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蜩(ひぐらし)の啼く音がまだまだかまびすしい、大正十一年の九月。
姫宮本邸から離された庵に寝室を移されて、千歌音はそこで静養することになった。
庵といっても、茶室のような風雅なものではない。それは高床式倉庫といったほうがよろしいか。姫宮御殿の広大な敷地の一画に建設されたその離れは、白樺の洋館と並ぶ五階ていどの高さがあり、入口にやっとこさ一人が通れるほどの幅の狭い階段がついている。扉は頑丈な観音開きでめったと開かれることはない。その内部はいぐさの匂いがたち薫る青々しい畳が敷かれた簡素な和室であったが、ここをはじめて訪れた者ならば、居住者に似つかわしくないその建物の外観に驚かない者などいない。姫宮家はその離れを、「姫庫(ひめぐら)」と呼んでいた。
ここに通うのは、日に三度の食事と着替えを運んでくる女中だけになった。
西洋、東洋問わずこの国の権威ある医学者を呼び寄せて治療に当たらせても、まったく効果はなかった。加持祈祷の類に依存しても無駄だった。姫宮の娘が奇病に罹ったという噂は村内にまたたく間にひろまっていたが、誰もが外に漏らさぬように口を噤んでいた。こうして、少女はまたしても、その存在を抹消されるような立場に置かれてしまったのだった。こうなると、もはや地に墜ちた天隕石も同然だった。
誰もが千歌音の病状に匙を投げてしまっていた。
お付きの者たちですら、気味悪がって、運ばれたものを部屋の隅に置くと、逃げるように去ってしまう。そもそも高い階段に臆して、辿りつけない者すらいた。僧侶や祈祷師たちはかたちだけ儀式とやらを執り行ない、むにゃむにゃ、となにかを唱えては、これでじきに快方に向かいまする、と気休めだけ述べて、謝礼をうけとるや否や、さっさととんずらしてしまう。スペイン風邪、赤痢、腸チフス、ジフテリア、などなど大正期に猖獗(しょうけつ)を極めた伝染病の可能性は、医師の診立てで否定されていた。千歌音をサナトリウムに隔離しなかったのは、さすがに姫宮が外聞を憚ってのことと見える。
女中の顔触れは一箇月ごとに変わっていった。
早いものは一日で姿を消していた。最初、千歌音はずいぶんと多くの側仕えを寄越すのだと思っていた。だが、二日経ち、一週間経て、彼女たちの顔色がいっこう冴えないことに気づく。まるで、生け贄にされたかのような所在ないさまで、奉仕にあたる。彼女たちは事情を知らなかったのだろう。姫宮のご令嬢のお世話周りと浮かれて、そして次第にその仕事の難儀さを悟って、いつしか失望していく侍り女たち。瞳は陰り、声も虚ろになっていく仕え女(つかえめ)たち。「明日からお暇をいただきます」──この台詞を何度耳にしたことか。千歌音は彼女たちにこころを開くのをやめてしまった。
ある晩、千歌音は高熱にうなされていた。
喉もとに引っ掻くような激痛が走ったかと思うと、大量の血の混じった液体を吐き出した。これを吐き出すと、きまって心の臓がぎゅっと掴まれたかのように痛くなる。胸の真ん中から背中にかけて刺し貫かれたかのような、耐えられない激痛に見舞われることもあった。その症状から結核を疑われたが、医師の診断によればそうではないと言う。自分の体内にはいったいどのような病巣があるのだろうか。それは、いまの医学では誰にも解き明かされえないのだ。もっと、のちに世代を選んで生まれていれば、このような病弱の身であっても、ずいぶんと生きやすい世の中になっているのかもしれない、などとあらぬことさえ考えてしまう。