「死刑囚に会うの無理ですか」娘を奪われつらさ伝えたい遺族
12月12日7時59分配信 読売新聞
24歳の娘の命を奪った男の死刑が確定して、1年9か月が過ぎた。
正恵さんは生きていれば32歳。61歳の父と59歳の母は毎朝、毎晩、仏壇に
ご飯を供え、話しかける。「結婚して子供がいたかもしれないね。孫と一緒に旅行
もしたかった」
事件のことばかり考えてはいけないと思いつつ、心から笑うことができなくなっ
た。自分たちだけ楽しんでいいのかという思いが、いつも先に立つ。旅行にも行け
ない。「犯人を憎むことが生きがいになってしまった」と父は言う。
4か月後に始まった裁判はとても苦しかった。事件後、怖くて新聞を読むことが
できず、検察側の冒頭陳述を聞いて初めて、どのように娘が殺されたのかを知っ
た。1億4000万円相当の貴金属を奪った
篠沢一男死刑囚(57)は、正恵さんら女性従業員6人の手足を縛り、
生きたままガソリンをまいて火をつけ、逃げた--。
「正恵はどんなに怖かっただろう」。想像して、父は手が震えた。
娘に代わり、すべてを聞こうと、父は仕事を休んで公判をすべて傍聴した。「火
をつけるつもりはなかった」と殺意を否認した篠沢死刑囚から真摯(しんし)な謝罪
はなく、法廷で遺族と目を合わせることもなかった。
「極刑を望みます」。父は証言台ではっきりと言った。その気持ちは今も変わら
ない。「悔しさと怒りで、相手の死を願うことへの抵抗感は全くなかった」
昨年3月、最高裁で死刑が確定した
篠沢死刑囚は、東京拘置所の独房で暮らす。
今夏、市民団体のアンケートに対し、
「死刑になるのか、きもちの整理がつきません。死刑とはざんこくなものです」と書いた。
抜粋
手足を縛った女性6人を生きたまま焼き殺しておいて、
『死刑とはざんこくなものです』とはどういう神経か。
生きたまま焼き殺された人の気持ちは想像できないが
自分が死刑になる時の事は
痛いほど想像できるという事なのか。
何たる身勝手。
何たる卑怯。
何たる浅ましさか。
男だったら
黙って、、、、死ね。
この言葉以外 どんな言葉があるというのか…
自分の語彙の浅さに
冬の空っ風が寂しくかする。
こんな残酷な事件があったなんて記憶にないです。
焼き殺したのが6人。
心を殺された犠牲者の肉親が最低で12人。
合計18人。
それを一人の命で償う軽さ。
黙って…死ね!!
いや、畜生以下だな!
Pさん、「男だったら・・・」というけど、こんな奴「男」なわけないっしょ!
泣こうが喚こうが、引きづり出して死刑にすべき!
こんな奴のくだらない妄言を、さも意味深げにもてあそぶ市民団体と称する奴らも許しがたい!
お前らの娘が焼き殺されても「死刑は残酷だ」なんて言えるか?
団藤重光とか中山千夏とか、いわゆる著名人の中にもとち狂った輩がいるが、許しがたい!
そもそも市民団体って何だ!
馬鹿が少々徒党を組んだら市民団体か!
市民という言葉は国民という言葉と大変わりしない。
ほんのほんの何人かが、残りの億の市民をさしおいて「市民」だなんて名乗るな!
こういう手法は共産党の息のかかった輩の常套手段だ。「国民戦線」とか言う奴らしい。
じゃ、死刑廃止をほざく連中はいずれ革命を望んでいるのか?利用されていることに気づかないだけか?
革命となりゃ、「人民の敵」とかでどれだけの人間が殺されると思う!
過去の歴史をよく見てみろ!俺たちだけは違うなんていわせないぞ!
ご遺族の皆様、お気持ちは察するに余りあります。
非業の死に対して、慰めの言葉もありません。
ですが、私はたまたま真宗門徒です。
人はいかような死に方であっても、必ず必ず浄土(極楽)に生まれ変わると信じています。
今は苦しみのない世界で穏やかに過ごしておられると信じます。
何十年後になるのかわかりませんが、浄土でご家族が会われ、辛かったこと、苦しかったこと、そして楽しかったこともお話し合われるだろうと信じます。
合掌
凶器を持っていたり、火付けをすることそのものが殺意だと思うのですが。
「死刑」、こんなものないほうがいいに決まってます。ですが、このような犬畜生にも劣る輩がいる限り、それは夢物語でしかないでしょう。
コメントさせてもらいますね。
【黙って死ね】ですか、確かに遺族の方たち以外にそう思うのは当然かもしれません、それほど凄惨な事件です、
社会に与えた衝撃は計り知れないです。
とうてい犯人の命だけでは償い切れる罪ではないのかもしれませんね。
Pさんのお気持ちはわからないでもないですよ、私の個人的な意見ですが、犯人には死刑よりも終身刑を望んでましたね、
(罪は償なくていい、罪悪感で苦しみながら生きろ。そして耳もとで囁いてやるお前の罪は死んでも償い切れないほど重たい罪だと。)と思ってましたが結局は死刑になりましたね。こんなコメントしている私が一番冷酷かもしれませんね。
ちなみに私は死刑廃止論者ではありませんよ
まあブログのタイトルはちょっと驚きましたね。
人は時に間違うもの。 個人的にはそう思っています。
しかし今回こいつは謝罪もしないという態度で改心もないばかり
か、自身の死刑という処分を「残酷だ」とまで言っているますね。
呆れます。
私は死刑制度に賛成する理由に「抑止力」をあげますが、どうも
このような結果をみるたびに脱力感がありますね。
人を呪わば穴二つ。
せめて自己の行いを悔いて覚悟をもって償ってもらいたいです。
こういう犯罪者が存在する限り
やはり死刑はあって叱るべきだと思います。
戦場でさえ、仲間を見捨てず
庇いあいながら、助け合って闘い、
濃密な人間関係を保っていたという事実もあったというのに、この平和なはずの現代で、あまりに
残虐無比、恐ろしい利己主義、一片の同情の余地もない冷血な犯罪が行われる矛盾。
市民団体もこの犯人に「死刑は残酷」と言わせて
一体何を訴えようと言うのか?
使役は残酷に決まっている。それ以上の残酷を
犯した犯罪者がいるのだから当然だろう。
寧ろ、死刑はまだしも慈悲深い。
「黙って死ね」その通りです。
たっぷりの時間と少量の食事を与えてね
普通に死ねるだけ感謝して、「黙って死ね」
この事件は2000年に起こりましたから
もう8年も経ってしまったのですね。
殺した人の人数ではありませんが
6名もの女性を焼き殺しておいて
『死刑は残酷』は聞こえない話です。
全身で死を受け止めるべきですね。
恥ずかしながら団藤重光という人を知りませんでした。
死刑廃止論の第一人者なのだそうですね。
勉強になりました、ありがとうございます。
ご明察の通りこの死刑囚の『死刑とはざんこくなものです』という言葉は
彼ら、即ち死刑廃止論者の市民活動家が導き出した言葉であると私も感じます。
彼らは死刑廃止論流布の為にこの死刑囚を利用しました。
結果、この死刑囚は最後の尊厳『男として死ぬ』ことさえ断たれてしまいました。
市民活動家は自分達がいかに残酷な事をやっているのかを知るべきですね。