友の青鬼が赤鬼のそばにいるべきだってことが何で分からないんだ」
「青鬼が『ぼくが憎まれ役買って出るから』って言い出すのも、それに乗っかる赤鬼も、どうかと思う。青鬼に迷惑かかることくらい、気づけよ」
でもちょっとまって。
物事、それをやってからでないと気づかないコトだってあるんじゃないかな、と思うんです。
ナイフや包丁をどれだけあぶないあぶないといったところで、実際に手に持って料理して「肉も魚も切れるんだ」ってわかる、実際に手を切ってしまって危ないってわかる。
実際に体験しなければモノはわからないのです。
それが、友情という、人によって感じ方が違うモノであっても。
AさんとBさんは大の仲良し。AさんはCさんをBさんに紹介するときに、仮にCさんもAさんにとっての大の仲良しで「Cさんっていい人なんだよ」と紹介しても、Cさんがあまり好ましくない人で「Cさんって、ちょっとね・・・」と紹介しても、感じ方は実際に会う当人しかわからないのです。
私が思うに、2匹の鬼は、「お互いに」本当の友情がどういうものかというのはこの一件があるまで気がつかなかったんではないでしょうか。
赤鬼は「青鬼が誰にも変えがたい大切な友人とまでは思ってはいなかった」とは言いがたいけど・・・。
青鬼は提案した時からすでに行く末は見えていて、それでもやった・・・その方が赤鬼が幸せになれると思ったから。
青鬼が去って、赤鬼は青鬼がどれだけ自分を思いやってくれていたかに気が付いた、いくら後悔しても、伝えたい相手はもういない―
友情に間違いはないと思うけれど、ただ―ただ二人はお互いに気が付かずすれ違ってしまっただけ―
青鬼は、いつまでも赤鬼にとって「一番の友だち」でいたかったから、置手紙を書いて去ってしまったのかも。 「大勢の友だちの内の一人」になってしまう、と思ったからなのか、それとも・・・。
あるいは、青鬼も、人間と仲良くなりたかったんでは―赤鬼がうらやましかったんでは―とも思います。ちょうど、同じ人を好きになった2人の男みたいに。
でも、それを卑怯、ずるい、とは思いたくない。
私も、青鬼のような生き方をしてきた様に思うから。
おかけで、損も得もいっぱいしてきたけれど・・・。
でも、赤鬼のように、必死に何かを手に入れたくてある人間の力を借りた結果、思わしくないことに発展したこともあります。
そうやって人は変わっていくのだろうと思いませんか・・・。
強くなっていくのだろうと思いませんか・・・。
小学校時代の国語の説明文に「おにのはなし」とかいうものがあって、なまはげの鬼やら節分の鬼やら、日本にある鬼の話しについて理解を深める文章がありました。
その部分を終わったときに、担任の先生(私の大恩師)が「これ以外の鬼の話しについて書いてきてください」という宿題を出しました。
鬼=悪さをするもの、恐ろしい、しかイメージがなかった私だけど、これ以外にも「やさしいおに」のお話があるんじゃないかと思って(みんなが書きそうな鬼の出てくるお話以外のものを絶対見つけてやりたかった!)、見つけたのが、「大工と鬼六」の話し(何度橋をかけても流されるくらい流れの早い川に、村一番の大工どんに変わって鬼が橋をかける、鬼は大工どんの目玉を取り上げる代わりに、「自分の名前を当てることができたら目玉を取るのをやめる」、という。大工どんは奥さんが子供に歌って聞かせていた子守唄の中に答えを見つけ、見事に名前を言い当てるというお話)と、この「ないたあかおに」でした。
確か、道徳の教科書にも載っていたような気がします。
人間と仲良くなりたいと思った赤鬼。看板を立てて待ちますが、人間は怖がって来てくれません。そこで、友達の青鬼が悪者の役をし、村に出て大あばれ。そこへ赤鬼が駆けつけて、青鬼をやっつけるという芝居を打ちます。
そうして赤鬼は、人間と友達になるのですが・・・そのことがあってから、赤鬼の家へ青鬼が遊びにこないことを気にして、赤鬼は彼の家を訪ねます。
するとそこには、青鬼の書いた手紙が―。
私は、幼児期にこのお話を知らず、小学校時代、自分で本を読むようになって、とある本に載っていた部分で読みました。涙を流して泣いたのを覚えています。当時、鬼=悪というイメージしか持っていませんでしたから、「人間が好きで優しい赤鬼。でも、もっと優しく、友情にあつい鬼もいる」こういう鬼のお話もあるんだ、ということを知ることができたのがまず大きいプラス。
日本童話の傑作だと思います。
さて、ここで問題になるのが、本作のテーマであろう、「友情」や「違うテリトリーの人とも仲良くする」ということなど。
赤鬼と青鬼どっちがいいんだっていう人はいると思います。私も大人になってそれを考えました。
私はお話を読んだ当時は青鬼でした。自己献身的な生き方をしている青鬼の方に惹かれたのです。
けど、いろいろな人の意見を見てみるとなかなか辛口の見方もあるようで、例えば、
①「本当に本当に赤鬼のことを思うなら、手紙には『赤鬼くん、毎日楽しく過ごしてますか?僕はちょっと色々な所に行きたくなったので、旅に出ますよ。帰ったらまた連絡するからね』程度にすべきだったのではないか?確かに本心は『赤鬼のために』したことだろうけど、それを書いてしまったら、読んだ赤鬼は青鬼への負い目をずっと感じて生きて行かなきゃいけないのじゃないか?』
とか、
②「青鬼は赤鬼のためをほんとに思うなら、君が側にいてやってはどうか。見た目で判断する人間どもより、親友の青鬼が赤鬼のそばにいるべきだってことが何で分からないんだ」
「青鬼が『ぼくが憎まれ役買って出るから』って言い出すのも、それに乗っかる赤鬼も、どうかと思う。青鬼に迷惑かかることくらい、気づけよ」
でもちょっとまって。
物事、それをやってからでないと気づかないコトだってあるんじゃないかな、と思うんです。
ナイフや包丁をどれだけあぶないあぶないといったところで、実際に手に持って料理して「肉も魚も切れるんだ」ってわかる、実際に手を切ってしまって危ないってわかる。
実際に体験しなければモノはわからないのです。
それが、友情という、人によって感じ方が違うモノであっても。
AさんとBさんは大の仲良し。AさんはCさんをBさんに紹介するときに、仮にCさんもAさんにとっての大の仲良しで「Cさんっていい人なんだよ」と紹介しても、Cさんがあまり好ましくない人で「Cさんって、ちょっとね・・・」と紹介しても、感じ方は実際に会う当人しかわからないのです。
私が思うに、2匹の鬼は、「お互いに」本当の友情がどういうものかというのはこの一件があるまで気がつかなかったんではないでしょうか。
赤鬼は「青鬼が誰にも変えがたい大切な友人とまでは思ってはいなかった」とは言いがたいけど・・・。
青鬼は提案した時からすでに行く末は見えていて、それでもやった・・・その方が赤鬼が幸せになれると思ったから。
青鬼が去って、赤鬼は青鬼がどれだけ自分を思いやってくれていたかに気が付いた、いくら後悔しても、伝えたい相手はもういない―
友情に間違いはないと思うけれど、ただ―ただ二人はお互いに気が付かずすれ違ってしまっただけ―
青鬼は、いつまでも赤鬼にとって「一番の友だち」でいたかったから、置手紙を書いて去ってしまったのかも。 「大勢の友だちの内の一人」になってしまう、と思ったからなのか、それとも・・・。
あるいは、青鬼も、人間と仲良くなりたかったんでは―赤鬼がうらやましかったんでは―とも思います。ちょうど、同じ人を好きになった2人の男みたいに。
でも、それを卑怯、ずるい、とは思いたくない。
私も、青鬼のような生き方をしてきた様に思うから。
おかけで、損も得もいっぱいしてきたけれど・・・。
でも、赤鬼のように、必死に何かを手に入れたくてある人間の力を借りた結果、思わしくないことに発展したこともあります。
そうやって人は変わっていくのだろうと思いませんか・・・。
強くなっていくのだろうと思いませんか・・・。