「写真撮ってる場合か」 現場撮影中の警官を殴った男逮捕 岡山県警
2010.4.4 産経ニュース
岡山県警赤磐署は4日、公務執行妨害の疑いで赤磐市高屋、会社員、岩本陽二容疑者(37)を現行犯逮捕した。
逮捕容疑は4日午後3時5分ごろ、赤磐市沼田で発生した倉庫火災の現場で、警察官に配備されている携帯電話型の専用端末で現場の様子を撮影していた赤磐署の男性巡査部長(27)に「写真を撮っている場合じゃなかろうが」などと言って、頭を殴った疑い。
岡山県警は昨年、初動捜査に役立てようと専用端末約500台を交番勤務の警察官らに配備。事件や事故が起こった際、現場の様子を撮影することなどに使われている。
これね、、
まぁ誤解ではあるが、この犯人の気分も解かる。
1985年、豊田商事の永野会長が
30名もの報道陣の目の前で刺殺された。
私はテレビでこの一部始終を見ていたが、
内心、『オイオイ、撮影している場合か?!』と
思ったものだ。
また、ケビン・カーターは、1994年、
ハゲワシが餓死寸前の少女を狙っている『ハゲワシと少女』という写真で
ピューリッツァー賞を受賞したが、
「なぜ少女を助けなかったのか」との批判にさらされ、
受賞して1ヶ月後、自殺した。
最初の事件に戻れば、
警官の業務用カメラが携帯電話に似ていたことが
悲劇であり、喜劇でもあった。
「ハゲワシと少女」
岡山の乱暴男の件は、誤解じゃ済まされないくらい粗暴な話じゃないでしょうか。
仮にカメラが携帯電話に似ていたとしても、お巡りさんが面白おかしく写真を撮っていると感じる精神構造はなんなんでしょうね。
そう思ったとして「撮ってる場合か・・・」と呼びかける程度なら「いや、これは鑑識活動なんだ!」・・「そうなんだ、そりゃ失礼!」ってことになるんじゃないですかね。
そうならなかったところをみると、いきなりポカポカとやったんでしょ。
殴ってから「撮ってる場合か!」と吠えても後の祭り
この男はおそらく普段から「お巡りなんかクソくらえ!」という反感意識があったからの挙動だと思いますよ。
自分はお巡りさんを筆頭に世の中の公務員の全てが立派な人とまでは言言いません。
しかし、この例が物語るように、公務員と見ればすぐにあしざまに言ったり、論難することが社会正義であるかのような、いや、下手をすると襲いかかるような風潮はいかがなものかと思う。
前にも話した通り、身近がそういう環境ということもあって、彼らが人が言うほど怠惰でもなければ、自己中心でもない・・・むしろ、かなり真面目に国民や住民のことを思って頑張っている人が多いと感じています。
そもそも、われわれの税でもって雇用し、われわれのためい働いてくれている人たちを侮蔑した李、軽んじたりしてだれが得するんでしょうか。
我々が損するんじゃないでしょうか。
なので、この乱暴者にはきつくお灸を据えるべきだと思います。
ところで、豊田商事の件とケビン・カーターの件は本質的に全く別のことだと考えます。
つまり、長野会長殺害事件の人記者どもとケビン・カーターは、目の前で殺されようとしている人の命を救うことは、己の商売(金儲け)のビックチャンスを台無しにすることだから助けなかったのです。
目の前の人の命より、己の商売(あえて言いましょう・・・金儲け)を何のためらいもなく上に置いたから助けなかったのです。
なんとも言いようのないうす汚い野郎どもです。
ケビン・カーターは痛ましいことに責められて自死したのは、いまだ少しは良心が残っていたからでしょう。(死なずに反省した人生を送れば足りたと思うけど・・・)
それに引き換え、長野会長の時の連中は一段とたちが悪く、悪質です!
自分ひとりじゃないことをいいことに“報道人の使命”だの何だのと生意気なことをぬかして全く無反省どころか、開き直って自画自賛する奴ばっかり!
ま、まともな人間じゃないですね!
こいつらを雇ってる新聞その他のマスコミ会社はもっと悪い!
「なんで助けてやらなかった!」と叱責した社が一つでもあった??
いや、おそらく万が一、あの中でカメラを放り出して飛び掛かった奴がいたとすると、大目玉をを食らわせただろうと思う。
今まさに人間が殺される写真を撮ってきた人を英雄のように迎えたに違いない!
奴らはそういう連中です!
実際にいないからいいが、もしも自分に年頃の娘がいて、こういう連中と所帯を持ちたいと言ったら、座敷牢に押し込めて諦めるまで閉じ込めておきます!(笑)
http://kjsj13.exblog.jp/9777346/
http://www.geocities.jp/takao_sumii/journalism0412.htm
これらが全てか事実かは分かりません。
また禿鷹類の習性を知っていたかもしれない。
ベトナム戦、ヨーロッパの大戦、色々な報道写真がありました。
ショットは事実を伝える力はあるが全てを語っては居ない、それはテーマについてもと云うことかと考えています。
事実でなくてもそれに悩む人もあるかもしれないことも。
というのはポッポちゃんの次元では考えられないだろう人としての悩みであるかもしれない。
=======
やっと見つけたケビンカーターの最後の日記 <これも個人ブログから>
http://blogs.yahoo.co.jp/anti_war1021/22227311.html
<Webから訳を引用>
神よ。約束します。
どんなにまずかろうと、どんなに満腹だろうと、私は食事を粗末にしません。
私は祈ります。神がこの少年を守ることを。
導き、悲惨から救ってくださることを。
私は祈ります。我々が自分の周囲の世界にもっと敏感になるように。
そして利己主義と私利私欲によって盲目にならないように。
私は望みます。この写真が常に次のことに気づかせてくれるように。
我々がいかに幸運であるかと。
そして、それをいつも当たり前のように受け取ってはならないと。
ケビン・カーター
これが30過ぎの巡査長だったら酷い目に遭わされていたかもしれない。
暴力的公務執行妨害には発砲も許されてるしね~。 南無南無
masa2さん、おはようございます。
masa2さんのコメントに少々思うところを述べさせてください。
ご覧になった番組がどういう内容だったのか知りませんが、おそらく「世間の批判者はケビン・カーター氏が、少女を見殺しにすることと引き換えにこの写真を撮った。」のではないということを主張したのでしょう。
それはおそらくその通りなんでしょう。
でも私は「その後どうなったか。」は大事かもしれないが、その前に“人間という身でありながら、飢えて衰弱して、ついにハゲタカに襲われ、食われてしまう地獄図を撮る功名心に駆られてシャッターを押す“カメラマン“という人種というか生き物に激しい嫌悪感を感じるのです。
本当に食われてしまうよりはなんぼか良いのですよ。
でも、撮った後ハゲタカを追っ払ったとか、少女は母親の元へヨタヨタと歩み寄ったなんて話は、この男の心の卑しさを阻却するものではないと思うのです。
このような状況でシャッターを優先する人間の職業的卑しさをもっと責めて差し支えないと思います。
これはかなり極端なケースでしたし、長野会長殺害事件などはもっと特異な事件だったかもしれません。
しかし、報道の責務だの何だのとか高尚なことを声高に叫びながら、実際にやっていることはいつもこうじゃないですか。
それこそ、命のやり取りじゃなかっとしても、芸能人のスキャンダルや事件の取材における執拗さや残酷さを見ていれば、容易にに察せられるというものです。
ただ、ケビン・カーター氏の場合は、その後自殺したということですから、氏はこのことでよほど苦しんだことは疑いのないところでしょう。
苦しみの中身まではすべて分かることでないとしても・・・・。
改めて氏のご冥福を祈ります。
(この表現は少々月並みかもしれません。我が家は代々真宗門徒ですが、真宗の教義ではいかなる人も阿弥陀仏の本願力によって例外なく極楽往生させていただけるということですから・・・祈るまでもなく往生・・・クリスチャンということなら天国に迎えられることとかと思っております。
・・・少々蛇足)
これ自体が学究対象となるくらい一言では言えないものと、個人的には考えています。 「人としての在り方」「人は何をすべきか」などをも問う場合も有るかもしれない。 ある意味ではノーベル賞より選考も価値決定も難しいのではないかとも。
==========
記憶する報道カメラマンにはロバート・キャパ、カルティエ・ブレッソン、ユージン・スミスなどですが彼らの社会テーマ、ヒューマニズムなどの姿勢と比べるとピュリッツァー賞を得た写真家は話題性、訴求性の方に重きがあるように感じられ、前者は社会への訴え、後者は社会の関心に応えるという要素の差はあるように思います。
前者は一種の芸術として今でも残されているのも特長かもしれない。
しかし私にはどちらが良いとも悪いとも言えない気がします。 行なったのは本人でも行なわせたのは社会という考えも出来るからです。
またファインダーでは気がつかなかったものを自らも後から感じ取って悩むことも有るのかもしれない。
それらの差は素人が単に風景を写しているだけでも自らの写真の中に両方が存在することを感じることも有ります。
そのどちらへも責任を取るのは本人であると私は考えるものです。
際どい部分ですが・・・
お話に加えさせて頂ければ、飢餓の事実をどれだけ伝えられ、見たものにどれだけの行動を起こさせたか・・・
それと本人がそれを重く受け止めたかどうか・・・
それらから、ケビン・カーターの写真を受け入れられます。
ただソマリアの状況は彼の写真でどれだけの意義が有ったか? それも彼の悩みでもあったような気もしますが・・・
水俣病をも扱ったユージン・スミスもある面で同じ悩みを持っていたように思えることからも。
お邪魔しました。
今回、コメントしたのは、あの写真を出したのが、自分にはとても違和感があったからです。
警官が現場の写真を撮影しているのを男が殴った、というのが主題のはずなのにいつの間にか、報道に携わるものが変だぞというようにすり替わっているように感じたからです。
豊田商事の件は確かに助けなかった報道関係者は異常だと本当に思いました。その当時。だから、豊田商事の刺殺事件のことを目にするたびに、カメラマン連中は酷い連中という感覚か自分の中に出来上がっています。
ケビンの場合は、その酷いという感じがないというか。
なかなか、理詰めで説明できませんが、とにかく、今回の主題にケビンを引き合いに出すのは違和感があります。
Pさんは勘違いした男は報道写真家的な感覚から警官を見ていた・・・かもしれない
という程度のお話だと思いますが。
写真家とすれば、お話の中での重みはケビン・カーターは異質かもしれないが、
見る人にによって感じ方は動くことだし・・・善し悪しで考えない方がカーター氏のためにもいい感じもします。
キャパとかブレッソンを出したのは、そういう報道写真もいるという程度で、まったりと見ても良いのじゃないかという意味であります。
警官も銃を抜くかどうか葛藤したかもしれないし・・・
色んな見方や感じ方が有って良いと思うんですが。
masaさん、もしかしたら私の決めつけ調の発言に不快感を持たれましたか?
そういう予感がするので、その通りならお詫びします。
決してmasaさんのご意見に難癖をつけるつもりはなかったのですが、私は常々「報道」とかいうお題目のもと、非常に傲慢で非人間的な所業を平然とやってのけ、あまつさえ英雄視さえしかねないこういう業界人が大嫌いなもので・・・・つい力が入ってしまいました。
私の推測ですが、Pさんはおそらくタイトル通り「写真を撮っている場合か!」の語でくくられただけかと思います。
それを私がことさらケビン・カーターに攻撃的な表現を取ったので、それが違和感を与えたのかもしれません。
失礼しました。
ただし、ケビン・カーターの写真自体は評価したくない・・・
というか、この手の写真を仰々しく何とか賞とか設けてもてはやす、彼らの業界というものには、私はやはり強い違和感というか、はっきり言って憤りを感じるのです。
簡単な理屈です。
お前らは人間の命というものを何だと思っているんだ・・・ということです。
ハッと息をのむ様な衝撃的なシーンであればあるほど、本人は金を稼げ、大した仕事だったと評価される・・・・私には反吐が出そうな世界だと感じられるのです。
今回の記事は様々な方がコメントされていますね。
正直、私にはケビン・カーター氏をどうしても憎むことが出来ません。
彼はあの写真で称賛されたが、
それと同じくらいに批判されました。
だけど彼はカメラマンとして苦悩し自ら命を絶ちました。
彼は命を絶つほど大罪を犯したと私は思えないんですよ。
結果論ですがケビン・カーター氏が残した。
あの写真は彼の命そのものだと私は思います。