首の後ろが痺れて背中が痛くなってしまうほど十数分間もきっちり集中しきっていた姫子は、ひととおり一帯を撮りおえて満足げに顔をあげた。
この記録の函のなかには、この日の収穫がある。カメラの底を撫でつけると、撮り終えた枚数と苦労だけ重みが増したような気すらするのだった。カメラを濡らさないようにケースに仕舞った姫子は、うずうずと嬉しさが湧き出すのをおさえられずに、そのケースの蓋まで軽く叩いた。
同時に、姫子は夢から醒めたように自分の置かれた状況に目を配って、あ、と叫んだ。驚くべきことに、しっかりと水中に立っていたのだ。膝上までのスカートの裾に迫るほどの深みに入っていた。
魚を追うのに夢中なあまりに、あれほど泳ぎが苦手だったはずの自分が膝近くまでを水に沈めても平然としていたなんて。頑なに凝り固まったあの水に対する恐怖心は、さてどこへ消え失せたというのか。カメラさえあれば、どんなものでも物怖じせずに眺めることができるんだ。姫子はほくそ笑んだ。
息を詰めるほどの緊張から不意に解き放たれたせいか、運動をしてもいないのに、激しい喉の渇きを覚えはじめた。
体内に蓄積された水分が、川のなかへと抜け出ていってしまったようだった。この水、おいしそう、飲めるかな、と思いが深まったとたん、自分の顔がゆらゆらと映じる水面を割り込むようにそっと手を差し入れていた。ひんやりとした感覚が指先から肘のあたりまで這い上がってきたが、くい、と水を喉に通したときにその涼気は別の方面へと移ろっていた。水に濡れて雫が肌を伝う腕は、カメラを構える動きから外れて血が巡ったせいか、ぽう、と不思議な温もりが宿っていた。ひと肌よりも冷たいと感じていた水の温度が変わったのだ。
その水を飲んでみて、姫子ははじめて川のもつ豊かな魅力がわかったような気がした。
たったひと飲みの乳が、真実の光りをさまよいあぐねて苦行に喘いだ仏陀にいともたやすく悟りを開かせたように、姫子にもそのひとすくいの水によってひらめきの瞬間がもたらされたのだ。
ついさっきまで、姫子はなにをしていたか。姫子は、透明な水面の下に潜む川魚を追いかけてばかりいた。
そこで撮りおさめた写真は、たしかにあの暗幕で囲まれた生物室にあった水槽のめだかのように、魚一匹ずつの美しさを際だたせるものになっているだろう。だが、それではなにかが足りない。その魚の美しさを引き立てている水の表情といったものがまるきり見えてこないのだ。このままでは、できあがった写真は図鑑に載せるもののように精巧な姿を見せようが、それは氷漬けにされた花のように活力の失われたものに過ぎなかった。
剥製のような一瞬の美を凝縮した魚だけではなく、この川全体の魅力を探らなくちゃいけないんだ。
もっと水の冷たさのなかに含まれた微妙な甘ったるさとか、有機質が融けあいながら爽やかさが残っている匂いだとか、諸々のものを感じさせるようなスケールの大きな写真を、姫子は撮ってみたくなったのだ。
単になにがしかがそこにあったという、網で川をすくって拾い上げたような事実の抜き取りでは意味がないのだ。
それではまるで夜闇に投げ込んだ懐中電灯の光りで切り取られた箇所だけを、つなぎあわせて世界を理解しようとしているようなものだったのだ。
精彩を凝らした部分は必要だった。
だが、それではただの記録に過ぎない。部分をまとめてひとつに川にする統合がより必要だった。
一枚の写真を見せて、どういう場所だったのかという場面の全体に漂うまとまった質感を匂わせるような、想像力に訴えかけるような写真の力学が必要なのだ。
そのためには、記録する人間のほかに、この場面に立って脳と相談しながら記憶に磨きをかけようとする観察者の視点を補わねばならないだろう。人間の記憶野はときにふしぎな思い違いをしてしまう。だが、その遊びの部分があるこそ、もはや取り戻せない想い出が磨かれ、ひとしお切ないものに極められていくのだ。
そのためには、彼女の存在が必要だった。
川にいることをからだ全体で楽しんでくれるような、頼もしい洞察力の持ち主が。