三菱銀行人質事件

2007-01-26 13:19:57 | 社会
猟銃一丁、散弾実包33発を携えて梅川昭美が三菱銀行北畠支店に押し入り、
客と行員4名を殺害し、30名以上の人質に立てこもった。

この世に言う『三菱銀行人質事件』が勃発したのが1979年の今日、1月26日の事だった。


当初梅川は金を奪って逃走する、いわゆる銀行強盗のつもりであったが、
自転車で警ら中の警官に直ぐ知られ、駆けつけた警部補を射殺し、
やがて逃げられないものと観念すると、異常な動きを見せ始める。

女性行員を全裸にし、トイレに行かせず、机の陰で用を足させた。
倒れて死んだふりをしていた行員の耳を同僚にナイフで切り取らせ、それを食った。
その一方で妊婦や老人を解放したり、片親の女性行員には服を着ることを許可した。

結局梅川は、42時間後、特殊急襲部隊(SAT)の前身である大阪府警察第二機動隊零(ゼロ)中隊の隊員7名によって銃撃され、
その日の午後病院で死亡した。


こういう事件の場合、狙撃班のうちの誰かが犯人の隙を見つけて単独で狙撃するのが通常であるらしいが
(事実、1970年の瀬戸内シージャック事件の時は一発の銃声で事件は解決した)
瀬戸内事件の後、狙撃手を殺人罪で告訴する動きがあり、多人数での銃撃という方法をとった。
これにより罪状告発に必要な「犯罪者の単独特定」が不可能となるという訳だ。


梅川が死ぬ一日前、梅川の母親静子(当時73)が捜査員に促されて電話するが会話できず、静子は手紙を書く。

『昭美
 お母さんが来ていますよ
 朝のてれびで知ったのですが、おまえどうしたことをしたのです
 いま、でんわをかけてもらったけれど、なんですぐ、きってしまったのか
 いまそこにいるおかたを、わけをはなして、母上のたのみですから、ゆるしてあげてください
 早く(人質を)だしてください、母上のたのみです、母より』

この手紙を梅川は女性行員に読ませた。
読みづらい字であった為、行員はしばし読みよどんだ。

梅川は自嘲するように笑い次のように言った。
『お袋は、そないな字しか書けんのや。そんなお袋やけど、俺にはお袋だけしかいてへん、、、』

銃撃された梅川が病院で息を引き取る時、静子は小さな背中を丸めこう呟いた。
『私だけは最後まであの子の味方でいてやりたかった、、、、』


私が27歳の時の衝撃的な事件でした。




 


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