陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

『京四郎と永遠の空』第二・五話「逢瀬」 その3

2007-06-19 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女


さて、ひととおり見終わりましたところで、管理人は疑問を呈したいと思います。かなり野暮ったい曲解および本編のネタバレがはいりますが、ご勘弁くださいませ。

ヒミコの哀情を身体ごと包むように抱きとめた際のカオンの台詞について。
「本当の私はちゃんとここにいるわ…こことここにね」
後者の「ここ」はカオンちゃんの指先がハート形を描いて示したように、ヒミコの胸の内なのですが問題は前者。
先の「ここ」という言葉にかぶって、映し出されたのは描きかけのキャンバスと机の上のスケッチブック。
これはカオンちゃんの視野…それとも?
おそらく、ここはふたつの可能性が考えられます。

(1)最初の「ここ」は、カオンの心の中。
ヒミコが涙で視界がうつろになり室内の風物に目を彷徨わせているうちに、カオンは自分の胸を指していた。
ヒミコは泣き顔を見られたくないのと、カオンが全裸なのを気遣って後ろを振り向いたりはしないが、カオンの手の動きでそれとなく察知する。

(2)カオンの視線が導くとおり、「ここ」はヒミコが描いた自分の姿。

私は当初、画面通りに(2)だと思ったのですね。
前作では来栖川姫子の趣味はカメラ。そして彼女に観られる美しい被写体として、姫宮千歌音は日々輝こうとしてきた、輝いていた。しかし、終局で姫子のアルバムから彼女の姿は無惨にも損なわれ、甘い想い出は透明に塗りつぶされてしまいます。カオンの言葉は、この『神無月』エピソードを覆したもの。今度は機械ではなく貴女自身の手で描き出された私だから、容易に消えない、色褪せない。もし自分がどこか遠くに行ったのだとしても、貴女の手元にはほんとうを曝け出した私がそこいにいるから、想いだしてほしい。そう願っていたのではないかと。いつも肩身放さず護符のように携えているスケッチブックが自分で満たされていることをカオンは知っています。そして、五話、六話でヒミコはもはやそれに縋るしかないように、その表紙にただ顔を埋めるしかなかったのです。自分を慰めてくれるのは過ぎし日の甘いひとときと、画帳に残された愛しい面影。
しかしこの日の逢瀬をあとにヒミコは、もはやその完成間近なカオンの肖像を仕上げることも、スケッチブックに描き足すこともできなくなりました。九話の東月封魔女学園崩壊によって焼失してしまうからです。
じつは本編視聴時に、カオンがヒミコの描いた自分を垣間みて改心するのではないかと安直に予想していたのですが。『京四郎』世界での絵画は、『神無月』の写真ほど意味深な働きをしなかったようですね。さらにいえば、このカオンの肖像画が失われるという惨劇はふたりにとっての絶望的な状況を暗示するとともに、希望的なものでもありました。もしここでカズヤの襲撃がなければ、ヒミコはムラクモ強化のために命を落としていたはずです。八話でまるで形見であるかのごとくカオンの眠る枕辺にスケッチブックを置こうとするヒミコですが、結果としていわば描かれた肖像のほうが身代わりのごとくに消えてしまう。
そして消えてしまってヒミコははじめて自分の手で取り戻したいと願ったのではないでしょうか、カオンのほんとうの微笑みを。ミカ様をも羨ましがらせた、最高の笑顔を。最終的に今作では二人は幸せな結末を迎えられ、アトリエには新しい絵姿の少女が飾られていました。絶対天使の宿命からも、悲しい離別のさだめからも逃れ得た、おそらく人間としてのはじめてのカオンの立像なのです。

この流れをみると、やはり(2)よりは(1)が真実に近いのではないかと思えてきました。
ヒミコがカオンという存在のかたちのみではなく、そのこころまでを線と色とでつぶさに捉えているのを、婉曲的に演出してみせたといったところでしょうか。
いずれにせよ、二人の熱い抱擁と甘き接吻が観られただけでなく、気の利いた台詞を添えてあるところが全くもってすばらしい、この甘美な挿話!!わずか五分足らずの映像ですが、一秒一秒がときめきでいっぱい。私にとっては百本の百合作品にも勝るとも劣らぬ歓喜の坩堝であり、姫子と千歌音を愛して愛してやまない人には垂涎の名場面。「逢瀬」とは二人の出逢い、そして視聴者彼女たちとを再び幸福に巡り会わせてくれた『神無月』スタッフ至宝の贈り物だったといえるでしょう。

ちなみに前述しましたコメンタリも必聴であります!
図ったように「二人だけだと思っていた」とハモる川澄姐さんと下屋ちゃんがもうステキ!
しかし、間島兄さんに激烈なツッコミで締めくくってしまわれた川澄姐さんにはいやはや参りました。ラブ甘な「逢瀬」の余韻をこなごなに打ち砕いてくださいます。(大苦笑)

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2 Comments

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私の解釈も聞いてください(笑) (ユリミテ)
2007-06-19 21:39:14
こんばんわ!
「こことここ」
これは私なんかはとても単純に考えていました。
ひとつは「ひみこの心の中にあるかおん」
そしてもうひとつは、今しっかりとひみこを抱擁している「実在する」かおん、その人のこと自身。
これは例えるなら、色の認識・識別の差異に置き換えることができるような気がします。
人が見ている「色」
例えば、「赤」という色一つにとっても、見る人によって微妙に違う色を見ているそうです。
これは目の組織、光を受け取る機能によっても、わずかな違いがあるという。
ですので、万人が同じ「赤」というものは見ておらず、総称としての「赤」は実在するが、全く同じ色を見ていることはないのだと、以前何かで読んだ記憶があります。
それと同じく、ひみこが感じる「かおん」もまた、
ひみこにしかわからない輝きをもっていることでしょうし、それは決してミカさまにも他の誰にもわかならいのもだと思うのです。ミカさまなんかは逆にかおんのことを買いかぶりすぎていたきらいもありますし。
かおんが言いたかったのは、今ここにいる自分も「かおん」であり、ひみこの胸の中にある「かおん」もかおんであると。しかし、いくら見た目、態度が変わったとしても、本当のかおんはちゃんとひみこの「ここ」にあるのだと、指し示していたように思うのです。
いつでも気持ちは側に。決して変わらないものがあると伝えたかったのでは?
返信する
ありがとう、ユリミテ様は鋭いから、きっと補完してくれるんじゃないかって思っていたわ(快笑) (万葉樹)
2007-06-21 01:11:31
ごきげんよう!麗しの考察人、ユリミテ様。
とても深く鋭いご明察をいただきまして、感謝しております。
最初にこのレスを読みましたときに、もう歓喜にうちふるえてしまいました。といいますのも、私がこのレヴューで意見が堂々巡りをしてしまい途中で論理があやふやになって最後にうまくまとめきれなかったことが、非常にわかりやすく記されていらっしゃったからなのです。返事をどうか書いたらよいか迷ってしまいまして、遅くなってしまいました。すみませんです。

>いつでも気持ちは側に。決して変わらないものがある

まさに、この最後の一文に、すべては集約されています。
単純な答えほど美しく、これ以上あれやこれやと付け足すのは無意味なのですが、なんだか書かずにはいられなかったことがありましたので。かなり長くなりますが、話半分に。

>ひみこが感じる「かおん」もまた、ひみこにしかわからない輝きをもっている

輝き、まさにそのとおりですね。世界が白と黒にしかみえなかったカオンが、極彩色にかがやく自分を見いだせたのも、世界がすべて美しくあるのだと感じられるようになったのも、ヒミコというただの、けれど偉大な網膜を通してから。海を水色一色ではなく、その波面のゆらめきや、光の移ろいや透明感を豊かな彩りであらわそうとした印象派のように、ありのままのカオンを写し取れる才能。誰にも複製できないやりかたで、世界にうみだされている。

ところで私が、ユリミテ様のように実在、いわばヒミコを抱く肉身としてのカオンと、ヒミコの心像としてのカオンとの対比ではなくして、描かれた表象としての自分と、ヒミコのなかにあるイマージュとの二者択一にしたのには訳があります。それは原作漫画の二人の外伝話の影響が後をひいておりまして。ヒミコの命を吸い取ってしまう自分を厭うカオンは、自分を愛していない、それゆえにヒミコの描いた美しく輝く絵姿に、自己の実体から逃れるように眼差しを向けてしまう。キャンバスのなかにある自分は、ヒミコを傷つけない、そしてヒミコだけを見つめ、愛しさをおくっている自分だからです。だから、カオンはヒミコの心が描いた自分に帰りたかった。あのときのただいまは、ヒミコに対してであると同時に、過ぎし日の幸福に溢れていた自分に対してでもあったのだと。
そして、そんなふうに自分を描いてくれる源流がどこにあるのかと言問えば、それはつまるところヒミコの心の中。想いを溜め込んであたためて筆に託してくれるその胸のなか。そして、その想いは自分から流れ出てたもの。自分の魂は描かれたものをとおして貴女のそれと結びついていると。
つまるところ、二者選択というよりは(2)を通して(1)にたどりつく両義的な意味合いが、あのワンカットにはあったのだと私はいいたかったのです。だって、カオンが直接自分の胸を指差してだとありきたりで味気ないですから(笑)
しかし、私のように中途半端な理詰めで杓子定規に考えていきますと、なんだかこの二人をつつんでいるスウィートな空気が失せてしまいそうでもあります。あまり深く考えずに、ひたすら萌えを感じて語り倒してしまうのがよいかも。

>ミカさまなんかは逆にかおんのことを買いかぶりすぎていたきらいもありますし。

「買いかぶる」のニュアンスがよくわからないのですが、誤認という意味でいえば、たしかにミカ様はカオンのことを見くびっていたと思います。所詮はがらんどうの人形で、情操教育をほどこして記憶さえ消せば、マナさえ与えることができれば、カオンを自分に振り向かせることができると甘く考えていたのですから。
アニメ作中では彼女がカオンに強く惹かれる理由が判然とせずにあっさりお亡くなりになってしまったミカ様、やはりすごく気の毒です。小説で触れられていますが、初恋びと、もしくは行きづりで優しくされた人の面影を重ねていたというのがどうも…(看護婦さんとはロマンスがあったわけじゃなくて、あれは愛に飢えている彼女にとっての理想の象徴みたいなもんでしょうか)それでは、京四郎や空と同じレベルですし。あのヒミコとカオンの最大の恋敵になるのなら、分ちがたい二人の絆に負けないくらいの、カオン本人に対する想いがもっともっと描かれていればよかった。それがソウマや乙羽さんのような純なものではなくて、負の感情に満ちみちているのだとしても。ここらへんは、また稿をあらためて書きたいなと思います。

ところで、「私の赤と貴女の赤は違うの(笑)」的な色についての興味深いお話について。
それは知覚的な差異もあるでしょうが、気分というのに左右されやすいのでしょうね。
たとえばカオンの髪はまぎれもなく黒髪だと私は思いますが、現実の色は深い青。黒髪という言葉に含まれる、艶光りですとか髪束のこしですとかの美質をあてこんで、そう呼んでいる。色というのは光の三原色でなりたっていますが、まったく同じ配分で色を再現したとしても、微妙に違ったものにみえてしまうかもしれない。人の印象というのがまさにその例ではないでしょうか。紅薔薇を墨いろの壁の前においたときと、パステルグリーンの壁の前に飾ったときではどちらが美しくみえるか。妖艶な華やかさを求めるひとは前者を好むでしょうし、爽やかさを望むなら後者を選ぶ。姫子と千歌音の関係はどのような背景にも支配されない、そのふたつだけでお互いに鮮やかにひきたて合う、補色のような間柄だといえるでしょう。

さて最後に、お誘いのあった神無月祭りについて。
眠っていた文章の復旧ができそうですので、時間があれば久しぶりに神無月関係の記事を充実させたいともくろんでおります。
「麗しの百合考察」様のサードフェスティバルが今から楽しみでなりませんっ!
今年の秋もおかげさまで楽しく過ごせそうです(嬉)

すばらしいコメントの数々ありがとうございました!
ではでは。
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