人間の心の中が、冷え切ってこれ以上ないくらい冷たくなった状態を、私がたった今、”心的・絶対零度”と名付けた。(作家・三浦綾子の小説にも、『氷点(ひょうてん)』という名の小説があったようだ。)心が冷たく冷え切ってしまったら・・身動きするためのエネルギーの供給がなくなって、この世の中で、・・仏教などでいう”無限地獄”、またその、キリスト教においても”地獄”などというが、・・かなり、その状態というのは、この現生においての、それに等しいものじゃないか、と思う。かつて、なぜだか、私もそこに居た。なぜだろうか、生まれて物心ついて、普通の家庭で、ふつうに成長して。・・しかし、”なにがあったわけ”か明確にわからないが、だんだん、私は、内面的孤独感と、誰とも理解し合えないという、暗闇に落ち込んで行ったゾ。20歳前後位には、すっかりその中に。
キリスト(救い主)は、・・十字架上で死刑となり、一度死んだあと、3日の後によみがえるまでの間(ここからは神学論争を巻き起こしそうだ・・例によって、人間の理解の限界による為、各教派の間でさまざまな意見がありそうだ。なんでもいい。)、黄泉(ヨミ)にも下り、死人の救いに努めたということを聞いたことがある。神の御子として、第7天国の御座におられた方が、(地上に人間の形をとって贖い主(私達の罪の身代わり)として生まれたばかりでなく)いわば自ら地獄の底にまで下りて行き、罪びとの救いにつとめた、という。こういう風に記すと、フィクション(架空の話)みたいで、なにをバカバカしくって・・と、クリスチャンでもそうでない人でも、一笑に伏すかもしれない。でも、受け売りでなくって、”私自身が、このことを、ノンフィクション(実話)として、自分自身に関連させて、思い当たる節がある”・・から、充分に、確信できる事実なのです。そう、彼は、救う力のある方。力あり、愛ある方。神の御子そのものであり、無限の愛(自己犠牲の)を持てる、唯だ一つの存在なのです。
現に・・私が20歳前後の頃には、ほとんど毎日、死ぬことしか考えなかった。なぜだろう。この世とこの自分自身と、人間の全てに失望していたね。希望も未来も考えなかった。早くこの世とおさらばしたかった。勝手な思い込みで、死ねば、次の人生か、または天国がある、ように思えてた。そんな暗闇で、たった1人、そのことを実行しようとしたけれど、・・ひとりだけ、それを許さない(私への愛ゆえに)存在があったことを、後に身をもって、わかった。その名は、イエスといわれ、キリストと言われる方だった。まさしく、彼(神のひとり子)は、私が黄泉の底に下らん、とするその瞬間に、・・(「2000年前に、私が、十字架上で、あなたの身代わりになった!罪の代償、命の代価を支払ったのだから、あなたは死ななくていいのだ、愛する子。・・」と言って、救いに来てくれた、光の存在。だから、真実(ほんとう)に、イエス・キリストは、あなたの、私の救い主なのです。
もう一度・・言う、彼に救えない魂は、一つもない。もちろん、それは、あなたの自由意思にゆだねられている。無償のギフト(賜物)を、受け取るか、受け取らないか・・。神様は、”無理強い”しない方、強制を嫌い、人ひとり1人の、”自由意思を尊重される”お方ですから。
キリスト(救い主)は、・・十字架上で死刑となり、一度死んだあと、3日の後によみがえるまでの間(ここからは神学論争を巻き起こしそうだ・・例によって、人間の理解の限界による為、各教派の間でさまざまな意見がありそうだ。なんでもいい。)、黄泉(ヨミ)にも下り、死人の救いに努めたということを聞いたことがある。神の御子として、第7天国の御座におられた方が、(地上に人間の形をとって贖い主(私達の罪の身代わり)として生まれたばかりでなく)いわば自ら地獄の底にまで下りて行き、罪びとの救いにつとめた、という。こういう風に記すと、フィクション(架空の話)みたいで、なにをバカバカしくって・・と、クリスチャンでもそうでない人でも、一笑に伏すかもしれない。でも、受け売りでなくって、”私自身が、このことを、ノンフィクション(実話)として、自分自身に関連させて、思い当たる節がある”・・から、充分に、確信できる事実なのです。そう、彼は、救う力のある方。力あり、愛ある方。神の御子そのものであり、無限の愛(自己犠牲の)を持てる、唯だ一つの存在なのです。
現に・・私が20歳前後の頃には、ほとんど毎日、死ぬことしか考えなかった。なぜだろう。この世とこの自分自身と、人間の全てに失望していたね。希望も未来も考えなかった。早くこの世とおさらばしたかった。勝手な思い込みで、死ねば、次の人生か、または天国がある、ように思えてた。そんな暗闇で、たった1人、そのことを実行しようとしたけれど、・・ひとりだけ、それを許さない(私への愛ゆえに)存在があったことを、後に身をもって、わかった。その名は、イエスといわれ、キリストと言われる方だった。まさしく、彼(神のひとり子)は、私が黄泉の底に下らん、とするその瞬間に、・・(「2000年前に、私が、十字架上で、あなたの身代わりになった!罪の代償、命の代価を支払ったのだから、あなたは死ななくていいのだ、愛する子。・・」と言って、救いに来てくれた、光の存在。だから、真実(ほんとう)に、イエス・キリストは、あなたの、私の救い主なのです。
もう一度・・言う、彼に救えない魂は、一つもない。もちろん、それは、あなたの自由意思にゆだねられている。無償のギフト(賜物)を、受け取るか、受け取らないか・・。神様は、”無理強い”しない方、強制を嫌い、人ひとり1人の、”自由意思を尊重される”お方ですから。