空気がうまい。空の青さが目にしみる。いやな仕事から解放されたときの気分は最高だ。
鼻の孔をひろげて、森の清々しさを肺の奥まで吸いこむ。あれから幾日経ったことだろう。刺客もなにも追ってはこなかったし、それから陰惨なあの組織からなんの音沙汰もなかった。
山に隠れ潜んでいた男は、ほとぼりが冷めたら、昔の仲間の伝手をたよって、ぼちぼち稼業でもはじめようかともくろんでいた。
選ばなければ、娑婆には仕事がいくらもある。昔やっていた港での荷運びをして、懐が温まったところで異国へでも飛べばいいだろう。あめりかの農園で人手が足りないから、移民になってひと儲けしたっていい。大陸西部へ移って砂金探しで働いてもいい。上海で華僑の用心棒をするのもいいだろう。もし異国がだめなら、山賊にでもなりゃいいさ。俺はいくらか頭脳が足りねえが、この頑丈なからだだけは取り柄だ。あとは、うまい酒とちょっとばかし食えそうな飯、それに器量よしの女さえありゃあいい。
だが、男に異変があったのは数日後の昼近くだった。麦飯が上手く食えない。
なんだか、こそばゆい。皮膚が剥がれるぐらい、かきむしる。やぶ蚊に刺されたか、拾った茣蓙に虱(しらみ)でも湧いていたのかと思いきや。握り飯を取り落とした左腕を見た男はすぐさま驚愕した。腕に数十本の小さな針が刺さっているのだった。その針から透明な糸が流れている。肌がぷくぷくと水泡だっている。なんだこらあ。道祖神へのお供えものを盗んだ罰でも当たったか。
針を抜こうとしたら、たちまち腕が熱く、樽のように無気味にふくれあがった。血が蒸発しているのだ。つながった糸が赤く染まっていく。糸はぶ厚くなり、縄のごとく堅くなり、綱の太さになって、幾本も絡まっては次第しだいに布地のようにひろがっていく。
「ぐああああああっっ!! 熱いッ!! なんだああ、こりゃあ!」
全身から、きなくさい煙がたちあがってくる。筋肉が固まって黒ずんでいく。骨が枯れ枝のように折れていくのがわかる。絶望にいちどでも身を浸したばかりに、自分はこの世とおさらばなのか。強靭な肉体をもつはずの男でも、この激痛はもはや耐え難い。あまりの痛みに、気を失いそうだった。
繭のようなねっとりした臭いものが全身に覆いかぶさってくる。
なんだ、真っ暗闇だ。くそ、痛ぇえ。暗がりなんて怖くねえ…よ。だが、得体のしれない音が響く闇は不気味このうえない。からだが締め付けられる。そして、かろうじて首だけ出した男は目の前に現れたものに、たちまち戦慄した──!!
鳥居にぶらさがった嚢(ふくろ)──。あのおろちの闇わだで見た、おぞましい光景。あいつらに八の首と呼ばれていた気味の悪い奴だ。中に誰か入ってるのか、ときどき足で内から蹴飛ばしたように、かたちがずんぐりむっくりと動いている。煮こんでるみてえに、ぼこぼこと泡立つ音が鳴る。お隠れなのか一向に出てきたためしがない。だが、二の首のアマが言っていたはずだ。怒らせたら一番怖いのがあの八の首だと。だから、あの蛇面の巫女が祈りを捧げているのだと。
今になったらあの嚢がなぜ、怖気だつほど気味が悪いのかわかる。
まるで針山のように、無数の針が刺さっていたのだ。その針が、ウニのように蠢いている。あの針は…これまでおろち衆から脱落した信徒の数か…?!
いま、その嚢はみるみる膨れ上がっていき、あっという間に山のような大きさになった。
あちこちに亀裂が入り、その隙間からおどろおどろしい瘴気が脱け出している。吐きそうな異臭が鈍く放たれている。嗚咽が漏れる、喉が妬けそうだ。
裂けめから爪が飛び出し、中から這い出ようとする異物。
うぉおおおおおん。獣のような咆哮があがり、いっぺんに嚢が飛散してしまった。左右の腕がちぐはぐで、虎のように牙が出た、目は獰猛で鷹のよう、象に似たその足は渇いた土地みたいな肌。背中には何本もの棘が立ち、サソリに似た長く鋭利な尾を下げている。あきらかにこの世のいのちの醜さや惨たらしさばかり寄せ集めたものだ。こんな生きものはまず見たことがない。そもそもこれは生き物なのか? 誰にも望まれない存在があるとしたら、こういうものを言うのだろう。
だが、男の目はその気味の悪い怪物の、二の足に釘付けになった。
そこにいたのは、──男にとっては懐かしい顔だったからだった。
「なんで、姉貴が…?! まさか、コイツは人を喰うバケモンかッ?!」
男の係累だけではなかった。
その怪物の肌には、無数の溶けかけた肉体が貼りついていた。見知った顔があるのは、おろちの衆徒が襲った村人の犠牲者ばかりだった。男が奴らに命じられてさらった幾人かの子どもたちも混じっていた。男はいま自分がしていた悪事の結末を知ったのだった。そして、それを知った自分がこの先どうなるのかも…。俺もコイツの養分にされる…!
大蛇の御陰(おろちのみほど)の谷底にあった、無数の古い鳥居の数々、骨肉になった輩(ともがら)…。俺だけはそうならねえと信じていた。なのに…。
冷や汗が流れて頭が真っ白になる。戦意を失い、もはやどこへ取り落としかもしれぬ鎖鎌を探す余裕すらない。遁れることのできぬ死の淵にたった男がすべきことは、もはや何もない。
──「頭は八つでも、おろちの命はひとつながり。我らは同じ同胞(はらから)の兄弟」
──「大蛇の御陰(みほど)に堕ちた者は、そこでしか暮らせない。いずれ、おろちの呪いがかならずや貴様のからだを蝕む」
逃げ際に投げつけられた言葉がよみがえる。こんなものと俺たちのいのちが繋がっているだと?! そんなはずがねえ、こいつは人間じゃねえぞ!! 生きものでもねえ、この世に生れ落ちちゃあならねえやつだ!
だが、肌に張りついているのは、皆ことごとく人間だったものだった。
魔神にふみにじられ、おしつぶされ、蝋のごとく流れ、粉々にされた人々の墓標がここだというのか。おろち教の、死んだら報われる、救世主のいる来世に迎えられるってのは何だったんだ!! 明治の御世以後の舶来の科学力で、ひとが蘇り、泥は食い物になり、石は宝玉になり、豊かに平等にわけへだてなく暮らせる世の中にするために──いちど、この世界をめちゃめちゃに壊すんじゃなかったのかよ。
「けっ、刺客は追ってこねえんじゃなくて、最初から仕込まれていたってわけかい。くそったれが!」
芋虫めいた繭玉にされて、腕が思うままにならない。かろうじて、男は腰にある根付に手を伸ばした。本来ならば薬を携帯するはずの入れ物。しかし、頑丈な男は薬など飲まない。その中身は桜桃(ゆすらうめ)の種だった。腹が減ったときに、いつもしゃぶっていたのだ。
貧しくてとても水蜜桃なんぞ買えない男だったが、前にどっかの神社のじじいが頼んできやがるから、しぶしぶ庭木を刈ってやった。そしたら、お礼に山ほど実をくれたのだった。飲んでいた酒はこれを漬けたものだった。男にはそれで満足だった。おろち衆のあいつら、なぜか、あの酒をやたらと嫌ってやがったな、格別にこの酒がきつく匂うわけでもねえのに。俺が話しかけると避けていたのは、この酒のせいだったのか?
男が死の間際に手にしたのは、すこしでも楽に逝きたいと願うための食いものだった。