Tokyo日記

社会学者のよしなしごと

許せないことの基準

2007-02-11 13:58:32 | よしなしごと
前のコメントで、「スパゲッティ屋さんに行きましょう」といわれましたが、前はちょくちょくいって、コンパにも使ったりしていたパスタ屋さんに、最近はずっと行っていない(多磨駅のパスタ屋さんじゃありません)。

なぜかというと、前回行ったときに、ちょっと不愉快な思いをしたからです。平日にひとりでパスタが食べたくなったので、ランチタイムの佳境に入る前にひとりでふらりと行きました。ランチタイムが始まったばかりで、一番乗りだったんですが(ひとりでご飯を食べようと思ったら、カウンター席のあるお店は行きやすいけれど、そうでない場合は、やっぱり気を使うので、空いているだろう時間帯に、できれば小さなテーブル(二人がけ)のあるお店に気を遣いながら行くことが多い。わたし自身はひとりでお店に行ったりするのは全然苦にならないタイプだけど、一応気を遣うことは確か)、そのうち団体客が入ってきて、わたしがちょうどテーブルの真ん中を占めていたので、一回譲って端の席に移動しました。それくらいは別に当たり前だと思ったのですが…。

そのうち混んできて、団体客がいるせいか、待つお客さんが出てきたんです。そしたら即座に、「相席をお願いします」っていわれて、エッとびっくり。わたしはあと一口のデザートが出てきたら、1-2分でお店を出ようかというところだったので、そんなときにちょっと待つお客さんが出てきたとしても、相席っていわれると思いませんでした。しかも、さっき一回譲ったのに、また席を詰めて相席をしろってちょっとなんだなぁと(しかも男性のひとり客がいたのに、男性には何にもいわないあたりもちょっと…)。食べ終わって長居をしているならともかく、1-2分、最長で5分、がそんなに大切なんでしょうか?

しかも小さな子どもと、どういう関係か知らないけれど、微妙な感じの変なカップル(?というかお互いに気があるようなふたり)に包囲されるかたちになってしまい、全員、居心地悪いことこのうえなし、でした。早々に出ましたが、釈然としない気持ち…。今まで一回利用したら、普通でも5-6千円は、コンパでは3-4万円近く使っていたんですが、それから一度も行っていません。お店には痛くも痒くもないかもしれませんが、最近通りかかっても、お客さんのいないことも多い。レストランって、サービスを含めてのサービスだから、まぁ、あの調子の接客をしていたら(前から接客はよかったと思ったことはなかったけれど)、お客さんが離れていくのも当然だと思います。少しでも多くのお客さんをと思うのかもしれないけれど、すべてのひとに気持ちよく帰って貰わないと、ひとりのお客だって、やっぱりお客なんじゃないのかなぁと。将来の顧客を失ってまで、今の利益を重視しても、仕方ないんじゃないか。

レストランを経営していると、ひとりでも多くのお客を、という気持ちもわからなくもないですが、やっぱり不愉快にさせないこと、できないことはできないと断ることも大事だと思います。以前、前から行っていた(それも、いつもはがら空きの)お店に行ったら、雑誌で取り上げられたあとだったこともあって、ものすごく混雑していました。そこで断られたら、「ああ、また行ってみよう」と思ったし、その次に行ったときに満足感がいっそう高まったのかも知れませんが、ウェイティグバーに通されたあと、空いた席に移動させてもらえるのかと思ったらそこで食事までして欲しいといわれて、一度びっくりし、注文した品が1時間で1品しか出てこない(混雑しきっているから)ので空腹に耐えられなくなり、結局お店を出る羽目に陥りました。やっぱりそれから二度と行ってない…。一過性の雑誌のブームが去ったあとどうしたんでしょう? 初めて行ったひとも、前から行っていたひとも、また行きたいなぁと思う雰囲気ではなかったことは明白でした。

わたしはせっかくの食事が台無し、と思うと、こういうことは、割と根に持つタイプなんですが(というか、もう二度と経験したくないなぁと思って二度と行かない)気にならないひとは気にならないようです。不思議。「そんなつまんないことで怒らなくても」っていわれるんですが、その「つまんないこと」の基準はひとによってかなり違うみたい。

例えばわたしは、駅のエレベーターを我先に使うひとが嫌いです。新宿駅では、数分に一本電車が来るため、大きな荷物をもったひと、ベビーカーのひと、身体の不自由なひと、がいつまで経っても乗れずに取り残され、使う必要のない健常者が機敏な動作で我先にと乗り込んでいってしまい、やっとエレベーターが戻ってきたら次の電車から新しいひとが補充され、ということが繰り返され、スーツケースをもったわたしは、あまりの公共道徳心のなさに呆れ果てる、と思ったのですが、ベビーカーのお母さんたちはじっと耐えてました。きっと何度も経験しているのでしょう。東京駅では、やっぱり機敏な動作で健常者が出て行ったあと、誰も「開」のボタンを押すという配慮もしてくれなかったため、機敏な動作のできないひとたちがまた元の階に戻されるという経験もしています。海外旅行に行くために、スーツケースをもって移動すると、必ず数回は腹を立てることになります。他人に対してのこの無関心ぶりは何なんだろうと。この間は、ぎゅうぎゅうに詰め込まれたエレベーターで唯一「閉」ボタンに近い若い男性が、音楽を聴きながら、携帯メールに熱心で、みんながずっと扉が閉まるのを待っているのにしてくれず、かなりの時間、扉の開いたエレベーターに留め置かれました。この周囲への無関心ぶりもかなり偉いし、そもそも、エレベーター使う必要がないんだから、そんな傍若無人な振る舞いをするなら、使わなきゃいいのに(こういうひとは、自分が急いでいるときは、足の悪いひとが歩いていても、さっさと「閉」ボタンを押して、エレベーターを動かすひとでもあります。何度も目撃)と、「ああ、こういうひとが、身近にいたら嫌だなぁ」と思うのですが、こういうときにやっぱり「どうでもいい」と不思議そうにいうひとと、「日頃からいつもワタシも思っていた」というひととに、はっきりとわかれます。で、ストレス溜まらないのは、「どうでもいいじゃん、そんなこと」っていえるひと(で、そういうひとが怒るときの基準は、わたしにとってはどうでもいいことが多かったりするのがまた不思議)。

許せること、許せないことの基準はひとによって大きく違うのだけど、うまく共存していくにはどうすりゃいいんでしょうか? ある意味、わたしは無用なストレスに弱いんだろうなぁと思うと、ちょっと悲しくなります。ううっ。もっと、穏やかに生きたいです…。



大学教員は何もいうなっていわれても…。

2007-01-27 15:35:23 | よしなしごと
なんというのか、つね日頃から納得がいかないなぁと思うのは、男性が「大学教員のくせに、『女一般』の問題を語るな」という陰口をいうことです(あ、この場合の男性も大学教員です。なぜかこういう陰口って本人に聞こえてくるし、わたし自身も、他の女性大学教員のことをこう批判している場面に遭遇することがあるので、さもありなんと思う)。

フェミニズムのなかには、専門職批判という伝統が長くあって、自分自身が立身出世をして地位をあげるのではなく、「女」の問題を考えよう、というスタンスが強くありました。これならわかるんですけどね、専門知批判や、単なる平等主義女性解放論批判として。

しかし、何でフェミニストでもないひとに、「大学教員のくせに」っていわれて、わたしが大学教員だからって、その発言内容の妥当性が批判にさらされなければならないのか?と思うと「?」だと思っていたのですが、最近謎がとけたのです。

主婦は抑圧されている。ので、働いていると抑圧されていない、ということなんですね。なーんだ。不払い労働をしている無職のひとに対し、賃金を得ている働く女性は経済階級が上だから、抑圧されていない、むしろ主婦を働く女性が抑圧している、という階級的ピラミッドがあるらしいのです。…。

「働く女性VS主婦」ってそんなに自明な構図でしょうか? 妊娠を機にした離職率は7割ですから、働く女性もいつ、主婦になるかわからないし、主婦が働いたら「女性解放だ、万歳!」ってなわけではないでしょう。なんだか単純だな。そもそも、今専業主婦をやれるひとって、夫の給料が高いってことを意味しているのであって、それはそれで経済階層的には(世帯で見れば)高いことのほうが多いと考えるほうが妥当でしょう。

で、これに対して、さらによくある中産階級批判として、「低賃金で働かなければならない女性」「主婦になって保護されたり、暖かい家庭を作る権利を侵害されている女性」たちがいるのだ! っていうことで、「家庭」や「主婦」の価値を守って、なおかつ中産階級主婦を「恵まれているのに文句をいう抑圧者」として名づけるという論法があります。

こういうのってどうかと思うのだよねぇ…。「家庭」や「主婦」の価値を守りたいなら、そんな過酷な労働をしているひとたちを口実に使うのも倫理的にどうかと思うし、すべての専業主婦がそんなにぬくぬくと幸せかどうかだってわかんないじゃないですか、と思うのだけど。

こういう発想ってすべては経済や階級でしかモノゴトを計れない旧態依然とした数十年前のマルクス主義的発想のような気がします…。例えば性暴力ってそんなもんじゃない気がするんですよね。どんな階層に属していようが、例えば夜道で襲われるとして、そこで問題になるのは、まず「女」であること、そして「美人」「ブス」とか「年増」「ギャル」とか性的対象としての値踏みでしょう。だからこそ、振り向いたら「ブス」だったとか、「オカマ」だったとか、そういう一方的な評価を押し付ける漫画にみんなが笑えるのは、同様のコードを共有しているから、だと思うのですが…。むしろ専門職だけど(だから)女としての魅力はない、とか、いろいろな貶め方が女性の場合可能なのは、いくら働いていようが何だろうが、女性としての評価という尺度から逃れることが難しいこととにある、んじゃないかと思います。

それに、身分が高いからこそ象徴的に暴力の対象になることだってあるわけだし、家庭にいたって、社会に繋がっていないわけではないし、家庭内にだってDVがあるかもしれない。恵まれているからいいだろ、というようにはならないと思うんですが…。それに専門職の職場にだって(だからこそ?)、セクハラがないわけではない(これは対女性だけではなくて、本当にさまざまな意味での暴力は現代社会に蔓延しています)。

何よりも、専門職の女、さまざまな知の権力を(相対的に)行使することのできる女はマイノリティを代表しないので、何もいうなというのだったら、男性の教員だって同様に何もいえなくなるはずなんじゃないかと思うのですが…。勝手に女をカテゴリー化して、これは抑圧されている、とか、こいつは抑圧されていない、誰々はこういってもいい、とか分類しようとすることじたい、勝手に女を分類する権利をもっていると信じている家父長制的な振る舞いとしか思えない。そこはどう整合性がつくのか…謎です。

それに、働いていたって、専業主婦のいるシステムから、何かの恩恵に与っているわけじゃ、全然ないし。専業主婦がわたしにご飯を作ってくれているんだったら、それは感謝しますけど、わたしの利益になっているわけでもないし…。「大学教員は主婦じゃないから抑圧されていないくせに」というひとの奥さんは専業主婦ではないんだろうなぁ、きっと(と思いたい)。

こういうことをいわれ続けていると、本当に仕事を辞めたくなってきてしまいます…。疲れるよ。




奇跡を見た!

2007-01-12 12:29:49 | よしなしごと
アメリカの製品をネットで買って、日本に送ってもらった。以前は、アメリカの友人宅に送って受け取ってもらい、日本に来るひとに頼んでもってきてもらうなどという手間を掛させていたのだが、アメリカ内送料も日本に送る送料もそれほど違わないということで、チャレンジしてみたのだ(日本で輸入代行しているところをみつけたけれど、0をひとつつけて、10倍近くの値段で売っていたので、びっくりした。買うひとは、恐らくアメリカでの価格を知らないのだろうけど。自分で航空券買って行ったほうがましかも)。

あー、正直にいって、まったく期待していませんでした。あのアメリカの会社が、海外に製品を無事に送るなどという難易度の高い技をできるわけがない(アメリカ国内に送ることすらきちんとできないのに。この手のトラブルでは、もう何度も泣きをみてきた)。きっと数ヵ月後に着くんだろうなぁなどと思っていたら、なんと、10日足らずでUPSで到着した。本当にびっくりした。

手痛い関税を取られたが、それでも無事についたとは…。と思ったら、五月雨式に、またUPSから電話が掛かって来て、もうひとつ荷物が来ているという(電話が来るのは、荷物と引き換えに関税を貰うため)。フィラデルフィアになかった製品は、シカゴから出荷されたらしい。すべてを引き取って、伝票(?)をみてびっくりした。

シカゴから来た宛名表、
名前、間違っている。
住んでいる市区名、間違っている(郵便番号はあっていたけど)。
アパートの部屋番号、なくなっている。
電話番号、滅茶苦茶(日本の国番号がすでに84になっている)。

…フィラデルフィアから来た荷物がなかったら、絶対に単独では着かなかったよなぁ…。そうそう、これがアメリカの底力でした。こういう仕事をしてくれる、やる気も責任感もない(当然ですが)非正規雇用の低賃金労働者がたくさんいて、簡単な作業すら、まともに機能したことがない…。なんだかひどく懐かしい気分にさせられました。

到着したことだけでも、やっぱり奇跡だわっ。


謹賀新年

2007-01-05 01:09:06 | よしなしごと
あけましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。
本当に、何というか、日本社会が悪いほうに改編されていくのが、少しでも止まるといいなぁと願わざるを得ません。皆様にとってもよい一年になりますように。




いろいろあって全部いい

2006-12-26 14:43:47 | よしなしごと
運動や学問でやってはいけないこと。

1)相手に(「自分に」でも、結果としては一緒だけど)反省を迫る
2)どちらがより抑圧されているか犠牲のピラミッドを作る
3)相手に(自分に)ないものをあげつらう

まぁこれらのことはだいたい何も生み出さないですね。それどころか、百害あって一利なし。ただ今は政治状況が悪いせいなのか、アイデンティティの複合性の意味を間違って把握しているのか何なのか、こういうことを他人に求めるひとって、いますよね。基本的には良心的な意図から出てきているのはわかるのです。けれど、これは本当にまずいんじゃないかと、いつも思う。

考えるとうんざりしてきたので、詳しくは今度書くとして、わたし個人としては、それぞれが自分のやりたいこと、関心のあることを、やっていけばよく、「いろいろあって全部いい」の精神でゆるゆると好きなようにやればいいんじゃないかと思うのですよ。何が重要で何が重要でないかは、そのひと個人の置かれている立場や関心やさまざまなものによって違うし、それを非難してもしかたないんじゃないかなぁと思います。こういうことって行き着くのは最終的には、「内ゲバ」でしかなくて、もう少しわたしたちは70年代の経験から学んでいいんじゃないでしょうか。

誰が何をいってもいい。そのひとの属性によって、発言のオーセンティシティは決まったりしない。ただ同様に、批判する権利も万人がもつ。それでいいじゃんって思うんですが。

1)自分が反省するのは自由(ただ集合的カテゴリーを使わないように)
2)自分の反省をアピールするのはそのひとの勝手
3)他人に反省を迫るのだけは止めましょう

といつも思います。



オタクになる才能

2006-12-24 06:42:03 | よしなしごと
常日頃から、「オタク」になれるのは、ひとつの才能である、という風に思う。というか、すべてのオタクが天才であることはないけれど、ひとつの道を究めるひとは、やっぱり必ずオタクなのではないか。ま、当たり前ですが。

で、わたしはやはりこの「オタク」になる才能が、欠けてるんですよねぇ…。趣味は充分に暗いと思うのだけど(じゃなきゃ、20代を大学院なんかで、過ごしませんよねぇ)。この間あるひとに、「あなたはつねに何かにはまっているけれど、会う度にその対象が違う」と指摘されましたが、その通り。というか、依存することに依存しているのであって、基本的には熱しやすく、冷めやすい。

だから語学も上手くなんないんだなぁといつも思う。わたしが好きなのは、「新しいことをマスターすること」であって、それ以上の努力ができないのである。いつも思うのだけれど、8割方できた気になるのよりも、残り2割を仕上げて完璧にするほうが労力が掛かるものなんですよね。なんとか楽器で一曲弾けるようになるのと、細かく楽譜通り仕上げていくのであったら、後者のほうが時間が掛かる。そして、前者の伸び幅は大きいからやる気がわくけれど、後者のほうは本当に努力と根性が必要なんです。で、それがない。きっと。

外国語だって、何もできない状態から、「水下さい」「有難う」「違います」がいえるようになるのは、本当に大きな進歩です。おおっという感動がある。そのうちに看板が読めるようになり、文章が読めるようになり、お話だって通じるようになる。それは楽しい。しかしその段階を過ぎて、細かなイディオムを覚えたり、抽象的な単語を増やしたり、正しい発音をマスターしようとし始めると、途端に労力の割りに報われる率が低くなる。そのときに踏ん張れる努力家のひとが、語学をできるようになるのであって、わたしは本当にそういう作業に向かないのだなぁと、今の職場にいるとつくづく思うのである。

ここ数年、はまったものを考えると、オペラに車の運転に高橋大輔。あとは細かく、○○語の習得をちょこっとだけ、とか小さなブームが死ぬほど。嫌いなブームとしてネオリベ。でもいまだにルッツとフリップのジャンプの違いを見分けようとも思わないし、実際できないし…(関係ないけど、佐野稔のコーチっぽい好き勝手な解説って好き。勝手に採点してくれたりするし。去年の全日本の恩田美栄の演技のときに、国分太一が「みんなで行こうよ、トリノへって感じですよね。何とかならないんですかねぇ」といったときには、あまりの薄っぺらさに殺意を感じました。穏やかじゃなくてすみません)。

で、なんでこんなことをつらつらと書いているかというと、過去にひとつだけ、心の底からはまったものといえば、少女漫画だったなぁと少女漫画の歴史を追いながらつくづく思ったからである(社会学も一応極めなくてはいけないんですが、8割理解から10割近くになったなぁというよりも(そういうことが可能かどうかは知らないけれど)、8割方(?)習得したあとに、その8割がどんどんアップデートされている感じ。社会現象は(理論も)動くから。そこが歴史学などのある程度対象が固定化されている学問との違いで、それなりに自分に向いている分野を選んだ気はするけれど、でもこうやって「理解した気になったら興味を失う」っていうのも社会学をやった副作用のような気もするからよくわかんない)。

わたしの読書経験は年代の割には古いというか、中学校時代に萩尾望都の『トーマの心臓』(連載開始が1974年。まだ小学校にも行ってない)を読んで感動し(それまで、『りぼん』とか『なかよし』を付録目当てに買う女の子たちの気持ちはあんまりよくわかんなかった。小学校のときは漫画が禁止されていたし、恋愛ものってつまんないしどーも興味わかない(当たり前)と思っていたからである。買っていたのは『コロコロコミック』330円。月1000円の小遣いのなかからかなりの痛手でしたが、おかげでドラえもんの秘密についてはかなり知っている。あとはピアノの先生のところに置いてある『週刊(少年?)サンデー』。小学1年生が毎週読んでいい本じゃなかったように思うのだけど、今思うと、あの週一の雑誌がわたしのなかに住む「オヤヂ」を育てたとしか思えないんですよねぇ…。あの『サンデー』のおかげで、世の中で女性はどう(性的対象として)見られているのかを学習したし、「あたしって可愛いから何しても許されるの」と思っている女の子のナルシシズムって恐ろしく誤解に満ちていて、馬鹿みたいと思っちゃったんですよ…。わたしがフェミニストになったのは『サンデー』のせいだったという、真実だったら恐ろしい事実ですが、自分の人格形成に少年漫画の果たした役割って大きいって、実は本当に真実なんですよ。怖い)、初めて少女漫画に関心をもったんでした。いやー、あまりに繰り返して読んだんで、英語の教科書を暗記するように知らず知らずのうちに台詞を暗記してしまい、台詞の穴埋め問題をやったらきっと今でも満点が取れてしまうような気がする(とくに2巻)。

それから花の24年組といわれるひとたちの漫画はほとんどすべて買い揃えたのですが(で、死ぬほど読んだんですが。才能があったら漫画家になってたな。なかったから仕方なく教員やってますが)、実家を離れているうちに全部親によって古本屋に売り払われてしまっていました。しくしく。いや、『風と木の詩』と『エロイカより愛をこめて』、『妖子』(池田理代子)は残っていましたが、エロイカはともかく、その選択基準がまったくわかりません。母よ。

で、わたしが少女漫画から距離を取ったのは、明らかに、同人誌系(やおい)作家が台頭してきた頃なんですよね。尾崎南とかCLAMPとか高河ゆんとか。少し遅れて水城せとなとか山田ユギ(←変な字を書いていた頃)とかもなんか読んだ気もするんですが、当時ははまるということはなかったなぁ。ちょうどJ-POPも、松本隆・筒美京平コンビ全盛期を過ぎて、TMネットワークなどの小室サウンドが出てきた頃にはもう聴かなくなったのにすごく似てる(この間お店で、恐らく松田聖子のトリビュートアルバムがBGMとしてかかっていたけれど、今さらながらよく歌詞を聴いてみると、妙に女性の性的媚態がメタファーとして入っていて、ウエットにいやらしくて、呆然としました)。ちなみに4歳違いの妹は両方とも好きだったから、なんかシンクロするものがあるんじゃないかと思うのだけど。

で、「腐女子問題」に触発されてつらつらと考えるのは、なんでわたしは尾崎南とかが好きじゃなかったのだろうかという問題ですね。どーしてでしょー? これがよくわかんないんですよねぇ…。漫画読みはやめなかったけれど、でも「少女漫画」は卒業して、柴門ふみとか、「女」くさい漫画のほうにいったような気がする。まぁ実際ティーンエージャーを卒業するころには、実際の恋愛のほうが遥かに楽しくなっているものだし、いつまでも「少女(漫画)」じゃねーだろ、という気もしますが(個人的ライフステージ)、でもここできっとやおい系の漫画に流れるひとと、女性コミックに流れるひとと、何かを分つ点というものがあるような気がするのです。

(関係ないけれど、漫画評論って作品そのものを分析したものって、あまり面白くないような気がする…。読みは多様なんだし、自分勝手に読ませてくださいという気になる。やっぱり面白いのは読者論で、評者がどうその漫画を読んだのか、ということを抜きにしては面白さはないんじゃないかなぁと個人的にはやっぱり思う。藤本由香里さんなんかが、やっぱりその点上手いと思うんですが)。

まぁよくわかんないんですけど、っていうかわかんないから考えているんですけど、ここらへんで、自分の抱えている問題はフェミニズムの問題なんじゃないかという自覚があったことが大きいような気がしないでもないです。確かにわたしは、「女」であることに違和感がなかったわけではないけれど、「男」になりたいと思ったことは一度もない。「わたしはみんなが期待するようなかたちでの女」ではないかたちで「女」でいたいのであって、「女であること」自体が嫌なわけではないわけですから。あの頃のやおい系のものには、ホモフォビアと同時にミソジニーの匂いを嗅ぎ取っていたような気がします。現在のBL系のものとは、何だか少し違うような気もする。ここから先はもう少し考えて&もう一度読み直してから書くべきだと思うので止めますが、はまったひとのサイドからの意見を聞いてみたいです。

なんだかどうでもいいことで、長くなってしまいました。この辺で。

理解と拒絶の狭間で

2006-11-24 14:49:45 | よしなしごと
以前、研究者によるアカデミックな場だと信じて行った会議で、「みなさん、この場では研究者としてではなく発言してください」といわれて、何をしていいのか、どういう風にその場に存在していいのか当惑し、まったくわからなくなってしまったことがある。しかもわたしはコメンテーターを頼まれていたので、何か発言しなければならなかったのだが、その問題の狭義の意味での当事者ですらないし、自分語りもできないし(する気もないし)、そうなると「いや、本当に、何をいっていいのかわかりません」としか、いうことができない気がした。というか、そういう大きな前提があるということを事前に知っていたとしたら、まったく何をいっていいかわからないとしかいいようがないので、コメンテーター自体を絶対に引き受けなかったし、ポスターのわたしの肩書きのところにある「東京外国語大学教員」という文字はいったい何を意味しているんだろうなぁ…と、本当に混乱してしまった。

いつもの同じ問題の繰り返しになるけれど、○○として発言するということを、自分が勝手に決めたり、他者に一方的に決められたりすることって、いったい何なんだろうと、いつものように考え込んでしまった。逆にこれが、例えばわたしがアルコホリックだったとして、自助グループに自分の問題を抱えて行ったにもかかわらず、「わたしは研究者としてしか、発言しません」といったとしたら、またそれも変な話である。だってそこには「当事者であるはず」という前提が共有されているはずであるから。その当事者の間では、他の属性は、取り立てて問題になる場合以外には、一応不問に付すという暗黙の了解があるはずである。

それでは、アカデミックな会議で研究者が集まった場合には、やはり研究者という立場で発言することしかできないのではないか、そうでない場にしたいのであったら、それは相応の議論とみなの了解が必要なのではないかと思う。

もちろん、研究者かつ当事者というカテゴリーは存在するのであるから、例えばわたしが女性問題の会議で発言しろといわれたら、当事者の経験を話すかもしれない。しかしそれは、それ相応の分析の枠組みを提示したうえでの事例として自分の経験を位置づけるはずだ。その場にアクティヴィストなど、研究者以外のひともいる場であったら、わたしも同じように「女の経験(というものがあるとして)」を話すかもしれないし、彼女のアクティヴィズムの経験とはまったく違った角度から、研究者として意味のある(と自分で思える)分析の枠組みを提示するかもしれない。それはその場にいるひとたちの関係や場の設定によって、臨機応変に変わるし、わたし自身が選択すべき問題だ(その選択が受け入れられるか、拒絶されるかはまた他者の選択である)。

さて、当事者でない問題について、研究者ではなく発言して欲しいといわれたら、一番無難なやり方は、その問題(と当事者)を他者化し、「同じような経験をしなくて済んだ幸せなわたしの加害者性について反省する(振りをする)」ことだろう。しかしわたしは、だいたいの場合、ある種偽善的なこの身振りを取りたくないと思う。その問題がまったく自分の経験に関係のない問題であるとしたら、なぜ自分をそのような場にまでわざわざ出かけていく必要があるのだろうか。どのような意味においてかはわからないが、ある意味、自分の問題でもあると考えるから、その問題を共有しようとして、その場に存在するわけである。そして他者の経験を理解するときには、偽善的ではあれ、他者に同一化して追体験してみようとしたり、または自分の経験を他者の問題にひきつけて解釈してみようとするものなのではないか。だからこそ「今までわたしにはそんな問題は全然関係ないと思っていた。でもこれを契機にそれに気がつかされた。ごめんね」と、親切ごかしに他者の経験を「消費」するだけで終わるのは、間違っているとわたしは思う。他者の経験であったとしても、それを自分の問題にひきつけて考えることがない限り、他者の経験はときどき思い出しては反省するための、土産物のようなものに成り下がってしまうのではないか。

かといって、「わかります、わかります」と自己と他者の経験を同一視するのもまた間違っている。当たり前だが、まったく同じ経験をした人間など存在しないのである。それぞれの人間が自分の問題の切実さを抱えているときに、「同じ」だということは、「わたしの問題はあなたの問題とは違う」という反応を引き起こして当然だとも思う。

となると、わたしは理解と拒絶の狭間に存在することしかできないと思うのであるが、そこではやっぱりわたしが自己の経験を絶対化しながら他者に押し付けるのは、禁じ手だと思うし(やりたいひとが勝手にやるぶんには、わたしは何もいう権利がないですけど)、当事者ではないのだから、そんなこともできないし、自分の経験については、信頼できる親密な他者と、ひっそりと話したいのであって、誰が来ているのかわからない場所で自分の経験が消費されることには、やはり違和感があるのである。

…何だか長文になってしまったので、この辺で。




スケートカナダ

2006-11-07 14:04:26 | よしなしごと
最近、この日記を更新していないねぇという指摘をいろいろなひとに受けるのですが、すみません。他のひとのブログをみていると、日々読んだ本の紹介をしたり、時評のようなものを書いているひとなどもいらっしゃるようだけど、なんとなく社会学関連の本ならネットではなく署名入りで書評で書きたいような気もするし(ファンレターならご本人に出したいし)、気分が悪くなるのであまりニュースを見過ぎないようにしているので(っていうのも問題だけど、最近は映像入りのものはテレビではなく、ネットで選んでしまう。ちゃんとしたものなら論文にしなきゃなぁと思うので)、あんまりわたしには向いていないみたい。

となると関係のないことになるのだけど。関係のないことを他のひとが読んで楽しいかなぁとか考えるとそうでもなかろうと思うので、まぁ気が向いたときに書きます(当たり前ですが)。

大学関係者では10月11月って週末がいろいろと雑事で忙しい。大学関係業務や学会など、また夏休みが終わって研究会や会議といったものが入ってくるので、ここのところ週末が休めた例がない。週末を休まないと流石にばててしまうので、少し何とかしたいなぁと思っているのですが。少々の心の慰めは、スケートシーズンが始まったことでしょうか。この週末はスケートカナダがあって、なんとかそれが見れたので、とても嬉しかったです(地上波以外は、録画できるようにしていないので、その時間にいないといけないのでした)。

とくにスケートカナダは、男子も女子もわたしの贔屓の高橋大輔と恩田美栄がでてたので、嬉しさ倍増。女子は村主章枝に焦点が当たっていて、恩田美栄はほぼ無視されていましたが、トリノ荒川アマ引退後のわたしの贔屓は意外なところで恩田美栄なのでした。

恩田美栄は今シーズンで引退をほのめかしているので、とくに頑張って欲しいなぁと思う。彼女はジャンプの才能がありながら、なんだかイマイチ今までうまく才能を伸ばしきれなかったようなところがあって(飛べないジャンプに集中して練習したり。また身体も硬くてスパイラルとかそういう技は本当にダメみたい)、トリノの最終選考にもなった全日本ではそういう欠点を克服したプログラムで本当に素晴らしい演技をしたのだけれど、四大陸代表にしか選ばれず、失意の欠場。荒川金のため世界選手権補欠にせっかく選ばれるけれどいきなりのことで調整・練習不足で気の毒でした。全日本でしたような演技が、世界の舞台でできるチャンスに恵まれればいいのになぁと、つい応援したくなってしまうのでした(にしても、SPで『春の海』みたいな静かな曲を選んだのは、なんとなくジャンプの得意なひとには選曲ミスのような気が…。先シーズンの安藤美姫の『マイファニーヴァレンタイン』も滑り込めばいいプログラムだったけど、当時の安藤には荷が重そうというか、ジャンプが栄える曲のほうがいいのかもと思ったりした)。ちょっと泥臭いイメージのある恩田美栄だけど、応援したいなぁと思う。

柔軟性を競う女子よりもどちらかというと、男子のほうが見ていて楽しいなぁと思うのだけど、男子の贔屓は、高橋大輔なのでした。膝の柔らかい彼の氷に吸い付くようなスケーティングはやっぱり美しいなぁと思う。今回はSPで1位につけたので、プレッシャーに弱いタイプだからダメかなぁ(「ガラスの心臓」といわれてきたので)と緊張した面持ちで出番を待つ映像をみて思ったのですが、やっぱり転倒に次ぐ転倒でした。残念…。最初に転倒するとダメージが大きくてそのあとのジャンプを次々と転倒していく選手って多いけれど、彼の場合もプレッシャーがかかって最初に失敗してそのあとガタガタといくパターンが本当に多くて…。でもジャンプを失敗しても、その分、後半にもってきている見せ場のステップ(ジャンプは体力の消耗が激しいので、やっぱり前半に固めている。後半だと点が高くなるけれども)が、何だか健気に感じられて、応援したくなってしまうのでした。

本番で日頃の練習以上の成果を出せるタイプの選手(たぶん村主章枝とか)もいれば、ここぞというときに実力の半分も出せないタイプの選手(まさに高橋大輔とか)もいて、面白いなぁと思う。あんまり一緒にはできないけれど、授業でもすごく緊張するので綿密に計画していく先生と、そうでないひとがいて、面白い。わたしはどちらかというと本番には強いほう(ほどよく緊張すると、普段以上の実力がでるというか。もちろんとても緊張してしまったらダメなんだけど)なんだけど、面白いことに、準備をしすぎるとダメ、です。細かくレジュメなどを作って、時間配分などをすると、絶対に予定していた通りにはいかないので、それから外れたときに(というか絶対に外れるので)、焦ってしまってシドロモドロになってしまう。だからだいたいこういう話をしようということだけ決めておくと、話しているうちに自分でも思いがけない話の引き出しが空いて、ああ、そういうことなんだなぁと自分で納得してしまうこともある。ただし、引き出しのなかをつねに一杯にしておかないと、空けても空だと困るので、日頃からのメインテナンスは欠かせないんですけどね(やっぱり最初に1-2年は細かく調べることがあって大変だった。最近は細かい数字やデータを忘れてしまうので大変。年度ごとに変わることもあるし)。

スケートのほかは、オペラ(授業ではまた『カルメン』なので聞いてるけれど来週で終わり。次は何にしようかなぁ。今年はオペラシーズンに日本にいるので、聞きにいけなくて本当に残念)とか。よしながふみの『フラワー・オブ・ライフ』があと2回くらいで終わりそうで残念だなぁと思ったりとか。あとは、最近意味もなくライトノベルを読みふけっていて、あまりの異文化ぶりに結構楽しい。すぐに読めてしまうのが欠点で、気がつくと1時間1冊の割合で5冊読み終わっていたりするのでお金がかかるのだが、でも安いものでもあるので大丈夫。漫画以上に読みやすいテクストがこの世に存在していたとはという驚きもあるけれど、なんだかそのうちにちょっと論文にしてみたいなぁと思う(税務署に大学収入と印税収入の経費を分けて欲しい、娯楽と仕事も分けて欲しいといわれたんですが、本当に本当にどうやってもわけられないなぁとしか思えないです)。


こうのとりフィーバー?

2006-09-18 07:55:25 | よしなしごと
41年ぶりに男児誕生!ということで、もっと日本列島が沸くかと思ったら、予想よりは冷めていて、ちょっと拍子抜けでした。

それにしてもこれまで9人女児が続いたということは、確率的に考えて1÷2の9乗。100を掛けると0.19パーセントの確率だったわけで、そのことこそ、すごい。今回のことで、その記録は、止まったわけですが。

しかし、なんとなくマスコミで流される映像はさておき、あまりにおめでとう感が少ないのは何でなんだろうか。どちらかというと、わたしの周囲は「雅子さん、可哀想。でも明るくなったみたいで、よかったね」というような感想をもっているひとが多い。

浩宮が結婚する前は、皇太子妃の条件として、外国語が堪能で、楽器が弾けて、背は皇太子よりは低く、家族にも犯罪者がおらず(弁護士は、犯罪人を弁護することがあるから身内として不適当らしいですね。ちょっとびっくり。まぁそもそも問題のある条件だと思いますけど)、容姿端麗で、人柄もよく…などと語られていたのですが、なんとなく今回のことで、「何はさて置き、とにかく皇室に入る人に期待されているのは、跡継ぎを産むこと」という事実が剥き出しになって、いっそうプリンセスへの憧れ感が薄れてしまったような気がする。

親王が結婚するときは、「絶対に男児を産むこと」が条件となってくるので、何だか凄いプレッシャーだろうなぁ。候補者が見つかるのだろうかと、少々心配してあげたくなってしまう。

それにしても皇室がいまや、生殖医療に彩られているのは、世相なんだろうか、何なんだろうか。皇太子夫妻が高度生殖治療を受けていたのは、周知の事実だが、今回の懐妊報道も、最初の時には確かに、「民間のやり方で産み分けをされた」と報道されていたように記憶している。ちょっと意外な報道だったので、覚えているのだ。しかしいつの間にかそのことは語られなくなり、第二子誕生後に「男の子はどうやったらできるの?」と紀子妃が聞いたと病院院長が発言したことにより、産み分け疑惑が再燃。「明言を避けた」というかたちで問題化されたことにより、今度は院長自ら「記憶違いでした」と謝罪することに。

個人的には、女児がふたり続いた妊婦さんが、「次は男児」と発言することは、あまり不自然な会話ではないと思うのだけどなぁ。むしろ前置胎盤で、しょっちゅう超音波にかけているのに、最後まで性別を知らないでいたというエピソードの方が、やや無理があるような気が…。

まぁ、なんにしろ、生殖に関してこういう風に熱い視線が注がれるのって大変なんだろうなぁ。以前は、30歳以上は高齢出産だったのに、今や42歳の雅子妃にも「まだあと一人」と期待される時代。20-24歳のコーホートより、35-39歳のコーホートの出生数の方が多いという高齢出産世相を反映しているんでしょうけれど。でもそろそろ解放してあげればいいのに。






誰の為のセキュリティ

2006-08-21 02:22:30 | よしなしごと
日本の出国は簡単だったものの、ヒースロー空港でテロ騒ぎがあった(らしい)せいで、乗り換えするときにはもうすごい騒ぎになっていた。

出国手続きに1時間以上。いまだかつて体験したことがない。だいたい10-20分を見積もっていたので、さすがに驚いた。

検査は長蛇の列で、鞄の中の化粧ポーチまで取り出して、化粧水乳液はもちろん、なんとリップグロスまで取り上げていた。わたしの前の女性は、制汗剤(固形)以外の化粧品をほとんど全て取り上げられて、泣きそうになっていました。わたしは、その女性を熱心に取り調べているひとがいるせいで、フリーパス。係員が彼女にかかりっきりになっているおかげで10人以上のひとは助かった。こんなランダムな厳しい検査になんの意味があるんだろうなぁと、ばかばかしく思う気持ちを抑えきれない。

ボディチェックは、時計や下着の金具にまでピーピーいわす念の入れよう。時間が掛かるので荷物がスタックしてしまい、盗難を心配してこちらは気が気じゃないのに、なかなか通してもらえないので、やっと自分の番だと急いで通ったら、I said wait a second.と係員に怒られました。

で、怒った係員がそのあと意味不明なことをずっと繰り返すんですよ。ここまで何をいわれているのかわからないことってあんまりないんだけどなぁと思いつつ、「ごめんなさい」「よくわからない」を何回か繰り返したら、I said how are you in Japanese! といわれて、がっくりーーーー。こんなみんなの緊張の高いシチュエーションで、そんなこといわれてもなぁ(しかもなんていっているのか、やっぱりわかんなかった)。最後には、「あいしていますー」っていってましたが、誰が教えたんだこんなの。

さらにびっくりしたのは、売店のジュースも販売禁止なこと。ガムテープで飲料水の棚を封じてありました。初めはなぜかわからなかったよ。手続き終わったあともダメなのか。。。

しかしこんな馬鹿馬鹿しい騒ぎが誰のためのものなのか、何の役に立つのか、考えると虚しくなってくる。実際には何の役にも立っていない(チケットもパスポートもなしに旅行できた事件がちょうど起こったし)、がしかし、象徴的にはとても意味のあるコントロールなんでしょう。とほほ。

あとはアメリカ入国も、厳しい。指紋や写真を採られたり、ということだけではなく、日本人観光客はフリーパスに近いかたちで通されるかと思いきや(わたしは乗り継ぎですぐアメリカ出国予定なので、割と大丈夫だったけど)、「アメリカには誰か知り合いがいるのか」「どうやって知り合ったのか」「ガールフレンドじゃないのか」「相手は何をやっている」「お前の職業は何だ」と詰問されている人もいて、「要約すれば、あなたがふらふらと不法就業&滞在するんじゃないかと疑われているんだよ」と相手の教えてあげたくなるような珍問答(つまりは、自分は日本に職をもっていて絶対に帰るし、単なる観光なんだよこんなのとアピールしないとー)で、なんだか気持ちが暗くなったんでした。