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山の辺の道 奈良古墳時代散策 約15km 2014.12.19

2014-12-19 | 街道歩き

 日本の原点、古墳時代から奈良時代へ。この時代を少しでも理解しようと山の辺の道を
歩いてきました。ちょうど好天に恵まれ、気持ちのよいウォーキングでした。
道は非常に良く整備されており、日本の原風景を味わいながら散歩です。まずは天理へ。


 天理駅からスタートです。
市街地中央部に位置する長いアーケードの商店街を通り抜け、石上神社を目指します。いそかみ と読みます。





 石上神社の鳥居、木製です。心が洗われるような雰囲気、一方で身の引き締まる思い、
日本最古の神社の一つ、聖なる場所、聖域の畏れ多いとする感覚を覚えます。
うっそうとした常緑樹に囲まれ、神さびた自然の姿を今に残しています。

 石上神宮は日本最古の神社の一つで、武門の棟梁たる物部氏の総氏神として信仰された
ようです。ご祭神は神武(じんむ)天皇が初代天皇として橿原宮にて御即位されるのに際し、
無事大和(奈良県)にご到着されるのをお助けになられた剣(八咫烏が天皇を救った)、
素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国(島根県東部)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治される
のに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)・・これは三種の神器の一つですね。
ほか、それぞれに宿られる霊威を神様にしているようです。


  さすが万葉の地、柿本人麻呂の句碑がありました。飛鳥時代の歌人です。





 この山の辺の道、よく整備できています。分かりやすい道しるべがありました。
これなら地図を持たなくても安心です。






 立派な楼門です。


 この神域には多くの鶏がいます。何か由来があるのでしょうか?
説明は何もありませんでした。ただ不思議に威厳を感じる鶏たちでした。











 ワタカ・・こんな魚初めて知りました。天然記念物だそうです。調べると・・
コイ目コイ科に属する淡水魚の一種。日本固有種で、ワタカ1種でワタカ属です。




 ただ濁った汚い池でした。


 石上神社を離れます。


 なかなか素敵な山の辺の道。


 ああ、神の光が!!左右から道を照らしている。そこを今・・・歩いている。


 それからまもなく異様な案山子が。山の辺の道に向いて立っています。
何の意味があるのだろう?通常の案山子とは用途が異なるようだ。
ちょっと不気味です。



 またまた光が!!


  いやぁ、、、不気味です。夕方とか夜には歩けません。
人と思えば案山子のようだ。何故山の辺の道側を向いているんだろう。
奥の案山子なんかまさしく人に見える。



 そばによるとこんな感じ、なかなか可愛い案山子です。
これで鳥を追い払えるのだろうか?



 すでに無くなった寺跡。


 寺跡から眺める景色。


 そもそも明治時代の廃仏毀釈っていったいなんだったのか?文化の破壊か?
勉強してみよう。





 気持ちのよい万葉の道。晴天で良かった。やはり守られてるな。


 こんな素敵な道もあります。まるでカミーノを歩いているみたい。


 早咲きの梅か?春を感じます。


 古代の道に似合います。地蔵さん。


  これで電柱がなければ古墳時代、飛鳥時代にタイムスリップです。


 やつぎ神社と読みます。春日大社と関係があったようです。
ご祭神は祭神は、武甕槌命姫大神経津主命天児屋根命
神社の由緒は難しい。ご祭神もいろんな神様がいて、それぞれの神様にはそれぞれに役割があるようで
それを理解するのは本当に難しい。小中高でもっと勉強すべきかもしれません。
少し神話としてしか習った記憶ありません。








 竹之内環堀集落、これは時代が南北朝時代へと下ります。
戦国乱世時人々は自衛のために堀をめぐらしたようです。
いまはほとんど面影がありません。






 わーっ、心の落ち着く景色、雲一つない万葉の原風景。


 ここいらは古墳がいっぱい。全て回るだけで何日もかかります。若いころ関西に住んで
いながら、一度も訪れたことのない古墳、じっくり古墳に絞って歩くこともしないと・・。



 また柿本人麻呂がありました。





 この風景もいいですね。常夜燈がありました。


  光を浴びながらの自画像・・・神が近い!!


  これは山の辺の道とは関係ありません。
おそらく四国お遍路に行かれた方が、この内容に納得され、おそらく自宅と思われる建造物の
壁面に貼りだしたものと思われます。自分も納得、写真に撮りました。
読んで見てください。あたってる・・・・。



  また古墳に遭遇・・ここら辺りは前方後円墳が多い。
 

日本(およびそれに影響を受けた朝鮮半島南部)でのみ見られる前方後円墳の起源については、
これまでに様々な仮説が唱えられている。最もよく知られているものは、弥生時代の墳墓から独自
に発展したものであるという学説である。
この説においては従来より存在した円形墳丘墓の周濠を掘り残した陸橋部分(通路部分)が発達し、
墓(死の世界)と人間界を繋ぐ陸橋として墳丘と一体化したと考えられる。
それに対して円部は軍事・政治を担った男王、方部は祭祀を司った女王の墓に由来するという説もある。

 
















  びっくりしました。巨大な石像・・。


 念仏寺です。この寺の前に先ほどの石造がありました。念仏寺の謂れはよくわかりませんでした。
ただ京都に化野念仏寺があります。その系統かと思います。



 そして、そして正面が念仏寺で手前の道が山の辺の道、そこに不気味な生首が・・。
これは誰が、何のためにさらしているのでしょう。もちろんマネキン人形だと思いますが
、頭の禿げ具合、サイドに残る寂しい毛といい、本当にリアルです。
この道は夜は通れません。近所の子たちは怖くないのでしょうか?






 二千年前の神々のことはなかなか理解ができません。もっと勉強する必要があると
痛感。一神教と異なり八百万の神は難しい。
このお旅所の意味は

 御旅所(おたびしょ)とは、神社祭礼神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の
途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。
御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。

ということです。難しい・・・。






 そして肝腎の大和神社はどこにあるのやら??下の写真は違うみたい。
誰か説明案内人いないかなぁ。



  素敵な景色に素敵な句碑。柿本人麻呂です。





 ああ、心が和む。日本の道は素晴らしい。


 道しるべがしっかりしてます。


 ここいらは卑弥呼の里と言うのですね。やはり箸墓古墳は卑弥呼の墓かな?


 長岳寺に到着です。これからご縁のできる弘法大師が824年に大和神社の神宮寺として
創建されたそうです。ここは重要文化財のオンパレードです。
http://www.chogakuji.or.jp/


 境内にある葉のない柿。




















 猫寺か、と思うくらい猫がいっぱい。


 こんな山の辺の道、少し日が陰ってきました。先を急がないと。大神神社に明るいうち
に着けない。気温も急激に下がってきました。



 やってまいりました。ここは崇神天皇陵です。立派な前方後円墳です。

崇神天皇は、『古事記』『日本書紀』に記される
現代日本の学術上、実在可能性が見込める初めての天皇であると言われている。

 邪馬台国との関係、神武天皇との関係等々まだ明らかになっていないようです。
参考に
日本史研究の立場からは崇神天皇を初代天皇、あるいは神武天皇と同一人物であるとする説が有力である。
このように崇神天皇を大和朝廷の礎を築いた存在とした場合、邪馬台国と崇神天皇のかかわりをどう考えるかが
問題になってくる。
邪馬台国畿内説からは、邪馬台国と大和朝廷は同一であるという認識のもと、「崇神天皇は卑弥呼の後継の女王
であった台与摂政だった」という説、「崇神天皇は『魏志倭人伝』に記されている卑弥呼の男弟だった」という説な
どが提唱されている。
邪馬台国九州説からは、「北九州にあった邪馬台国は大和朝廷とは別個の国であって、この邪馬台国を滅ぼした
のが大和地方を統一した崇神天皇である」とするなどの説

 こんないろいろな説があるようです。知らないことばかり。
少なくとも日本の歴史上、重要な古墳であるようです。






  崇神天皇陵を後にし山の辺の道を少し行くと、ご覧ください、聖地”三輪神社”のご神体
である三輪山が遠望できました。もう少しです。






  大和・やまとの風景ですね。





 たまらなく気持ちの良い道です。


 ああ、三輪山が近づきました。好天で良かった。竹藪と田んぼと低山・・・日本です。
やまとです!!ふるさとです!!






  なかなか難しいですね。天照大神を祭る。祀るではない。
そしてこの辺りは邪馬台国の有力候補地、後に出てきます桧原神社(元伊勢)も
近くにある。この場所で神様をお迎えし神祭が行われたとあります。ふーっ。
タイムマシン早く造らないと・・・。






 まだ残る秋の風景。


 まほろばとは?
「素晴らしい場所」「住みやすい場所」という意味の日本の古語。
「まほらば」「まほらま」ともいう。
横浜もまほろばです。






  着きました!!桧原神社です。


崇神天皇の時、宮中で祀っていた天照大神(あまてらすおおみかみ)を笠縫邑(かさぬいむら)に遷して
豊鍬入姫命(とよすきいりひめのみこと)に奉斎させた磯城神籬(しきひもろぎ)。


垂仁天皇の時、天照大神をこの地から伊勢神宮へ遷した後も、引き続き天照大神を祀ったため
「元伊勢」と呼ばれている。


■天照大神を奉斎した豊鍬入姫命を祀った豊鍬入姫宮が大神神社の末社として同じ境内に建っている。 。


 寛政年間の台風によって、檜原神社は大きな被害をこうむり廃墟と化してしまった。
だが廃墟のまま祭礼は行われてきた。戦後になって、現在のように整備された。
三輪山の中にある磐座をご神体にしているので、檜原神社には本殿はなく、拝殿もない。
だが、大神神社では見えなかった三輪特有の「三輪鳥居」とその奥にある神籬(ひもろぎ。
神霊が降臨する時の臨時の宿り場所。小さめの樹木や岩石が選ばれる)などが再建されいる。


















 狭井神社、大神神社の摂社です。
http://bell.jp/pancho/travel/yamanobe/sai_jinja.htm


 狭井神社から聖地大神神社に入って行きます。だいぶ暗くなってきました。
明るく見えるのはiphone高感度カメラ
のおかげですが、実際は寂しい暗い道です。
ただ燈籠に灯りがともり、幽玄の世界にのめり込んでいきました。
なんかゾクゾクってします。









 自画像です。








 大神神社拝殿です。ご神体をおさめた本殿はありません。
ご神体は裏山・・・”三輪山”の磐座です。

 大神神社のHPです。ここには壮大な国造りのロマンがあります。
http://oomiwa.or.jp/about/goyuisho/#linktop
そもそも日本人はどこから来たか?
現在まだ解明されておりません。朝鮮から出雲経由来た出雲族、おなじく福井あたりから
来た鴨族、ここ大和の土着族、もちろん南方から来た族、北方から北族といろいろ
あろうかと思います。古事記・日本書紀に書かれたことがどこまで真実か?
 それと邪馬台国との関係は?
そんなことに思いをはせるにはもってこいの神社です。















 大神神社を出るころには真っ暗になりました。ここは再び来るところです。
二三日泊まってじっくりと日本誕生の感激を味わうべきかなと思います。

 下の写真は箸墓古墳です。遅くなりすぎました。高感度カメラでもご覧のとおり、
再びまいりますと頭を下げて帰りました。
ここ箸墓古墳は卑弥呼の墓説があります。
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/yamatai05.html
 


 ということで、今回の山の辺の道は終わりました。
大神神社と箸墓古墳、必ず再度伺います。この年になって思うことは、如何に日本の
歴史、誕生期の歴史を知らないかということを痛感しました。カミーノも大事だが、まず
もっと日本を知ること、もっと日本を歩くことの必要性を感じました。日本は凄い国です。
アニメやゲーム、わびさび、ウォッシュレットだけではありません。まずは天照大神から始まる
日本の国造りを勉強しましょう。






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