今朝、聖書から 与えられた み言葉は、ここであります。
(旧約聖書) 箴言 24:10~12から
「もしあなたが、悩みの日に気をくじくならば、
あなたの力は弱い。
死地にひかれゆく者を助け出せ、
滅びによろめきゆく者を救え。
あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
心をはかる者はそれを悟らないであろうか。
あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。
彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。」
[筆者注 ”心をはかる者””あなたの魂を守る者””彼”=神]
・・折しも、この本の中の、記事に感銘・共感を受けていた折に与えられた、聖句であった。マッチしている。
『この法から浮かび上がる国家のありように「否を」』と題されて書かれた、佐々木真輝さん(北上聖書バプテスト教会牧師)の文章{写真の本『なぜ「秘密(保護)法に反対か』に掲載}から、今 キリスト者であり、聖書を信じ、神に従いたいと願う者らの、この政治・社会の動きを、どのように捉え、、どのくらいまでそれらの事にコミット(関わる)していくべきか、・・と考えて迷っておられるクリスチャン兄弟姉妹に。ぜひ私から、強調させてください。以下を、先ずは、
ローマ書13:1のあの有名な箇所 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によってたてられたものです。」
・・ならば、日本の今の政権が、悪法をどんどん作り建てて、憲法を廃し、国民の人権を軽んじるような政治を行っていっても、この聖句を適用させて、自らを、言い聞かせ(丸めこみ)ますか?・・”上に立つ権威なのだから(もしくは我ら国民が選んだ政権なのだから)、と。否!
前述の論文では、こう述べます、「(ローマ書13:1の光のもとで)現代の我が国の有り様を考えるなら、政治家や官僚の権力以上に、この国の主権者である国民として、国の行く末に対して自ら発言し、判断をし続けることが重要なのではないでしょうか。」うん。
さらに、続けます。、
「国民主権を謳う我が国の政治システムの中では、国民が政治的に中立であることはできません。権力者たちが付託された権力を誤った用い方で行使することに対して ”否” と言わなければ、私たちは、その濫用を肯定することになります。」
・・そうです、!だから、デモでもするし、署名もする、勉強をして、・・私達1人ひとりは、政治が正しくされているか、きびしく監視・口出しをする必要があるわけです。(私は、それが成熟した民主主義国家における、国民の義務でもある、と思うようになりました。)
そして、続きます・・いいですか!もしクリスチャン諸君で、
『霊的なことだけに専念していればよい。天国があるのだから。この世とのことは、距離をおくべきである』と決めている方があれば、この以下の文章について、ぜひ..
「キリスト者がもっぱら『霊的』な事柄に専念して、政治的な不正義に何ら意思表明をしないとしたなら、たとえ教会の中で弱者の側についていたとしても、国の中にあっては『高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵』の壁の側につくということが起こり得ます。それは信仰の歩みを『内心の問題』に矮小化させ、外形的にはシステムに従うことを求める権力者の論理に従うことと通底するように思えます。」
深く瞑想して、考えてみてください。
(旧約聖書) 箴言 24:10~12から
「もしあなたが、悩みの日に気をくじくならば、
あなたの力は弱い。
死地にひかれゆく者を助け出せ、
滅びによろめきゆく者を救え。
あなたが、われわれはこれを知らなかったといっても、
心をはかる者はそれを悟らないであろうか。
あなたの魂を守る者はそれを知らないであろうか。
彼はおのおのの行いにより、人に報いないであろうか。」
[筆者注 ”心をはかる者””あなたの魂を守る者””彼”=神]
・・折しも、この本の中の、記事に感銘・共感を受けていた折に与えられた、聖句であった。マッチしている。
『この法から浮かび上がる国家のありように「否を」』と題されて書かれた、佐々木真輝さん(北上聖書バプテスト教会牧師)の文章{写真の本『なぜ「秘密(保護)法に反対か』に掲載}から、今 キリスト者であり、聖書を信じ、神に従いたいと願う者らの、この政治・社会の動きを、どのように捉え、、どのくらいまでそれらの事にコミット(関わる)していくべきか、・・と考えて迷っておられるクリスチャン兄弟姉妹に。ぜひ私から、強調させてください。以下を、先ずは、
ローマ書13:1のあの有名な箇所 「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によってたてられたものです。」
・・ならば、日本の今の政権が、悪法をどんどん作り建てて、憲法を廃し、国民の人権を軽んじるような政治を行っていっても、この聖句を適用させて、自らを、言い聞かせ(丸めこみ)ますか?・・”上に立つ権威なのだから(もしくは我ら国民が選んだ政権なのだから)、と。否!
前述の論文では、こう述べます、「(ローマ書13:1の光のもとで)現代の我が国の有り様を考えるなら、政治家や官僚の権力以上に、この国の主権者である国民として、国の行く末に対して自ら発言し、判断をし続けることが重要なのではないでしょうか。」うん。
さらに、続けます。、
「国民主権を謳う我が国の政治システムの中では、国民が政治的に中立であることはできません。権力者たちが付託された権力を誤った用い方で行使することに対して ”否” と言わなければ、私たちは、その濫用を肯定することになります。」
・・そうです、!だから、デモでもするし、署名もする、勉強をして、・・私達1人ひとりは、政治が正しくされているか、きびしく監視・口出しをする必要があるわけです。(私は、それが成熟した民主主義国家における、国民の義務でもある、と思うようになりました。)
そして、続きます・・いいですか!もしクリスチャン諸君で、
『霊的なことだけに専念していればよい。天国があるのだから。この世とのことは、距離をおくべきである』と決めている方があれば、この以下の文章について、ぜひ..
「キリスト者がもっぱら『霊的』な事柄に専念して、政治的な不正義に何ら意思表明をしないとしたなら、たとえ教会の中で弱者の側についていたとしても、国の中にあっては『高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵』の壁の側につくということが起こり得ます。それは信仰の歩みを『内心の問題』に矮小化させ、外形的にはシステムに従うことを求める権力者の論理に従うことと通底するように思えます。」
深く瞑想して、考えてみてください。