(photo: Suishou.M)
突如として前衛短歌は現れたのではない。前衛とは、正視しえない現実に抗して、なおかつ直立しようとする強靭なその精神の反乱であり、その所産としての文体の謂なのである。断固として、モダニズムなどではない。 (福島泰樹 『青天』)
塚本邦雄と小笠原賢二に捧げた歌集『青天』のなかの、塚本への「弔辞」と題する文章のなかの言葉。前衛短歌を説明すると、「比喩の導入」「句またがり」「記号の利用」などの技法、あるいは「作中主体が=作者ではない」等々を言われることが多いが、私が思う「前衛短歌」というものは、福島泰樹の上記の言葉に近い。そして、この言葉は熱く、悲壮感のようなものが漂うが、私は、「文学の面白さ」「読む(或いは耳で聴く)楽しさというものがたいへん多くあるのが前衛短歌だと考える。写生や写実系の短歌に多くある、「素朴な自分の日記」のようなものではなく、読者が面白いもの、読む楽しみがあるもの、文学の世界のなかで遊べるもの、というような要素がある作品だと考える。 この言葉の福島泰樹も含め、塚本邦雄や寺山修司の短歌は、ほんとうに面白い、読む楽しみに溢れている。自己満足の日記ではなく、まぎれもない「文学」なのだ。