人生旅路

タイトル変えてみました。
青森~茨城~濠州~石垣(沖縄)・・・
次はどこでしょう・・・というかそろそろ落ち着け,私。

地震の記録④ 3月12日

2011-03-14 23:07:39 | 徒然

2011年3月12日 土曜日 05:00くらい


電気が回復してから何度も通話ボタンを押す。

電話番号は実家・祖母の家・父の携帯。
相方は地震発生直後から、すぐに災害派遣で働きっぱなしのはずなので、控えた。

ほとんど諦めながらの何度目かの父の携帯への電話。
耳元で呼び出し音が聞こえた。
それまで無音もしくはドコモの音声案内だったのに。

息が止まり、じっと耳を澄ます。

「もしもし。」という眠そうな父の声に涙が出た。


良かった。これで本当に無事を確認できた。


お互いに無事を喜び合い、身の回りの人が全部無事だと知り、あとは弟だけ。


父は、たぶん地震直後で施設の復旧などで忙しくしているんだろう、と平気な声音だったが、
本当は心配で仕方なかったに違いない。

まだ停電が回復していなかったのだから。

 

電話を切った後、少しだけほっとしたらうたた寝をしてしまったらしい。

電話の呼び出し音で目が覚めた。

相方からだった。

どうやら昨日からずっとかけ続けていてくれたらしい。

私の携帯の受信はまだ混乱していたようだった。

 

お互いの家族の無事を伝え合い、弟が不安だ、と伝えた後の励ましを貰い、電話を終えた。

 

聴きたかった声達の二つも聴けて、本当に落ち着いた。

 

携帯の時計を見ると07:00くらい。

それから職場の同僚たちからメールが届いていた。

不安でたまらなくなり弟の事を話すと、
その中の一人がTwitterで呼びかけてくれると提案してくれた。

非常にありがたかった。
全く無力な自分が悔しかった。

 

でも、Twitterで呼びかけるのに、人数が一人じゃなくてもいいんじゃないか、と思った。
私が登録して、自分でも呼びかけてもいいんじゃないか、と気づいた。

さっそく登録したが、使い方がわからない。

方法を見てもわからない。

なんとなく検索窓があったので、【女川】と検索してみた。

ずらっと、女川についての一言が並ぶ。

リアルタイムな掲示板みたいなものか、と勝手に解釈した。

そうすると、弟の名前が出てきた。

私の教えた情報と全く同じ情報の捜索願い。

きっと同僚なんだろう。
思わずクリックすると、ツイートした人が大きくなった。
推測すると、同僚の父親も協力してくれたらしい。
同僚の父親は福島にいて、ご自身も大変なのに協力してくれたその気持ちがありがたかった。

しばらく見ていたが、多くのツイートは女川についての情報求む、というものばかりだった。

中には情報を流している人もいたが、どの情報が信憑性が高いのか判断しづらい。

 

もやもやしてきた。

自分でも調べてやろうと思った。

まずは、女川原発や社員寮の位置関係・地震の状況。
ネットとテレビと携帯を全部一度に使って、少しも重要な情報を逃すもんかと集中した。

あんなに頭使ったのは久しぶり。

それでも詳しい情報が欲しくて、今度はmixiの宮城県女川町のコミュニティをみつけ、
情報提供と共有を呼びかけてみた。

すぐに書き込んでくれた人が現れた。
どうやら、弟の住む社員寮の寮母さんをご家族に持つ方。

それからぞくぞくと女川情報を求める人達が書き込んでくれた。

一人より二人、二人より三人、人数が多ければ手分けして情報を集めることができる。
共有すれば更に情報の照合もできるし、信憑性も高まる。

 

ふと携帯が鳴った。

着信はは61から始まる番号。
もしやと思って通話ボタンを押すと、オーストラリアで同居していたEmilyからの国際電話。
ニュースで見て心配してくれたらしい。
それからFacebookを開くと、たくさんのむこうの友達から安否を尋ねるメッセージ。
もう5年くらい会ってないのに、こんなに気にかけてくれる友達が海の向こうにもいる。
元気が出た。

 

弟の安否を知りたくて、不安を消したくて、一心不乱に情報を集めた。

まだ一日も立っていないし、事故になったら報道されるはず。
事故報道がないから、大丈夫。

何せ原発施設だ。
しかも新しいんだ。
耐震構造は他の建物よりしっかりしてる。

施設内にいれば、大丈夫。

 

でも違ったら?

もし、夜勤とか休日シフトとかで街にいたら?

 

じゃあ、施設内にいるかどうかを調べよう。

求める情報がはっきりした。

後はやるだけ。

 

怖い事は考えるな。

大丈夫。大丈夫。

 


地震の記録③ 3月11日

2011-03-14 23:07:03 | 徒然

2011年3月11日 金曜日 23:00くらい


いつの間にか眠ってしまったのか、ブォンという音で気が付いた。

日常の音がする。電気が回復した。

携帯の充電もだいぶ溜まったので、家族・相方に電話をかけてみる。

やはり回線が混乱しているのか繋がらなかった。


電気が回復してからテレビをつけた。

テレビではどこも地震の情報ばかりだった。


画面の右上に映る【震源地宮城 M8.8】の文字。

どこが最も悲惨なのか分からないほど広い地域での大きな被害の事実。

 

それから時間がどんなふうに過ぎたか全く覚えていない。

 

外は明るくなったが、気付くとダウンコートを着たまま布団の上に座っていた。

 


地震の記録② 3月11日

2011-03-14 23:06:32 | 徒然

2011年 3月11日 金曜日 15:30か16:00くらい

アパートに到着し、玄関を開けると不気味に静かだった。

いつも無意識に聞こえる電化製品が動く音が聞こえない。

地震の影響で停電と断水になっていた。


以前買った災害用充電器を携帯にとりつけ、
無駄だと知りながらもずっと手回しで携帯の充電を続けた。

 

かろうじて充電が少したまっても、ボタンを一つ押すだけで電池がひとつ減る。

もどかしかった。

 


家に着いてからどれくらい経ったか

気が付いたら外の景色は真っ暗になり、
地震直後に連絡がとれたっきり相方も家族も音沙汰なくなっていたのに気付いた。

 

 

無性に不安になり、電話をかけてみようと思うが電池の事を思うと実行できず、
自分は大丈夫だと、落ち着いたら連絡が欲しいと再度メールを送り
充電器をひたすら回し続けた。

本格的に暗くなる前に、意を決してダメ元でコンビニへ向かう。
災害用充電器も9V電池を使えばもう少し効率よく携帯を充電できるはず。

思いのほかコンビニは再開していた。

落ち着いて考えてみれば当然の事。
災害直後で今後どうなるかわからないのだから、多くの人々が物資を求めるのは当たり前。
それなのに、物資がある状態で店を閉める方がおかしいだろう。

急いで9V電池を4個と飲み物、簡単な食べ物を買い
店を出てすぐに充電した。

携帯を無事に充電できて少し冷静になると
単にメール受信がうまくいってないんじゃないかと気づいた。

問い合わせると案の定5件溜まっていた。
家族と相方。

良かった。
二次災害などには遭っていないようだ。

ただ、弟からの連絡がなかった。


弟の職場は震源地宮城県の女川原子力発電所。

不安で仕方ない。

生きていて。

頼むから生きていて。

命があればそれでいいです。

頼むから無事でいてください。

 

届いたかわからないメールを何度も弟に送った。


地震の記録① 3月11日

2011-03-14 23:05:35 | 徒然

2011年3月11日 金曜日 14:46

昼食が終わり、午後の仕事に入っていた。

大きな作業は午前中に終わっていたこともあり、
作業しながら上司と雛祭りの事について雑談をしていた時

同じく作業中の上司が最初に揺れに気付いた。

前日の地震の事もあり、当初は同じくらいの程度だろうと思っていた。

想像した以上に長く続く揺れは時間とともに大きくなり、
棚の物品だけでなく、棚自体も動き始めた。

とりあえず作業から手を離せない上司の代わりに、
上司の頭上から落ちて当たったら危険な物品を退け
様子を見に作業部屋の外に出た。

他の人達も、これはおかしいと廊下に出ていた。

急に揺れが大きくなり、大型冷蔵庫や重くて動くはずが無いと思っていた大型の棚が
生き物の様に大きく動いた。

パニックになりかけ、そばにいた別の先輩にしがみついた。

先輩と私、もう一人の先輩は頑丈そうな柱のそばに寄りかかり、しがみついていた。
その間、ずっと「大丈夫、大丈夫」と先輩が励まし続けていてくれた。


揺れている間、頭をよぎったのは、

先日のニュージーランドの地震の映像

今(その時)いるフロアが4階であるということ

いくら頑丈でも枠だけ残って崩れるんじゃないかという恐怖

もう二度と大好きな人達に会えないかもしれないという恐怖


ひとしきり揺れが収まり、目を開けるとそこには5分前には考えもつかなかった光景が広がっていた。

散乱するガラス器具

整列を大きく乱した大きな棚と冷蔵庫たち

バラバラになった書類

床に散らばるパソコン


こんな中、変わらず作業を続けて終えてから出てきた上司はすごいと思った。

誰も怪我人がいないのを確認し、
全員でひとまず外に出ると、他のフロアや建物で作業していた人達が続々と出てきた。

しばらく上の方々で相談している間、急いで携帯メールで相方、青森の家族と宮城の弟に安否確認のメールを送り、ワンセグを起動して地震情報を見た。


【宮城で震度7】


衝撃が走り、急いで弟に電話をかけたがつながるはずも無かった。

電話を切るとすぐに相方と青森の家族は無事だ、メールは帰ってきていた。

弟からは何も無かった。


そこからの時間はぼんやりしている。

なんか作業服から私服に着替えて
そしてなぜかそのまましばらく30分くらい外にいたような気がする。

車通勤の先輩に送ってもらって
信号がついてなかった事と、途中から道が混み始めた事は覚えている。


帰り際に先輩が

「気を確かに!」

とか励ましてくれたような覚えがある。


すこーし落ち着いた。

2011-03-14 20:22:43 | 徒然

地震発生からずーーーーーーーーーーーっと不安だったのが落ち着いた。

怖かったーーーーーいろいろ。

地震そのものだけじゃなく。

 

つい数時間前まであった普通の毎日がどんなに幸せだったのかを痛感した数日。

 

まだ、不安な毎日を過ごしている方が多い現実。

悲しみでどうしたらよいのか全くわからなくなってしまった方々もたくさんいる。

 

正直、私はかなり幸運だったと思った。

大切な人達みんな無事ってわかったもん。

まだ、救助待ちもいるけど、生きてるってわかったもん!

 

てーことで、怖かった時に、不安でいっぱいだけになりたくなくて、
うぉーってなって書いてた記録を次回から。

 

みんな早く普通の日常に戻れる日がくるといいなー。

笑ってお花見とかしたいー。