ガーデニングと野菜作り

初めての野菜作りとガーデニングに夢中な私。花や、収穫した野菜の写真を紹介するブログです。

4月21日

2021-04-21 18:53:22 | 日記
我が家から川を挟んで東の方向にそびえ立つ1本の樹齢500年の楠木は、いつも私の目の片隅にある。
町の道路の真ん中に遮るように立つその姿は、朝日に照らされ、夕方暗闇の中も
影絵の様に浮かび上がってくる。
それがどこにいても私の心をとらえて離さないのだ。
高さは25メートルもあり幹の太さは、大人が何人手を繋いで到達するのだろう。
壮大なその姿で500年前から現在までの「時」を私たちに魅せつけている。
千手観音の様に枝を張り葉を埋め尽くし、そこはあらゆる生物の安らぎ所になっているに違いない。
さて近くの公園の八重桜もようやく見納めだ。
公園全体がピンク色から深い緑に覆われはじめた。
溝の中に散った花びらを両手ですくってみると羽の様に柔らかくて暖かだった。
そっと鼻を寄せるてみると、かすかにニッキのような香りがした。
八重桜は桜の中でも長い間咲いてくれ、遠目には果物が実っているように見える。
そぞろ歩きで桜並木を行く人々が携帯でそのあでやかさを撮っていた。

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4月8日

2021-04-09 08:32:30 | 日記
朝一番、小鳥が何度も羽をはばたかせては、あたかも水の中を潜水するように
その行為を繰り返して大空を突き進んで行った。
清々しい朝だと思った。
公園を散歩して木々の枝を見ているうちに、だんだん枝々が千手観音の手のように見えてきた。
時折吹く風は、木々の剪定をしてくれている。
風と共に枯れ葉や枯れた小枝、そして桜吹雪だ。
それらすべてが、打ち寄せる波の様だ。
歩いていると、時にはどこからか笛の音が聞こえる。
演奏者の姿は見えないが、見えないが故になおさらその音が森の中に響き渡り美しい。

「天津風 雲のかよひ路吹きとぢよ 乙女の姿しばしとどめむ」 僧正遍昭
幼い頃母の実家へ帰って従妹や叔母たちと百人一首をするのが楽しみだった。
この一首はみんなが狙っている。「あまつかぜ」と詠んだだけでみんなの目の色が変わる。
私などは札を並べる時から、この札を自分の手元に並べたくらいだ。
幼い私はこの歌の意味は分からずとも、この一首にロマンを感じた。
「天津風」や「雲や乙女」の言葉に何となく魅かれたのだと思う。
歌の持つイマジネーションは素晴らしい。
完全な美を突き付けるのではなく、こちらの想像力を掻き立て無限大に膨らんでいく。

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2019年4月7日

2021-04-08 08:26:32 | 日記
今日は入学式らしい。風は冷たいが良い天気でよかったと思う。
私の仕事先のコンビニにもそれらしい親子が何組か買い物に来た。

私は、この頃こんなことを自分に言い聞かせている。
1日に一つしんどい事をするのではなく一日が終わった時「今日も幸せだった」と思う事を一つしようと決めた。何気ない生活を充実するためのエネルギーを蓄えるためにそれが大事だと思ったからだ。
外で本を読むことや、草ひきや、とにかく自然の中に身を置くことだ。
そして今日の詩が生まれた。

贅沢を言いなさんな
感じる以上のものを取ってやろうなんて
それは自分の身の程にしか受け取れないよ
充分幸せなのに全く欲張りだ
太陽の光は万物に注いでくれる
そしてそれを成長させ輝かせてくれる
鳥や虫は鳴くことでそれにお礼をする
木々はその姿で全ての物を受け入れ和ませる
しかし人間は何もお礼をしない
ただ与えられるだけじゃないか
いや自分もいつか大地に還って自然に捧げる







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4月6日

2021-04-06 17:20:11 | 日記
昨日やっと整形外科へ行った。と言うよりやっと行く事ができた。
還暦になると、体のあちこちが痛んでくる。
病院嫌いの私は主人から「安心のために行くのだ」と言い聞かされても行けなかった。
自分の中で恐怖の為に行くのではないと心に言い聞かせてもだめだった。
しかし肩の痛みには耐えられず、思い切って仕事の帰りに医院に飛び込んだ。
案ずるより産むがやすしというが、原因がわかれば痛みが変わらずともお医者様の説明に「安心」と心の「平安」を得る事が出来る。
今日は、仕事が休みで近くの公園を歩いたが、まだ桜は残っている。これからは山桜がきれいだ。
鳥の鳴き声も、突如池の中から聞こえるカエルの声も私に話しかけてるように
感じるほど懐かしさを感じた。
菜の花に群がる蝶々も、それに合わせて鳴く鳥の声とシンクロしている。
このごろの私は五官をないがしろにしていた。
昨年から今年にかけては、夫の定年、家の改装、長男の結婚、長女、次男の転勤と続いた。
そのせいか、自然を観察することが少なくなった。
純粋な体験も直感も衰え、自然の中に身を置いても、ただせわしく歩いていただけだ。
豊かな心も、ゆっくり流れる時間も感じずに不満を募らしていた。
見ようとしなければ見れない。コロナの中で心も荒みがちだ。
しかしこんな時だからこそ、真の人格を実現していこうと思う。




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