「またタバコが吸いたくなったら、ベランダの柵を超えたくなったら、私のつくる世界においで」
「あんたのつくる世界ってなによ?」
「絶望の沼底へダイブする人がいても、巨大なロボットの掌ですくわれる世界。それが私の描きたい究極の愛、最高の夢想。歌えなければ土台になればいい、愛する友を背中に乗せて高みに押し上げる、君といっしょに吠える舞台――それがあたしのブレーメンラブ」
「…あ、そ」
「暗黒の闇わだのうえには、血塗りの色した鳥居が環状にならぶ。悪の化身のような機体を背景に、はげしく踊りくるう怪しい歌姫。八つのメカは合体して咆哮し、この世を轟かす――なんてステージデザイン、どう?」
描き貯めていたらしき秘蔵のスケッチブックを引っ張り出して、また見せる、見せる。火焔土器みたいなモチーフで市街地が火の海。サソリみたいな尾っぽの怪獣メカが観覧車みたいに変形。猫の目がいくつもついた球体でお山がボーン。アイドルにはそぐわない、不気味で不穏で絶望的なロボットの下絵と地獄絵図。あたしが腕組みしてうんざり顔でもお構いなし。
「どう考えても、それ、あたしが闇落ちアイドルじゃない? ヘヴィメタじゃあるまいし」
「そろそろ純朴アイドル路線をイメチェンするのをおススメしたい」
「そういうの、事務所通してくれないと…」
「コロナ、来月からうちの事務所に移籍する」
「はぁッ?! そんなの、聞いてないし! つか、あんた漫画家なのにプロデューサーまでやんの?」
「私の漫画の素材にしたい一名限定でね。アイドルじゃなくて、素のあなた含めてお買い上げしました」
「あんたにゃ、負けたわ…。もう、勝手にしやがれ」
「私の絵の専属モデルと、作業時のアカペラBGM、それにアニメの主演声優と主題歌、すべてが手に入る」
「ギャラはしっかりもらうわよ」
こいつの重い、ぶ厚い、ぶっ飛び過ぎた熱意が愛だとは思わない。
要するに、ひとの凹みをネタで消費してやるぞということか。こいつは年がら年中こんないびつな妄想をしながら、生きていくに違いない。環状にならべたパイプ椅子に座ったり、転がせたりしながら、構想をふくらましたり、へこませて楽しんでいるのだ。なんて、おめでたい娯楽なのだろう。
たとえば、だ。鳥じゃないから崖っぷちから飛び出せない。ゴジラじゃないから何食わぬ顔で列車の前を横切れない。そんな無力で無謀なあたしらは、強大な暴れロボットが二次元の街をめちゃくちゃに破壊していくすがたを眺めて、その不謹慎きわまりない刺激に、胸ときめいてどこか憧れているのだ。それが、すでに誰かが敷いた線路を横切りたいと願っている、あたしたち卑屈で脆弱な者にできる、お堅い世界へのゆいいつの抗いなのだから。
あたしがずぶ濡れで歌うのをやめられないように。漫画家レーコも、その読者とやらも、雨の日になれば、ぱしゃぱしゃと水たまりを走り抜けていく音をひとり楽しんで笑っているに違いない。
小さな泥沼に足をつっこんだかわいそうな人間を眺めてせせら笑ってるんだ。自分の両足もそこにつっこんだまま。――でもって、本気で大事な奴には傘まるごと差し出したってかまわない。一杯の水を、一服のベランダを、ひと休みの椅子を、そしてひと部屋一日貸したってかまわない。歌えなければ土台になればいい、友だちを背中に乗せて幸せへと押し上げる、いっしょに手を取りあって泣き叫んでもくれる、あたしのブレーメンラブ。
そうだ、見ず知らずの人に傘を貸せる人間は、ひとを粗末にしないのだろう。
他人をずぶ濡れにして帰さない、そんな優しさをためらいもなく差し出せる人間は、この世界ではいちばんに幸せになる権利があるのだ。おそらく、レーコの読者その1の「くるすがわひめこ」みたいに。あたしも、いずれ、読者その2ぐらいにはなれるだろうか。
そうよ、この世界の多くのアイドルが、人気クリエイターたちが絶望の壁を乗り越えたのは、幾千幾万の、ままならぬ世に屈して背中を貸したアンサング・ヒロイン(あたしたち)がいたからなのだ。
驢馬は犬のために、犬は猫のために、猫は鶏のために、そして鶏は――この哀しさ波打つ世の夜明けのために歌ってきた。
歌えないアイドルも、描けなくなった漫画家も、動けなくなったアスリートも、稼げなくなったセールスマンも、かつておなじものを聞いた、見た、読んだ、泣いた、笑ったあなたも、みんないっしょにその時代のやるせなさに自分なりの血をながして闘ってきた。
外に出ると空は抜けるように晴れ上がっていた。
雨の勢いは激しかったけれど、通り雨だったのだろう。傘は要らなかった。けれど、それは今度の逢う約束にできる道具だった。
──でも、今のあたしに必要なのは傘だけじゃないんだ……。
ハミングをしながら、あたしは傘の柄をくるくる回しながら、ゆっくり街を歩いた。
雨上がりの夕なずみ露しずる街は、何をみてもそれが内側からきらきらと輝いているように見えた。
借りたものを届けるために、ごちそうに預かるたびに、差し入れしてやるために、世の中に出せない恥ずかしい下書きを読ませるために、そして世の中をあっと言わせる悪魔じみたライブを実行する(かもしれない)ために――あたしはあいつの待つ部屋へあがっていくのだろう。理由の一つが絵のモデルだろうが、なんだろうが構わない。耳の調子がよくなれば、もういちどアニメの声優とやらだって、やってみてもいいかもしれない。画面に帯が出ている間に台詞を吐けばいいし、一人で収録もできなくはない。
そうだ、あたしにはまだアイドルでいられる道が残されている――! たったひとりだけでもいい、この世界の誰かに好かれている自分が。そのひとのために歌って踊れるならば、アイドルコロナさんはまだまだ健在なのだ。もし、アイドルをやめるときは、誰かの歌をささえる音楽隊になろう。
陽が暮れかけていて、日傘の言い訳にもできなかったのに、要らない荷物ができたことが恥ずかしくなかった。傘はあたしを奇異な目で見る街の視線を遮ってくれたのだから。寂しいときは、傘と腕を組もう。傘は、夢を諦めたくなくて何かを掴もうともがく、あたしの手を握りしめてくれた。そして、あたしはまた、雨降りしきる中でも歌いだせるだろう。
【了】
【目次】神無月の巫女二次創作小説「ミス・レイン・レイン」