観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

静御前 墓所 山口

2012-07-14 06:55:35 | 日記

歴史的に謎の多い人物には日本各地にその人にまつわるお墓がありまする。 山口県阿東町徳佐盆地の国道9号を走っていると静御前のお墓の案内の看板が目に入ってきます。源義経と静御前との悲恋は、人々の心を揺さぶる物語として、いつの時代にも語り継がれています。それは、義経が時代を一気に駆け抜け、享年31歳の若さで、兄・頼朝の手により討ち取られた悲運の武将であること、そして歴史上から忽然と消えた静御前の生涯に由来します。

  そのため、この二人に関して日本各地に多くの伝説を残している。山口市阿東徳佐の地でも、古くから静御前が母・磯禅師と共に都を落ち、大内氏が治める阿東徳佐の地で、ひっそりと終焉を迎えたとの伝説が言い伝えられ、その墓所と思われる所に宝篋印塔(ほうきょういんとう)・五輪塔が残されています。それらは、災害等で崩れ、地元の人々により幾度も積み直されている。

 江戸時代後期に、豊後出身の絵師・吉原真龍が当地に立ち寄り、静御前にまつわる言い伝えを耳にし、「静御前姿図」を残しています。 京に戻った静御前は、義経の安否を気にとめながら、母と供に白拍子として生活を送っていました。 1187年、義経が奥州平泉に滞在しているとの噂を耳に、義経の元へと旅立つが、幕府の厳しい監視と1189年4月に"義経死す"との悲報により、京へ戻る。  その後、母・磯禅師と侍女と共に義経と過ごした思い出深い「壇ノ浦」へ、瀬戸内沿いを西下していき、長門領内で大内満盛の庇護を受ける。幕府からの厳しい目をさけるため、満盛が勧請した宝清山(徳佐)八幡宮近くの徳佐・片山地区で、笊笥(そうけ)庵に居住する。そのころ、京以外では行われなかったであろう雅楽【還城楽(げんじょうらく)、千秋楽、万才楽(まんざいらく)など】を伝え教えながら生活を送ったと考えられている。

 これらの雅楽にまつわる記述が、徳佐八幡宮の古文書である、1240年記載の「社規式事」に残され、さらに「当社之秘伝也」また「極秘」とも記されている。

 

 

 

雅楽と静御前

  雅楽は宮廷音楽で、それを学んだ人の中に、磯禅師・静御前・その侍女らがいたとの記録が残っている。また、磯禅師は、当時学問と舞楽に造詣が深かった廷臣・藤原道憲(後白河天皇の近臣)から白拍子を学んだとの記録もある。静御前は歴史的悲劇のヒーロー源義経の愛妾として知られている。源義経の死後、流浪の末、母の磯禅師や侍女達と一緒に源平合戦にゆかりのある山口県へ移ってきたと言われているが、その晩年の消息は明らかでない。 十種ケ峰の山麓、徳佐盆地の一角の竹林の中にそのお墓がある。りんご園の横を抜け、竹林に入ると、薄暗い竹林の中に静かに三つの塔婆が佇んでいた。

 

 

白拍子(しらびょうし)

 平安末期から鎌倉時代にかけて行われた歌舞。また、これを歌い舞う遊女。(広辞苑第5版より)



コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 徳佐駅 山口駅 | トップ | 船平山駅 山口線 »
最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
はじめまして (薄荷脳70)
2012-07-15 04:39:26
おはようございます。
静御前の墓、興味深いですね。
埼玉県久喜市(旧栗橋町)を訪れたときに、そこにも静御前の墓があり、福島にもあるということを知りました。
伝説になればなるほど各地で名乗り上げるのも増えてきて、実に楽しいです。
この辺りが歴史の面白いところでしょうね。
また、よらせていただきます。
返信する

コメントを投稿