
さて、しかし、ここで私が注目したいのは今回明らかになった五つ目の真実。テロを起こすにいたる眞悧の動機。
十六年前、すなわち、桃果に出会った直前の彼はこう言います──「世界はいくつもの箱だよ。人は身体を折り曲げて自分の箱に入るんだ。ずっと一生そのまま。やがて箱の中で忘れちゃうんだ。自分がどんな形をしているのか。何を好きだったのか。誰を好きだったのか。だからさ、僕は箱から出るんだ」
この台詞は、人間が最後に入るものが木箱であることを連想させますよね。
棺ではなくて、骨壺の入った箱のほうのイメージは、組織の黒づくめの男たちが抱えて運ぶ箱と重なります。いっぽう、今回のラストでは。
「人間っていうのは不自由な生き物だね。 なぜって。だって自分という箱から一生出られないからね 。その箱はね。僕たちを守ってくれるわけじゃない 。僕たちから大切なものを奪っていくんだ 。たとえ隣に誰かいても壁を超えて繋がることもできない。 僕らはみんな一人ぼっちなのさ 。その箱の中で、僕たちは何かを得ることは絶対にないだろう 。出口なんてどこにもないんだ。 誰も救えやしない 。だからさ、壊すしかないんだ。 箱を。人を。世界を!」
この箱という暗喩は、言うまでもなく、「少女革命ウテナ」における名台詞「卵の殻を破らねば雛鳥は生まれない」を想起させます。ヘルマン・ヘッセの『デミアン』に材をとったこの台詞は、思春期の蹉跌を経て大人になっていこうとする少女の決意ある羽ばたきを推したものともいえます。「ウテナ」とおなじく、この「ピングドラム」でも、最終的な黒幕は分別わきまえた大人の男となってしまいました(先週までの展開から、冠葉がラスボスのように思われたのですが、今回のラストでひっくり返る可能性が見えたため)。しかし、本作では十代の少年少女である高倉の三兄妹はどこか運命や奇跡をあきらめた節がうかがえる。冠葉も晶馬も「運命という言葉が嫌いだ」と公言してはばからない。
そのいっぽう、社会は実りある果実を一部の人間が独り占めし、下の者にはもたらさない、尖った部分を持つものを透明にしようとする、と批判したのは、眞悧や高倉の両親、すなわち二十~四十代近くの働きざかり世代。私はあのオウム真理教を模したと思われる眞悧たちの属した宗教組織や、テロ活動に賛じているわけでもないし、そもそも、このアニメもそれを好意として描こうとする意図はないと思われます。「ウテナ」であった大人対子どもという線引きが、ここではいっそう広くなって、持てる者と持たざる者との対立して描かれているのです。それは若者と老人といういわく言われやすい、現代ならではの世代間対立というよりは、世界各地で国を選ばず起こっている奪われていく者と奪っていく者、強者と弱者との対立といえる。すなわち、花のように、実のように、みずからの生存戦略のために他人に益をもたらさずに、肥え太っている大企業であるとか、高級官僚であるとか、政治家や有力者であるといえましょう。
ここで私がふと思ったのは、あの女王様の強烈な台詞──「生存戦略しましょうか」や「きっと何者にもなれないお前たち」──は、可能性のある若い世代にではなく、搾取しつづける側に向けて放たれた野次ではなかったのかということ。第二〇話で高倉剣山がそのように宣言していて意味がよく分からなかったのですが。そして、子どもブロイラーとは何者にもなれなかった大人が、何者かになろうとする子どもたちを恐れるあまり、透明に、扱いやすいようにリサイクルする装置であるともいえます。
箱とは「何者であるか」が外から、つまり他人からは見えやすくなっているが、自分からはまったく見えない装置。自分が見えないのだから、何が好きかも、誰を好きかもわからないまま、一生を過ごしてしまうのか。眞悧の言質を借りるとすれば。
そう考えると、私はこのアニメは、家族の大切を訴えたというより、もっと大きな共同体のあるべきすがたとはなにか、といったことを訴えかけているような気がしてならないのです。ただ親の愛情を失った血の繋がらない子どもたちが疑似家族ごっこをすれば、生きのびていけるという安直な解答ではない。もっと人の生き様の根元に訴えるような、なにか。その家族というか家というシステムですら、人間を透明にしてしまう箱だと言いたかったのかもしれない。
眞悧が行おうとしていることは決して許されることではないのですが、しかし、権力を持つ者に対する彼の主張は、あながち否定できないものでもあります。
また陽毱のマフラーをダブルHに届けたことからしても、ねっからの情知らずの悪人とも言い切れない。しかも、前回第二十二話の冒頭であえて、その効果をダブルHの緊急訪問というエピソードで唐突に示したのは、眞悧の人としての温かさを示そうとしたというよりは、チャンスを与えられて名実を得た者と、与えられずに日陰で凋んでいる者との和解を示そうとしているようにも思えます。プレゼントしたCDがただの新曲でなくて、三人の幼少時代にまつわる想い出の曲とかだったらいいのに。
そして彼が人間を透明な無害な存在として押し込めることを「箱」と表現したのと、「運命の至る場所」すなわち、桃果と眞悧が対決した場所が列車内であったというのは、何とも示唆的です、なんとなれば、列車というのは、他人どうしが顔を向かい合わせ、肩を接しあわせる窮屈な空間ながら、決してその他人とこころを寄り合わせることがないハコモノなのです。車内で女性が襲われたのに乗客全員が見て見ぬ振りをした数年前の実際の事件が語るように、そこで人は冷徹なほど他人に無関心になれてしまうのです。創作者はしばしば古典や神話、過去の物語や寓話を利用してしたたかに名をあげようとするけれど、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』とのファンタジーな連想のためだけに、この舞台をセッティングしたのではない。きわめて現代をシニカルで切り取った目線から、この物語が地下鉄をさんざん舞台に選んだのではなかったか。蟻のように人が吐き出されていく都会の満員電車がひときわ大嫌いな私にとっては、この作品が地下鉄を扱ったことがただ唯一の残念なところで、いつもいつも意味不明の教訓めいた電子広告が出る演出も鼻白むばかりであったのです。あの地下鉄の厭わしさって、交通が不便で車がないと買い物にいけないようなど田舎に育った人間からすると、ほんとうにこの世の地獄といってもいいので。でも、地下鉄を舞台にした意図がそれであったとするならば、合点がゆくのです。
そして、今回のラストで冠葉と晶馬が向かう場所がその運命列車内であると明かされます。
そこに求めるべきピングドラムがあるのだと、桃果ことペンギン帽が導いてくれる。あの黒テディの爆発が日記を焼きこそはしたが苹果本人を傷つけはしなかった、どこか現実離れしたものであったように、眞悧の起こそうとするテロが実は人を傷つけるものではなく、人のこころに他人に実りを与えようとする優しさの種──眞悧(さねとし)の名前が、実(さね)=真根(さね)に由来するのだと考えれば──を植えつけるのが目的だとすれば、いやそうではなくとも、何かのまじないかからくりか(OPのホワイトテディがその暗喩?)によって、そういう真意が発揮されるのだとしたら、私は眞悧はともかく、彼に操られて実行犯とされた高倉冠葉にも一縷の救いがあり、溜飲の下がる結末が用意されているのではないかと、一週間後を期待して待つわけです。眞悧がなぜ破壊衝動を持つに至ったかも明かされるかもしれませんが。
ここで勝手に憶測を許してもらえれば、タイトルの「輪るピングドラム」とは、環状線を周回しつづける運命列車の謂いであり、無意識、無感動、無関心でただ並んでいるだけの共同体が、互いを意識し困った者には寄り添い与えあう空間へと変質した奇跡のハコ、恵みの場所となった場合を意味しているのではないでしょうか。冠葉と晶馬のふたりが対決し和解するというのは、本来ならば何不自由ない富裕層に生まれた者、あるいはその権力を奪ってさらに新しい権力になろうとする暴力と、その暴力のとばっちりを受けて未来を閉ざされ、世間に対して肩身の狭い思いをしながら生きていかざるを得ない業を背負った者との共生共存を意味するのではないでしょうか。
とはいえ、これまでさんざん、前回でばらまいた展開の芽をことごとくねじ曲げていく方向に突き進んできたこのアニメですから、私がここで必死こいて妄想したあれやこれやのことが、まったく無駄に終わるような結末に十中八九なっているでしょう。憶測が当たってほしいという気持ちはなく、脳みそをフル回転させてくれて、いろいろ楽しいアニメですね。まさに思考が回るピングドラム(?)
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