徳井由美子の音楽活動(アイリッシュ・ハープ、弾き語り/シンガーソングライター)、思い、日々の記録(2014年以降)

神戸出身・大阪在住。クリスチャン、シンガーソングライター、アイリッシュ・ハープ演奏や他活動・思いの記録

決して唯物論でなく、・・私達に関わり合いを常に持とうとしている絶対的な存在を信じているということ

2015-10-14 08:37:01 | 信仰・瞑想・考察

 SNS(インターネット上のFACEBOOKなど)での友達の、さまざまな角度・視野からの投稿を次々見ていて、感じざるを得なかったこと・・、私のつながりが、クリスチャンから牧師、また共産党関係者に、リベラルな観点から政治・社会問題に取り組む人、また他に、音楽関係、日々の生活の話題が主な記事の人、千差万別だ・・・実に価値観がめくるめく、めまぐるしい。

 結局、特に政治・社会問題に関する意見を見ていると、その投稿主が、唯物論的観点か、イデア(観念)論的観点の、どちら寄りのスタンスに立って物事を考えているか・・というところに焦点をあてて、知らず知らずのうちに、私も大ざっぱに判断をつけて、分類?しつつ読んでいるなぁ、ということを今思った。・・そこから転じての、考察です。(突拍子もありません)
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 キリストを神の子、救い主として信じ、また世界を創造した神、絶対の創造主の存在を信じる私(共)は、断じて、唯物論者ではない。この世が存在する事は、物質や原子単位から始まったのではない、強い意志を持つ存在・神があって、意図を持って世界を創り、人を創った事を、自分個人の事と関係して信じることができる。

 世界を、意思をもって創られた神は、天に存在されるが、現在もこの地球の私のいる場所に無関心ではないということを、今強く思った。非常に、いつも小さな存在の人間(私個人)に、関わりを持ってこよう、と常にされていることを、証明できる、私なりの感覚(経験)が、確固として有るのだ!ということを(これは、神の存在を証明する、ということに、なり得ないのか?・・ちなみに、この世界では、”神の存在を証明することと、神の存在がないことを証明すること”の両方が不可能である、といわれているが!?)、ここで強調したい。
 それは・・この世に生きる、私(達)を、神が放っておかれない、という事実である。それは、どういう事か、というと、それは、神が、私(達)を、「天に招こう」としている事実である。天に入る、とは”永遠の命”を意味する。それは、この世の命が終わったあとの命の事でもあるが、それだけでなく、この世にある時から、始まっている命である。

 この世で、自分の好き勝手に、思うように楽しく生きようとする。だが、そうはさせてくれない(何か、がさせてくれない、と感じるだろう、誰もが)。倫理や道徳観、自己の良心、そういったものだけでなしに、状況がそうであったり、何より、そうはさせてくれない、力が働く!・・それが、後になってわかるのだが、神の力なのです。・・苦難や試練を与えて乗り越えさせ、また決して楽でない方向に私達を向くように働きかける・・結局は、それが、”永遠の命(道)”に至るように(狭き道)、人を仕向ける、神の生きた方法・愛・意図なのでした。
 ですから・・今、私はこの世にこの身を存在させながら、ふとこのように考えたのです、唯物論なら、この肉体というものがあってこそ、の私です。ですから、この身が滅べば、私も終わりですなぁ。しかし・・(同時に神様の永遠なることを瞑想していたんですが)いや、”もし”、永遠に生きられる(それが死後のよみがえりのあとのことなのか、このまま生き続ける(再臨による)のか、そのどちらかである)のなら、まんざら、終わりではないのだ。ほんとうに、この精神・・いや、私の魂と記憶(は全部ではないでしょうが)を持ったまま、つまり、この私が永遠に生きられる・・神とともに!ことに、なるの”かも”知れない?!。それは偉大なことだ・・
「もし」?「かも」?では、ないのだ・・建前上、いやいや、本心、キリスト者は永遠の命をもらったもの、と信じているはずなのだが、いや、ほんとう、真実なのですね。

 完全(パーフェクト)である、何が完全か、って、神の、私達に関わろうとする、その業が、である。そこに、意思がある、必然がある。意図を持って、私(あなた)を天国=永遠の命、に招きいれようとする神の業がある。この世で私(達)が抵抗しない限り、私(達)はそのように、招き入れられる。そうすると、神は満足される。そしてこの世で、やっと私も、安心し、安寧でいられる。この世でそういった状態で私が生きられている、ということが、神の意図する”そこ”に、私も招き入れられている(今・現世から始まる永遠の命に入っている)という何よりの証なのです、とそう思う、と。(かつて、そうでなかった時の自分の、この世界での居心地の悪さ。自分に対する、違和感とが、よい比較である)
 もし、私がまた・・この招きからはみ出るようなことをすれば、愛を持って、神はまた、そこへ招くように導かれるだろう。・・というように、たえず、神は、何らかの形をもって、人に働きかけていることが、みなさんにも同じように、証明できるのでは?ないかと思うのです。

 この世の中の時勢・政情がらみでの投稿・意見文の中で、”この世でのことだけで、終わり”・・というような、多くの投稿記事を読み、つらいものを感じましたので、こんなふうに思って書いてみました。


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