観光列車から! 日々利用の乗り物まで

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営団500形電車

2021-01-27 03:05:08 | 乗り物(列車・車両)

営団500形電車(えいだん500がたでんしゃ)は、1957年(昭和32年)から1996年(平成8年)まで帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄(東京メトロ))丸ノ内線に在籍していた通勤形電車。

300形
1954年(昭和29年)の丸ノ内線池袋 - 御茶ノ水間開業に際して1953年(昭和28年)に落成した両運転台構造車。車両長18mの車体に片側3つの両開き式の客用扉を持ち、ドア間に5枚(内戸袋窓2枚)、車端部に2枚(内戸袋窓1枚)の天地が大きめ(開閉窓で1m)の窓が配される。幅は2,800mmで、銀座線の16m級、2,600mmと比べ一回り大きくなっている。
汽車製造、日本車輌製造、近畿車輛、川崎車輛で一挙に製造された。

開発にあたっては、外観デザインや細部の意匠、スポッティング機構を備え加速時の衝動の少ないシーケンスドラム(順路開閉器)によるABS単位スイッチ式多段制御器、低電圧高定格回転数仕様で軽量のモーターと軌道破壊の少ないWNドライブを組み合わせた駆動システム、ブレーキハンドルの回転角に応じたブレーキ力が得られるセルフラップ式ブレーキ操作弁の採用で操作を容易化し、さらに締切電磁弁(Lock Out Valve:LOV)などの補助機構を併用することで電気制動との同期・連係動作をスムーズに実現可能とするSMEE電磁直通ブレーキシステムなど、主要機器の原型をアメリカ・ニューヨーク市地下鉄に求めた。

ニューヨーク市地下鉄では両開き扉などの当時日本では珍しかった装備を持つBMT STANDARDと称する一群を、1914年以降これを進化させた市営合併後の標準車R1-R9の各形式を1930年以降に量産していた。これらは長大な編成での運転に対応するためにUブレーキを採用するなど先進的な機構を備え、さらに1948年製のR12形以降はウエスティングハウス・エレクトリック社 (WH) 開発によるWNドライブ、ABS制御器、それにSMEEブレーキを備えた前世代とは一線を画する高性能車となった。

 

 

このグループはその後、特にIRTと呼ばれる規格の小さい区間における保有車の大半を占める程の大量生産が行われ、後年ブレーキ名に由来するSMEEという名称が同市高性能車の代名詞となっていた。一般には1970年代のスプレー画によって車体全体を覆いつくすグラフィティ(落書き)や、末期の赤茶色塗装から名付けられた“Red Bird”の愛称で知られるグループである。

300形は、これら戦前から戦後にかけてニューヨーク市で設計された各形式の利点を総合的に取捨選択の上で取り入れ、車体デザインは複数形式を参考に、あらゆる角度から日本的に馴染むよう適宜アレンジを加え、一方電機品やブレーキなどは基本的にWH社の高性能車システムを、三菱電機[注 2]にライセンス契約を結ばせた上で製造させて採用する方針となった。

そこで営団では、ライセンス契約の締結後、1953年にWH社から本方式の電機品一式をサンプルとして1セット輸入した。第二次世界大戦の期間を挟んで文献資料を通じていくばくかのアメリカ電気鉄道技術の情報は日本側に伝わっていたが、輸入され梱包を解かれたそれらの機器類を初めて実見した際、日本の技術者達はどの機器が何のために使われるものなのかさえ見当がつかないほど隔絶した、それらの機器のあまりに先進的な機構に大きな衝撃を受けたという。

 

 

だが、衝撃から立ち直った技術者たちはWH社側との質疑応答とそれらサンプルの徹底的な分析を通じて、新しい機構に対する理解を進めた。そして1953年中にはWH社純正のサンプル品と同等の動作を期待できる機器の試作品が完成した。そこで営団は1400形2両を新造してそれらのデッドコピー品を取り付け、銀座線で試験運転を開始した。

この試験は初期トラブルはあったもののおおむね成功を収め、本形式の実用化に大きく寄与した。なお、試験終了後、試作機器を取り外された1400形は営業運転に投入するにあたり銀座線他形式と同様の吊り掛け式駆動・ABF制御・M三動弁によるM自動空気ブレーキによる在来方式の機器を新製の上で搭載[注 4]しており、外された主要機器は後に本形式の309・310に転用された。本形式の電装品はすべて三菱電機で製造された。

 

 

全形式併結可能な同一性能が求められたことから、以後900形に至るまで電装品は同じものを踏襲している。登場当時は京阪電気鉄道1800形、東武鉄道モハ5720形、東京都交通局(都電)5500形、大阪市電3000形に続く日本で5番目のカルダン駆動車であった。走行性能は起動加速度3.2km/h/s、常用減速度4.0km/h/s、営業最高速度65km/hとされている。運転台のマスコンハンドルは跳ね上げデッドマン式で、これは以後東西線用の5000系まで受け継がれている。

主電動機は三菱電機MB-1447-A/B/C(出力75kW、1時間定格回転数1,200rpm、端子電圧300V、電流280A、最弱め界磁率50%、質量800kg、最高許容回転数4,000rpm、最大許容過電圧750V)であり、連続定格回転数は1,250rpm(端子電圧300V、電流250A時)である。設計当時の日本の高速電気鉄道において一般的な吊り掛け式電動機では、1時間定格回転数が800 - 1000rpmが主流であり、また丸ノ内線と同じ第三軌条方式600V電圧の銀座線の既存車(1両2個モーター車)は端子電圧が給電レールと同じ600Vだった。本形式設計に当たり輸入されたWH社による無装架駆動を前提とした低電圧高速回転仕様の電動機は、その軽量さや整流子部の設計、電動機を発電機としてブレーキ力に変換する発電ブレーキへの最適化、それに誘導分路方式により50%の弱め界磁率を可能とする機構などを含め、三菱電機のみならず当時の日本の電鉄技術者たちに大きな衝撃を与えた。なお、駆動装置は前述の通りWNドライブで、高速回転仕様の電動機で低い定格速度(高加速度)を実現するため、歯車比は123:17 (7.235) と吊り掛け駆動車と比較してかなり大きく設定されている。

主制御器の制御段数は力行が直列8段、並列5段、弱め界磁5段、発電制動が18段で、乗客数に応じて加減速性能を自動調整する応荷重装置(可変荷重機構)とスポッティング機構を備える。本形式以後に日本の各社が開発した高性能車と比較した場合、一見制御段数が少なく思えるが、定格速度が26km/hと非常に低いため、これでも加減速は滑らかであった。銀座線在来車と異なりフライホイールの付いた補助電源装置を搭載、セクションでの瞬間停電はなくなった。ただし車内の非常灯は点灯する。

車体は不燃化のため全金属製とされ、全体的に丸みが持たせられた。市営化前のものを除けば無骨な折り妻ばかりで、鋼製車は最後まで一部リベット組み立ての残ったニューヨーク市に比べ、前面の意匠を始め、車体の造作はより繊細な仕上がりといえる。 当然リベットなどなく全溶接組み立てである。前面は窓3枚で、中央に貫通扉[注 5]があるという、当時としてはオーソドックスな形状であった。しかし、前照灯と尾灯をセットにして窓下に2セット設置した点、中央上部に設けられた行先表示器の両側に方向標識灯を備える点、下部にアンチクライマーが取り付けられた点は外観上の大きな特徴である。方向標識灯は行き先(方面)を示すもので、御茶ノ水行きは緑茶をイメージした黄緑色に、池袋行きは池の水をイメージした水色に点灯するユニークなものであった。その後の路線延長で意味をなさなくなったため、早々に点灯は廃止されている。また、本形式では換気・送風装置としてファンデリアが採用された。これに伴い通常の屋根の上にこの機能を格納する薄い風洞部が別途載せられた二重屋根構造となっている。400形以降では通常の屋根に風洞が内蔵されるようになって形状が大きく変化したため、この二重屋根は外観上、本形式を識別するポイントとなっている。塗装は、時の営団総裁が日本国外視察の際に入手した米国のタバコ“ベンソン&ヘッジス”の箱デザインと、ロンドンバスの赤をモチーフにして[要出典]、赤地に白帯塗装、さらに白帯にステンレスのサインカーブ状の曲線を配していた。当時の鉄道車両は地味な塗装が多かっただけあって、斬新なものとして注目された。車体や電機品の原型はニューヨークに求めたが、台車はニューヨークとは共通性がなく、この当時の新型台車のひとつである住友金属工業FS301[注 7]が採用された。当初は単行 - 3両編成程度で使用されたが、6両化される頃には中間に連結され、先頭に出ることはなくなった。そのため、行先表示器が埋め込まれたり、前面貫通扉が撤去されたりした車両も存在した。また、後年になって軸重過大などの理由から台車が住友金属工業FS349[注 8]に換装され、さらに後年の更新時にリコ式吊り手が普通のつり革に、戸袋部分しかなかった荷棚が側窓全体上に、側面客用ドアが窓ガラス面積の小さいものに、簡易型貫通板から通常の貫通幌にそれぞれ交換された。

 

 

301 - 330の合計30両が在籍したが、後継の02系の登場・増備に伴い、本線からは1995年(平成7年)2月28日に営業運転を終了した。また、分岐線(通称・方南町支線)からも1996年(平成8年)7月に唯一残存していた中間改造車304号車をもって営業運転を終了し、形式消滅となった。廃車後、301号が営団に、319号が民間(千葉県のゴルフ場)に売却され、2019年現在では301のみ静態保存されている。301号は台車を原型であるFS301に戻され、一度中野工場で保存、公道から見える位置に展示された後、2002年11月21日に地下鉄博物館に陸送[3]、2003年6月のリニューアルオープン時から1000形1001号車と並べて展示されている。ただし、1001号車のような原型復元は行われず、床下機器塗色は黒に戻されたが、客用ドアはステンレス製小窓(ただし室内壁面と同一色が塗装されている)で、前面は幌枠付き、つり革はリコ式ではなく現行のものであるなど、最末期の形態のままとなっている。

 

 

中間改造車
前述の通り、中間車専用として使用されるようになっていたため、定員数の増加を狙い、1982年に状態が良い12両が完全な中間車に改造された。改造内容は運転台の撤去、乗務員室扉および前面器具の撤去・整備(撤去後に座席設置)、戸袋窓の埋め込み、内装のリニューアル、屋根整備などで、400形消滅後も運用を続けた。車両番号は303・304・306・310・311・312・315・316・324・325・328・329


営団500形電車
(300形・400形・500形・900形)
基本情報
製造所 汽車製造
東急車輛製造
川崎車輛
日本車輌製造
近畿車輛
日立製作所
帝國車輛工業
主要諸元
編成 本線:6両編成 支線:3両編成
軌間 1,435 mm
電気方式 直流600V(第三軌条方式)
最高運転速度 65 km/h
起動加速度 3.2 km/h/s
減速度(常用) 4.0 km/h/s
減速度(非常) 5.0 km/h/s
車両定員 500形:124(座席54)
300形・400形:120(座席44)人
900形:132(座席58)人
300形は中間車化改造車を除く
車両重量 500形:34.5t・900形:34.0t
300形:40.0t・400形:35.0t
全長 18,000 mm
全幅 2,790 mm
全高 3,495 mm
台車 リンク式軸箱支持台車
FS-309形・FS-349形・FS-349A形
主電動機 直流直巻電動機 75kW×4
駆動方式 WNドライブ
歯車比 17:123 (7.235)
制御装置 抵抗制御方式
制動装置 発電ブレーキ併用電磁直通ブレーキ
保安装置 打子式ATS
備考 上記は基本的に昭和50年代のデータ。300形・400形は上記の台車に交換が実施されている。500形・900形は落成時より上記のもの。
脚注
^ a b 500形・300形・400形を製造
^ 500形・400形を製造
^ a b 500形・300形・400形・900形を製造
^ 500形を製造
^ 500形・900形を製造


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