観光列車から! 日々利用の乗り物まで

日記代わりに始めました。
まずは先日の小旅行での観光列車から出張利用の乗り物まで。

方谷駅 / 伯備線

2013-10-31 05:57:30 | JR西日本福塩線 / 伯備線 /境線

方谷駅(ほうこくえき)。周辺に方谷という地名は無く、備中松山藩士・漢学者で備中聖人と呼ばれた山田方谷に由来した当時の国鉄では珍しい人名由来の駅として知られています。ただし当初は「方谷は人名ではなく地名である」として名付けられた。(西方の谷)人名は認めないとする国鉄に対し、「方谷は“西方の谷”の意であって人名ではない」と地元がゴリ押した。岡山県高梁市中井町西方にある、西日本旅客鉄道(JR西日本)伯備線の駅である。

中井地区の中心集落から遠く離れた所に立地しており、駅周辺は数軒の商店と民家があるのみ。国道とは高梁川を挟んだ対岸にあり、駅前は袋小路のようになっているため、通り過ぎる車もなく静かです。駅舎の隣に新しいトイレが建っています。

当駅付近にはかつて山田方谷の長瀬塾(開墾屋敷)があった。越後長岡藩士の河井継之助が訪れたことでも知られる。
プラットホームの向かいの山側には「山田方谷先生住宅址」の碑がある。また、高梁川を挟んで南西側の国道180号沿いには河井継之助が方谷の元を去る際に振り返り、三度土下座を繰り返した「見返りの榎」が残っている。先日、「峠」司馬遼太郎を読み直したばかりでしたので感慨ひとしおでした。「山田先生に伝えて下さい。継之助はいまのいままで先生の教えを守ってきましたと」河井継之助は死の直前に、 備中松山藩出入りの商人に言伝てを頼んだ。継之助は斎藤拙堂、古賀茶渓、佐久間象山などの門に学んだが、33歳の時に備中松山藩で生涯の師山田方谷とめぐり合った。方谷を訪ねる旅は旅日記「塵壷」に残されている。

山田 方谷(やまだ ほうこく、1805年3月21日(文化2年2月21日) - 1877年(明治10年)6月26日)は、幕末期の儒家・陽明学者。名は球、通称は安五郎。方谷は号。備中聖人と称された。山田家は元は清和源氏の流れを汲む武家であったが、方谷が生まれるころは百姓として生計をたてていた。

方谷はお家再興を願う父、五朗吉(菜種油の製造・販売を家業とする農商)の子として備中松山藩領西方村(現在の岡山県高梁市中井町西方)で生まれる。5歳になると、新見藩の儒学者である丸川松隠に学ぶ。20歳で士分に取立てられ、藩校の筆頭教授に任命された。その後、藩政にも参加、財政の建て直しに貢献した。幕末の混乱期には苦渋の決断により、藩を滅亡から回避させることに成功した。しかし、明治維新後は多くの招聘の声をすべて断り、一民間教育者として亡くなった。


古い木造駅舎は国の登録有形文化財に登録されています。入口庇の支柱も趣があります。

島式ホーム1面2線を持つ、行違い可能な地上駅であるが、傾斜面上にあるため、ホームは駅舎より高い場所にある。原型をよく留めた待合室にはFRP製椅子があります。

つて非電化時代はホームの倉敷側に構内踏切があり駅舎とつながっていたが、今は地下道経由で階段を登り、かなりの迂回を強いられます。電化時に地下道が設置された。

ホーム上に待合スペースがある。駅は崖と川との間にあります。新見駅管理の簡易委託駅で、駅舎内で携帯車発機による乗車券を販売している。


方谷駅プラットホーム
ホーム 路線 方向 行先
1(反対側) ■伯備線 上り 倉敷・岡山方面
2(駅舎側) ■伯備線 下り 新見・米子方面


のりば番号標はありません。番号は列車運転指令上の番線番号です。なお、上下線とも両方向の入線・出発に対応している。ホームには待合室があり下部は伯備線のシンボルカラーである赤紫に塗られています。構内は大きくカーブしています。両サイドに留置線跡も見られます。


1928年(昭和3年)10月25日 - 伯備線の備中川面駅 - 足立駅間延伸時に開業。ただし当駅を含む備中川面駅 - 上石見駅間の列車の運行は同年11月25日から。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により、西日本旅客鉄道の駅となる。

電報略号 ホコ
駅構造 地上駅(盛土上)
ホーム 1面2線


乗車人員
-統計年度- 26人/日(降車客含まず)
-2010年-
開業年月日 1928年(昭和3年)10月25日
備考 簡易委託駅
* この間に広石信号場有り(当駅から3.4km先)。

 

 

 


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